巌谷國士 |
『シュルレアリスムとは何か -超現実的講義-』 (ちくま学芸文庫 2002年3月刊 原著刊行1996年6月) |
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●現代美術の「謎解き」ちょっと前、といっても2年以上前ですが、現代美術とかにちょっと興味が湧いて、たしかその時に買った本。これの次に読んだ塚原史『ダダ・シュルレアリスムの時代』も同時期くらいに買ったような気が。 それをたっぷりと本棚で寝かせて、興味の薄れた今になって読んでみました。それもちょっとどうかとは思う。 現代美術というのは難解だということになっていて、僕自身も恥ずかしながら苦手だ。作品そのものを見てもよくわからなくて、解説を見てようやくああなるほど、と感心したりしている。 でもそれはある意味では無理もないことで、芸術というのも小説や思想と同じで、それが生み出される背景にある、それまでの美術界の歴史や潮流をあるていど踏まえていないと、その正確な意味あいというのははかりがたいものなのだ。僕はそのことを森村泰昌氏の『美術の解剖学講義』を読むなかで実感した。特に現代美術は、ソシュールの言語学とかレヴィ=ストロースの構造主義とかベンヤミンの思想の概念を取り込んだりもしていて、その傾向はますます強くなり、そうした背景に頓着しない一般の人々をある意味で置いてけぼりにしているところがある。 置いてけぼりというか、そういう「わかりやすさ」を拒絶する姿勢というのは、現代という時代のひとつの特徴でもあるし、それにしたがって、なかば自覚的に鑑賞者から大衆を切り捨てているところはあるのだろうと思うけれども。 そうした現代美術の「難解さ」は、どうもシュルレアリスムあたりからその度合いを強めている。 ●読みやすい講義著者である巌谷國士氏はシュルレアリスムの研究者として、その分野では有名な人らしい。肩書きとしては仏文学者ということになっていて、澁澤龍彦などの研究もしている。ちなみに、字面からするとえらく昔の人に思えてしまうが、それは巌谷小波と岸田國士の名前があらかじめ僕の中にあるからで、現在62歳の著者はまだまだ研究者としては第一線で活躍中である。 本書は講義をそのまま文字に起こしたもの。もとはCWS(クリエイティブ・ライティング・スクール)というところでおこなった3回の連続講義だったらしい。まあ、カルチャースクールみたいなものなのかなぁ。 そうした場所での講義ということで、話の内容は初心者向けの入門。話し言葉ということもあって、非常に読みやすい。僕もあんまり美術方面に深入りするつもりはないので、入門的な内容で十分だし、こういう本は非常にありがたい。 3回の講義は「シュルレアリスムとは何か」「メルヘンとは何か」「ユートピアとは何か」と題されていて、それぞれ、現代の日本でこれらの言葉が本来の意味から離れて持ってしまっている意味あいをひっぺがし、本来の意味合いにおいてこれらをシュルレアリスムとの関わりの上で説明しなおす、という方向性を持っている。 たとえば「シュール」という言葉は、現代の日本では「わけがわからない」というか、文脈を切断するような脈絡のなさに対してもちいられる。「シュールなギャグだね」とか。でも本来「sur」というのは英語で言う「super」、日本語で言う「超」なわけで、これ一語では何も意味しないわけだから、この日本語での「シュール」はどうも「シュルレアリスム」から来ているらしい。 でも本来シュルレアリスムというのは文脈の切断とか非現実的なものをあらわす名前ではなくって、むしろ現実の延長線上にある、日常生活の視野の中では隠れているけれども現実と陸続きの世界を表現するものだ、と巌谷氏は言う。いわゆる現実というのは、みんながそれを確固なものだと思いこむことで成立している、実は非常に不安定であやふやなもので、そこから離れた視線で見れば、そこに別のものが見えるんだ、というわけで、なんか吉本隆明氏の『共同幻想論』を僕などは思いだした。 ●社会による思想の毒抜きこうした説明のしかたの裏にあるのは、おそらく、「シュルレアリスム」や「メルヘン」が、「シュール」「メルヘンチック」に日本語化され、意味がずらされることで、本来そこに秘められていた社会に対する毒が希釈されてしまうことへの、巌谷氏自身の嫌悪だと僕は思う。 「ユートピア」については、本来「為政者にとっての理想社会」=「管理社会」だったはずの意味合いが「理想郷」へとずらされてしまうことで、日本の現代社会自体がユートピア化(=管理社会化)していることが隠蔽されていると著者によって考えられている。 こうした思想の毒抜きは、基本的には誰も意図していなくても起きる。思想というのは本来、社会にとっては「敵」であって、それに対する自浄作用みたいなものが、特に日本のような平穏な社会には強くはたらくことになる。具体的な物言いをすれば、よくわからない考え方、自分たちの生活の埒外にある思想については、これをわかりやすい形、つまり自分たちの生活の枠の中に存在する形へと「翻訳」することで、社会というのは思想を無毒化してしまうものなのだ。 あるいは、「ユートピア」に見られるように、あまりに現実批判的な概念は、いったん現実と切り離されることで無毒化される。 それは社会というものが基本的に持っている性質であって、学問とか思想というのは、だから基本的に反社会的なものだと言える。 シュルレアリスムは、自動筆記(とにかく何も考えずにひたすら筆を走らせる詩作の技法)とかデペイズマン(本来そこにないものを画面の中に配置することにより、世界の変質を企図する技法。コラージュやデュシャンらによるレディメイドなどもこれの亜種)によって、世界から、その裏側に貼りあわされて不可分のものと信じられている「意味」を剥ぎ取り、それをずらして見るものの感覚を延長させる。言い方を変えれば世界がぐにょんと延びることで、それまで見えていなかったものが見えるようになる感覚を、見る者に味わわせる。 ちなみに、意味を引っぺがしっぱなしにするのがダダらしいが、ここでは本題ではない。 こうした「世界」と「意味」との不可分性を疑う考え方というのは、ソシュールの「シニフィアン(表現内容)」と「シニフィエ(表現手段)」あたりから来ているわけだが、そこらへんを踏まえずに実際に作品を見ても、やっぱり「よくわからん」ということに多分なる。 だからこそ、シュルレアリスムをはじめとする現代芸術を見る際には、こういう入門書を読み、その上で、その作品が乗っている文脈に即して作品を味わうべきなんじゃないかと思うのだ。「よくわからん」でも、それは決して無価値な作品ではない。作品に触れてもそれを理解できないのは、せっかく現代を生きる人間としては悲しいことだと思うのだ。 (2005.11.9) |
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