江藤淳



南州残影
 (新潮文庫
 2001年3月刊
 原著刊行1998年
 初出「文學界」1994〜98年)
 平成6年から平成10年、江藤自裁の前年にかけて書かれた、西郷南州、つまり西郷隆盛の歴史評伝です。西郷の、というよりも、むしろ「西南の役における西郷の」と限定詞をつけた方が正確でしょうが。
 文庫版の帯には「『西郷南州』は思想である この国でもっとも強固な思想である」とのアオリが入っていますが、この帯や裏表紙での梗概のごとく、単に「西郷という思想」などとひとくくりにしてしまっては、かえって問題がぼやけてしまうでしょう。
 ここは、ちゃんと腑分けをした方がよろしい。この評伝の核心は、「後世の人間にとって、西南の役における西郷とはどういった存在であったか」「西郷にとっての西南の役は、周囲に担がれての出陣だったのか、あるいは思想的行動だったのか。思想的行動だったとすればどのようなものか」という、およそ2点です。 
 また、最終的に、その論点をピンホールとして投射される、批評家江藤淳の姿を見なければならないことは、言を待たないところではありましょう。

 さて、それでは江藤の立論は如何と問えば、まずは勝海舟の言葉を引きつつ、敗軍の将西郷隆盛への、海舟の追慕の念といったようなものを浮かび上がらせるところにスタート地点を定めます。
 そこから、「西郷は敢えて負けるとわかった戦に身を投じたのではないか」という推論をたて、もってある種日本人には共通する「敢えて敗れた」者への愛惜の念を確認して、後世の者にとっての西郷が、「敢えて破れた」ことで思想的に盤石な「概念」となった、と結論づける。以後、江藤自身もこの立場から惜しみなく西郷を愛惜し、西南の役の展開を事細かに追いかけていきながら、西郷が抱いていたのではないかと思われる、国を危ぶむ心情を称揚していくことになります。
 この本はこの「西南の役の展開を事細かに追いかけていきながら」という部分が割に多くて、まぁ、それは歴史を扱う以上は仕方ないかとも思うものの、時折、論の流れを再確認しておかないと、江藤の狙いがどこなのか見失いそうになるほどでした。このへん、「江藤と言えばスピード感のある評論」という印象が強かった僕としては、ある種の腰折れかとも思ってしまいます。
 ちなみに、この西南の役の戦況について述べている部分は、読んでいるときの感覚としては鴎外の史伝に近いものがあります。ただ、文章は鴎外の方が読んでいて整理されていると感じる面がありました。

 それで、と。
 一応の論旨については、これで概括できたかと思うので、次にこの歴史評論自体を、評論として腑分けしていくことにしたいと思います。
 さて、江藤が本書で解題を試みたものがなんであったか、というのは、すでに書いたとおり「後世にとっての西郷という思想の意味」「西郷にとっての西南の役の思想的意義」の2点であるということでひとまず理解できるとして、では評論家としての江藤は、その解題によって何を言わんとしているのでしょうか。その答えは、おのずから西郷の位置づけ方の中に現れてきます。

 本書において、西南の役における西郷の敗戦は、戦略的に「敢えて敗れた」ものである、という推測の延長線上に位置づけられます。さて、それでは何故に「敢えて敗れる」必要があったか。
 江藤は、西郷軍が鹿児島を出発する際に熊本鎮台へあてた照会書の「拙者儀、今般政府へ尋問の廉有之」という文言を引きます。「尋問したいこと」という強い文言は、それすなわち政府の過ちを糺す意の表明であり、そして「御失徳」に「立至」った(熊本県令にあてた手紙の別紙より)有栖川宮熾仁親王ら皇族(必然的に明治天皇を含む)をはじめとする政府首脳陣への異議申し立てこそが、西郷の真意であると考えられると。
 そして、目的があくまで異議申し立てである以上、戦争の勝敗はさして重要ではない。いや、むしろ、敢えて敗れることによって、その異議申し立ての声は勝った場合よりも長く、言ってしまえば永遠に響き渡り続けるのではないか。そしてそれこそが西郷の企てたことだったのではないか。
 江藤は、少年時代のみずからが体験した第二次大戦敗戦の経験を引き、こうした国の敗亡を、西郷は予感していたのではないか、と言います。明治政府が歩みだした道は日本の歩むべき道としては間違っており、その先には遠かれ近かれ、自分の体験したような敗亡の風景が広がっていると、西郷は確信していたのではないか。それゆえに、西南の役を始めたのではなかったか。そうしたことを江藤は「ほとんど疑わない」と言い切ります。

