荒俣宏



『万博とストリップ 知られざる二十世紀文化史』
 (集英社新書
 2000年1月刊)
 集英社新書の第2回配本の中の1冊。それを今ごろになって読むなという話もないではないが。
 内容は、なかなか一口に説明しがたい。というか、タイトルの「万博とストリップ」で全てを言いつくしている感がある。20世紀の文化の変遷を、「万博」と「ストリップ」の関係を覗き窓にして振り返ってみようという、まぁ、そんな1冊だ。
 荒俣宏は、ちょうど、この本が出た2000年の1月あたりには、NHKの人間大学講座で、パリ万博についての講座をおこなっていた。ということで、その時期の荒俣宏の興味は、20世紀前半の文化史、それも、万博という国家的事業の中に位置づけられたものに顕現する、文化潮流のようなものの上にあったことがわかる。
 といっても、すでに絶滅したと思われていた「博物学者」としての風格さえ漂う荒俣宏は、むしろ単純に、万博という、思想と政治とエンターテイメントの混じり合ったいかがわしささえ漂う、あの祝祭的な空間に興味を引かれ、標本を採取するようにそのフィールドに赴いていただけなのかも知れない。

 20世紀の文化の特色はいくつかあるが、そのひとつに「『ファッション』というスタイルの発見」というようなものがある。
 それまでの階級社会では、例えば日本なら侍がかみしもをつけ、町民が普通の着物を着ていたように、衣服とはすなわち、まず何よりも、その人が所属する階級をあらわすものだった。そこではたしかに流行ファッションのようなものはあっても、その流行が、階級間を越えて飛び火することは、直接にはなかったはずだ。
 つまり、どんなに流行になっても、江戸城詰めの武士が着流しで出歩くことはあり得なかったし、長屋の熊さんがかみしもをつけることも一般にはあり得なかった(で、あろうと思う。江戸期の風俗に詳しい人、間違ってたらご教授を)。
 そうした事情は、西洋にあっても同じことで、服装には階級に応じたものがあって、それを飛び越えて同じものがどの階級でも流行するというようなことは、市民社会の成立以前にはなかったわけだ。
 20世紀は、市民社会の成立以後、たとえば旧貴族がスタジャンを着ていても別に問題ない、ということを発見してしまった。ここに、現代で言うところの「ファッション」という概念が成立する。
 と、これは「人間大学」での荒俣氏の受け売りになってしまうのだが、ファッションが発見された以上、実は「裸」も新たに発見されざるを得ないのである。
 階級社会で、貴婦人がどんなに着飾り、百姓がどれだけみすぼらしい格好をしようと、ぶっちゃけた話が裸になってしまえば、どちらがどちらと見分けることなどできない。つまり、脱ぐということは、階級社会の文脈では、階級を無化することにつながっている。だからこそ(もちろんそれだけではないが)、ストリップというのはタブーであり、不道徳な行為であったとも言えるのではないだろうか。
 ところが、市民社会の誕生とともに衣服がただのファッションとなり、せいぜい、その人のセンスや富裕度を表す代物に過ぎなくなると、今度は裸になるということの意味合い自体も、問い直されなくてはならなくなる。
 「裸」が発見されるということになると、今度は必然的に性も発見されることになる。20世紀の文化史において、セックスの発見はもうひとつの大きなトピックである。

 さて、ここでようやく、話は本書の内容に帰る。本来、工業技術の博覧会として1851年ロンドンでスタートした万博は、1878年の第3回パリ万博で、ようやくセクシーダンスと結びつく。
 なぜ27年という年月がかかったのか。それは、第3回までに、万博の意味合いが「工業博覧会」から、市民へのプロパガンダを主とする「未来の素晴らしさをアピールする催し」へと転換していったからである。そうなれば、市民達からはエンターテイメントが期待される。そして、その前からのカンカンの流行、という流れを受けて、ここでセクシーダンスが登場してくる。それがベリーダンスだ。
 ロイ・フラー、ジプシー・ローズ・リー、ジョゼフィン・ベーカーといった時代の名花に彩られつつ、本書は万博、そしてストリップが時代の期待を体現していたころのあゆみを概観する。
 章ごとにテーマが違うので、そのテーマにあわせて、舞台となる時代も行ったり来たり。このへん、少し構成のすわりが悪いような気もするが、文中で丁寧に「以前にも〜万博の折に登場した」と注釈を入れてくれるので、そこまで気にはならないだろう。
 少し気になるのは、日本におけるストリップについて、割かれているページがちょっと少ないということ。日本の場合、おそらく、見せ物小屋系のヌードショーからの流れもあると思うので、これはこれでいろいろと複雑になってしまい、別に1冊くらい本が書けるのではないかという気もする。
 ちなみに、主な話の流れ以外にも、いろいろと豆知識が満載で読んでいて楽しい本書ではあるが、やはり白眉はエピローグで示される、近代オリンピックとストリップは、発生した土壌が同一であるという指摘の箇所だろう。適当にはしょって引用し、幕としたい。

 そこで、万博はオリンピックを同時開催し、優れた肉体に、優れた産業製品に与えられたのと同じ金・銀・銅メダルを授与したのである。
 この発想の下には、二十世紀に生まれたもっとも特徴的な人体観が宿されている。人体を物と見る発想である。物であるから、魂や霊や人格とは切り離して、鑑賞することが可能となる。(中略)二十世紀にファッションやスポーツ、あるいはセックスが大々的に意味変換したのも、このような下地があったせいである。
 (中略)なかでも強力だったのが、フェティシズム、すなわち物神崇拝の流れであった。物を神として崇拝することである。むろん、人体各パーツもまた、物なのである。
 この結果、胸だけを愛したり、乳房やくるぶしに異様な執着をみせる傾向も生じた。二十世紀の美女観の中核をなすセクシーガールの理念は、こうして生まれたのである。肉体を誇示するヌードダンサーやストリッパーは、まさに生まれるべくして生まれた新しい「美女」の典型であった。
(2002.8.24)


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