 江藤はまた、日本浪漫派の蓮田善明の歌碑を田原坂に発見した思い出を語り、三島由紀夫を見いだしたのが蓮田だったことを述べて、終戦時に自裁した蓮田と、ご存じの通りの経緯で割腹自殺をした三島を、西郷の系譜に連なるものと眺めてみようとも試みます。この場合、むしろ蓮田の方が三島よりもクローズアップされているわけですが。
 歌碑の歌は「ふるさとの 驛におりたち 眺めたる かの薄紅葉 忘らえなくに」。
 死を知って、なお死に向かって歩く人が奏でる調べとは、勇壮なものでも悲壮なものでもなく、この「ふるさとの驛の薄紅葉」のようなかそけきものではないか、との着想から、江藤は西郷と三島とをつなぐことを思いつき、そして西郷や三島が死を賭したのはこの「ふるさとの驛の薄紅葉」のようなもののためだったのではないかと思い至ります。
 このままでは「薄紅葉」は、「蒸気機関車」や「鹿鳴館」に駆逐されていってしまう。そのレールの先には国の滅亡が待っている。このレールに、断じて異議申し立てを突きつけなくてはならない、と、まぁ、そんな感じですか。
 ちなみにこの蓮田のことを扱った文章の頭には、ご丁寧にも田原坂への出がけに地下鉄サリン事件があったことに触れて、地下鉄サリンと敗戦とを共鳴させようとしています。

 してみるに、江藤が西南の役の思想的な内実を定義し、再構築していくことで、何を言いたかったのかも次第に判然としてきたと言えるのではないでしょうか。つまり、「この国が歩んでいる方向は間違っている」という西郷の異議申し立ては、現代の日本にもそのまま当てはまるのではないか、というのが、江藤の言い分のようなのです。
 が、何となくうやむやに首肯したくなる江藤の主張であることは確かですが(江藤なので右寄りなのはしょうがないとして、それをさっぴいてもうなづきたくなる部分はあります)、しかしそれにしたってどうにも陳腐に思える部分がありはしませんか。
 なぜ陳腐に見えるのか、そして何故それでもうなづきたくなる要素を持っている主張なのか、そして、その主張を導くための西南の役論に、何も問題はなかったのか。これが、本書を読んでいく上での肝であります。

 少し話を整理するため、本書の成立手順から踏まえて考えたいと思います。
 本書「あとがき」で江藤自身も述べているように、本書の元となった「文學界」の連載は、平成6年(1994年)の夏、新しく編集長になった寺田英視が江藤に執筆依頼を行ったことからスタートしています。
 連載は平成6年10月号から、以後、平成10年1月号まで10回にわたって続き、間に地下鉄サリン事件などを挟みつつ完結することになる。また、前史的に踏まえておくべき事柄として、江藤がかつて書いた「海舟余波 −わが読史余滴」のことも踏まえておくべきでしょう。時系列に従って並べるなら、「海舟余波→→寺田編集長からの執筆依頼→連載」ということになります。
 ここで注目してみたいのは、依頼があってから、実際に執筆に取りかかり、第1回分の原稿を脱稿するまでの期間の短さです。あとがきでは「平成六年夏のこと」としか書かれていないので、依頼のあった日の正確な日付は不明ですが、平成6年10月号の「文學界」には文庫本のページ数にして24ページにわたる、第1回の原稿が掲載されているわけで、どう考えてみても、この第1回の執筆に江藤が費やした時間は、長く見積もって3か月というところなわけですね。しかも、その間「新潮」での「漱石とその時代」の連載を続け、また他にも細々とした仕事をしていると思われますから、時間的にはかなり短い期間であったと言わねばならない。
 江藤はこの執筆依頼を「あの頃は海舟、今は南州かと考えているうちに、何となく納得が行ったような気持ちになって」引き受けたと書いていますが、といって、この短い執筆期間で、ある程度まで全体の着想を固めて、原稿を執筆したというのは、「何となく納得」というほとんどゼロからのスタートではほとんど不可能なように思われます。江藤がここで「何となく納得」と言っているのは、執筆を行うきっかけとして「なるほどそういう時期か」とでもいうような意味合いで、どうも西郷の思想、あるいは思惑については、以前から腹蔵するところもあり、また寺田編集長と話をする中でも、その腹蔵するところを開陳できそうだと感じたのではなかったでしょうか。
 してみると、途中、蓮田を結節点に三島へとつながる系譜を執筆の中で思いついてはめ込むといったイレギュラーなものはあったにせよ、本書の核になる部分は、執筆を始める平成6年の段階で、すでに青写真が出来ていたものと考えるのが妥当と思います。
 つまり、この本で描かれる西郷像は、最初から最後まで、江藤淳が描いた推論のコース上に存在し続けているということです。言い換えれば、本書で描かれるのは、西郷の歩んだ道をたどる江藤の思索であるかもしれないが、同時に可能性としては、江藤の推論にしたがって配置され、描かれる西郷の姿であるかもしれないわけです。

 1冊の本の成立過程から、そこまで言うのは軽挙であるとの声もあるやもしれません。しかし、これはある程度、僕の方も確信を持っています。
 解説の上村紀美雄氏は、「もしこれが純粋な史書だったら、私でも即座に三つや四つの疑問を提出できるだろう。いったい征韓論議はどこへいったのか。横井小楠が西行法師にたとえた西郷の隠遁癖をどう見たらよいか。彼がその中心だった留守政府とは?(中略)そうしたこちたき史実の森にはいっていく代りに、氏はひたすら西郷の沈黙の声に聞き入り、彼とともに西南戦争を、そして大東亜戦争を生きた」とし、「そこに伝記でも戦記でもなく、ただひたすらに南州の『残影』を追い、明治から現代に至るグローバルな時空間を吹き渡る歌に耳をすます氏の、志のありかが見てとれそうな気がする」と言います。
 が、志としてはそれで良いとしても、歴史評論というジャンルにおいて、仮に江藤が、歴史の都合の良いポイントをピックアップし、些事を閑却することによって一定の推論を押し立て、もってみずからの論を世に問うたとしたら、それはどこまでいっても歴史とパラレルで斬り結ぶことのない、弛緩した議論になりはしないでしょうか。
 もしも、それでもそうならないとすれば、なぜに本書の最も優れた部分が、西郷本人とは関わりのない、後世に作られた軍歌「抜刀隊」について述べられた部分なのでしょう。これについては、上村氏の解説も、「何といっても圧巻なのは、怒りと戦いの曲譜『抜刀隊』行進曲のくだりであろう」としていますが、この部分が圧巻たり得るのは、思うに、江藤が推測した「抜刀隊」の意味が、ここにいたって大東亜戦争当時の日本と激しく対峙し、その喉元を食い破らんとするからではないでしょうか。
 ここでようやく、江藤は自分の推論と歴史との拮抗点を見いだすのです。そして、その歴史と激しく対峙する評論こそが、江藤の評論がしばしば宿す、あのスピード感だったのではないでしょうか。
 かつて、小林秀雄は日本の歴史教育について、「通史でやるから面白くないんだ。歴史には急所といえるような要所要所がある。そこを重点的につかんでおけば、歴史は面白くなる」というようなことを言いましたが、これはむしろ、歴史評論について言えることで、その急所を外した、あるいは急所を押さえ込んでも、歴史を自分の考えに従わせて描くばかりで、そこを正面から破ろうとしない歴史評論は、これは論が弛緩して行かざるを得ないと思います。
 歴史評論のあり方については、他にも思うことがないではありませんが、それはさすがに今は置くとして、どうも本書において感じる、評論というよりも史伝を読むのに似た感覚というのは、そのあたりに原因があるような気がするのです。
(2002.7.18-21)


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小林秀雄
 (講談社文芸文庫
 2002年8月
 原著刊行1961年)

●「批評する」とはどういうことか


 江藤淳の言っていることは、結構な量の資料を駆使している割に、あんまり実証的ではない。例えばどっかの大学の紀要にこれをそのまま載っけても、決して芳しい反応は返ってこない気がする。もちろん、その分、面白いので、そういった部分での反応というか手応えのようなものはあるんだろうけど。
 でも、それが学問と批評という、2つの行為を分かつ分水嶺だよな、と考えさせられるのである。

 学問は、日々積み重ねられ、落ち葉が積もるように層をなして、やがてひとつの山脈を形づくる。そしてもちろんそれは、1人だけの人間によってなされる仕事ではない。
 従って、学問というのは、その成果を、後に続く者がリファレンスできるように、誰が読んでも等質に理解できるような形で、残していかなくてはいけない。そのためには、こう結論づけるその典拠はこう、というのを、なるべくきっちり残す必要がある。
 それに対して批評というのは、あくまでも個人的な営みであるのではないかと思う。
 それはつまり「俺はこう読む」ということだ。
 ちょっと言い方を変えれば「小林秀雄をこんな風に読む俺」を表現する、ということだ。
 もちろん、あまりに無茶な主張はたやすく打ち破られるだろう。しかし、読みとれる情報を可能な限り漏らさず、誤りなく読みつつ、そこに解釈の世界を「どのように」広げるか。
 それが批評というものの本質のひとつであるとするなら、もちろん、そこに後に続く者への配慮など存在する必要はない。批評という領域では「『俺の読み』と『お前の読み』は違うのだ」ということが前提となっているのだから。この前提がなかったなら、同一の物は誰が読んでも同一なのだから、「こんな風に読む俺」を表現することに意味などなくなってしまう。
 江藤淳の書いたものを読んでいると、そういったことを考えさせられる。そこが面白いなあと思う。

●批評に実証性は要らない


 江藤淳が言っていることというのが、畢竟、あまり実証的ではないというのは、例えば、次のような箇所によく表れている。

(前略)
 たとえば、十五年後に書かれたこの小品の中の光景は、いかにあの断片に描かれた小笠原の光景をほうふつとさせるであろうか。これは真珠湾爆撃の航空写真を見ての感想であるが、いわばその写真を通して、小林はあのパパイヤの実のような丸木舟を思い浮かべているのだ。あの時と何が違うか。すべてが同じではないか。イメイジで思索するとは、このように思索することをいうのである。(後略)
(p.95〜96 第一部第四章より)

 戦前、小林が小笠原で見た南国風の海岸の光景(それは自殺を考えていた小林の中で、死のイメージと結びついていると江藤は言う)が、後々まで小林の中で息づいていたことを語る場面である。真珠湾爆撃の写真を見ての感想、というのは、「文学界」に発表された「戦争と平和」という小文のことを指す。
 なるほど、「戦争と平和」の描写と、江藤が新たに資料として提出した原稿用紙に書かれた遺書体の文面との間に、響きあうものを感じることは決して無理な飛躍を伴うものではないだろう。しかし、遺書に描かれたイメージが、一直線に「十五年後」の描写へと結びついていると考えてしまって良いものか。
 2つの点を結びつけているのはイメージである。そのイメージの親近性において、2つの文章が、小林の中で何らかの連環を紡いでいたとしても不思議ではないし、その意味で、江藤が主張するように、南国風の光景が後々まで小林の中で息づいていたと考えることは可能だろう。
 だが、それは何によって実証されうるのか。
 何によっても実証されないし、また江藤は、実証の必要を感じてもいないだろう。あるいは実証の必要性を放棄していると言うこともできるかもしれない。
 「あの時と何が違うか。すべてが同じではないか。」とは、小林の思索を江藤がトレースしながら語っている言葉に他ならない。それはつまり「お前の言いたいことはわかるぞ」と江藤が小林に向けて語っているのだ。その共感性でもって、批評家は批評の対象に接近し、同化し、そしてその中に自分自身を溶かし出しながら批評する。
 江藤はおそらく、そこに実証の必要性を見なかっただろう。江藤にとって、実証は批評の責務ではないのだ。

 批評に実証性は必要がない。江藤がそう考えたとして、しかしそれは、すべてを恣意的に語ることが許されるという免罪符とはなりえない。なぜならそこには、批評される対象が存在しているのであり、それを裏切るようにして事実を曲げて書くことは、自分の批評の真実性をも裏切ることになるのだから。
 『昭和の文士たち』に収められた堀辰雄論で江藤は、堀が思わせぶりな虚構を作り、その中で堀自身の理想郷を構築しようとしたとして、堀の「風立ちぬ」を批判し、その虚構性を堀の「毒」であると位置づけた。それはまさしく、「事実を曲げる」ことに対する江藤なりの処し方であり、態度のあらわれであろう。
 その事実改竄を拒絶する態度は、江藤自身が小林秀雄を論じる際にも適用されていたと考えて差し支えない。ただし、それはむろん、「江藤にとっての事実」への忠誠に他ならないのだが。

●いくつかのベクトルについて


 江藤は本書で、いくつかの方向性にもとづいて、小林像を創りあげている。
 まず、若き日の長谷川泰子、中原中也との三角関係がもたらした傷と、その中で小林が自殺を考え、そしてその苦しみの中から「自殺の理論」なるものをつかみとって帰ってきたときの体験が、後々まで一貫して小林の中に底流しているということ。
 これは、「小林秀雄の批評における他者性」とか、「中原の純粋さ、無垢さを、あらかじめ青年になる前に失っていた小林」とかいった形でも変奏されるテーマと、同一ではないにせよ、陸続きであると見てよいと思う。
 あまり煩瑣になってもいけないので説明をごく簡単に済ませてしまう。ただし、この解釈は他の方の意見を参考にしていないので、これは僕の誤読であるかもしれないことをあらかじめ付記する。

 20歳になる前に父を亡くし、母が病に倒れて一家を背負う羽目になった小林には、例えば志賀直哉が抱え込んだような、「イエ」制度との、そして自らとの「和解」という問題が、すでに成立しえなかった。あるいは言い方を変えれば、和解すべき他者がすでに見失われていた。
 その中で、中原と付き合い、そしてやや中原との付き合いに疲れ始めていた長谷川は、小林に惹かれるようになる。小林もまた長谷川の愛情に応え、三者の入り組んだ関係が形成される。精神を病んだ長谷川との生活に傷つき、そのあまりの他者の不在、すなわち孤独感から小林は自殺を考え、小笠原へと長谷川を伴っての小旅行に出かける。
 しかし小林は自殺を思いとどまり、その中で「自殺の理論」とも呼ぶべき、ある種の批評家としての覚悟を持ち帰った。その理論は、戦前から戦中を貫き、「私小説論」などの小林の代表的な批評の中に底流していると、江藤は主張する。

 もうひとつが、戦後、平野謙や本田秋五ら、雑誌「近代文学」の批評家たちによって作られた小林像への反駁である。
 これは、全体的に概括して、「こういった像に対抗してこうした像を提示した」とまとめるのが少し難しいが、しかし、本書でしばしば平野や本田の小林論があげられ、「しかし私はそれを肯んじえない」という立場から反論が繰り返されるのを見れば、そうした方向性があるのを認めても良いのではないかと思う。
 それは戦後、「近代文学」という大きな勢力を持った雑誌の中で、平野らが大慌てに精算しようとした戦前・戦中という時代を、小林秀雄を通して再構築しようという試みであり、文壇あるいは文壇政治と不可分なものとして語られてきた1人の批評家を、ひとまずその動きから切り離して、その批評家の批評を生き直そうという試みでもあるかもしれない。

 「生き直す」とは、要するにトレースするということに非常に近いのだが、批評対象、つまりこの場合には小林との距離をゼロに近い値まで持っていって、小林の孤独を自分の物にし、同時にその過程で江藤自身が持っている考え方や方向性を、江藤自身が賞翫している小林の中に溶け込ませてしう、ということを指している。
 それは何よりも、「そのことを思うとき、私は〜のことに思いをいたさずにはいられない」といった江藤の口ぶりに表れている。
 「AとBとが深く結びついているのは当然ではないか、自明のことではないか」と江藤は言いたいのに違いない。このとき、江藤は小林の思索を自ら体験しているのだから、江藤にとってはそれがとても自明なのだ。だが無論、江藤の強い口ぶりにもかかわらず、小林の思索を江藤というフィルターを通してしか眺められていない読者にとって、それは「当然」でも「自明」でもないのである。
 江藤の論理がやや牽強付会の気味を帯びていると感じられるのは、そこに秘密がある。

●批評家ののめり込み


 こうした江藤の批評態度は言うまでもなく、小林秀雄が歴史を語る際の態度に非常に近い。
 「歴史とは母親にとっての死んだ我が子だ」という「歴史と文学」での小林の有名な比喩は、そこに哀惜の感情が伴わなければ、いかに事実として過去の出来事に対する記述が正しくても歴史とは呼べない、といった意味合いととらえられているが、無論、そこには小林の、対象に対する「のめりこみ」があるのだ。
 江藤もまた、ここで同様に、小林秀雄という「歴史」にのめりこんでいる。
 学生時代、僕自身は小林秀雄をあまり読まなかった。
 不勉強な、というそしりは甘んじて受けるが、読んでいて、なにか「この人の書く物はやばい」という直感があって、なかば意識的に小林は忌避してきた。
 小林の批評には、読者を吸い込む真空のような部分があるように感じられる。読んでいるうちに「ああ、その通りだ」と思わされてしまう。高校時分、文学かぶれの人間の多くがそうであるように、僕も太宰治に共感し、「わかる」と勘違いをしていたが、小林秀雄には、太宰に似た魅力と危険さがある。
 いかに「その通りだ」と思わされても、それは実は「その通り」ではないのだ。「機械」について書かれた「横光利一論」などは、ひときわその傾向が強い。それはかつて、あるいは今でも、僕にとっては毒なのだった。
 江藤もまたここで同じように小林秀雄にのめりこんでいる、というわけではない。
 そこには十分な知性によってとられる適切な距離があり、それがこの本を批評として成立させてもいる。しかしだからこそ、我々読者は江藤の誘いに乗っかって、ともに「のめりこむ」べきではない。少なくとも僕には、まだ、そこに必要な距離をとれるだけの知性はない。
 その代わりとなる方法論として、僕は江藤の「のめりこみ」を懐疑する。強烈なのめりこみは、その代償として、真実の一部の上を糊塗し、隠蔽せずにはおかないからだ。
 本書にも、真実と同時にそうした隠蔽があるのではないかと思う。それを下賤な勘ぐりだと言うのなら言え、と思っている。しかしおそらくそれでも、江藤の主張は批評としては正しくとも、真実そのものではないのである。
 そして、それこそが批評を批評たらしめている秘密でもあるのだ。
(2003.10.1-7)


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江藤淳

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