石川達三 |
『人間の壁』 (岩波現代文庫・3巻分冊 2001年8〜9月刊 底本刊行1958〜59年) |
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●石川達三の作家的立場と事件への視座石川達三は、以前に「蒼氓」は読んだことがあった。ブラジル移民の窮乏を描いた中編で、第1回の芥川賞受賞作だ。とはいえ、当時は芥川賞と言っても、そこまでものすごいイベントではなかったことを踏まえておく必要はある。第1回の芥川賞では、太宰が選に漏れたというエピソードが有名だが、それは現在、僕たちが今の芥川賞の状況から推し量るような、または太宰が選考委員だった川端宛の書簡のスタイルで発表した「私に名誉を与へて下さい」という例の文章から未練たらたらぶりを察して、そこから名誉の大きさを推し量るような大事件というわけではなかったはずだ。むしろ、賞自体を軌道に乗せたいという、菊池寛ら文芸春秋社側の観点から考えると、ここで知名度の低い、素地になる筆力・取材力のある、社会派という主流から外れながらも地に足のついたスタイルを持っていた石川を選んだのは、妥当だったという見方も出来る。(だいたい、太宰の選外を問題にするなら、外村繁の「草筏」だって、第1回芥川賞の選外としては話題に上らねばならないところだろう) 当時のムーブメントは、平野謙の三派鼎立説をそのまま襲えば「新感覚派」「プロレタリア文学」「旧来の私小説」の3つのスタイルが、それぞれしのぎを削っていたという形になるわけだが、その中で、ややプロレタリア文学寄りではありながらも、マルクス主義的でない、社会問題を小説に仕立てるという石川のスタイルは、新鮮味があった。 で、「人間の壁」。1957年から59年にかけて、朝日新聞に連載された。 新聞小説というのは、結構、地力がないとできない仕事で、小説家としての石川の腕の確かさがそれだけでもうかがえるが、「蒼氓」と同じくやはり社会問題を扱った本作は、その題材の面からも大きな話題となった。 題材となった事件の背景はこうだ。 1957年、財政再建団体となった佐賀県は、教育予算の削減のため、教員の大量削減・給与の昇級延期などの方針を打ち出す。しかし、県教組はこれに反発、一定の割合ずつの教員がまとめて早退をする休暇闘争をおこなう。県側はこの組合運動を違法として県教組幹部10名あまりを逮捕したが、この県側の強硬姿勢には一般市民からも批判の声が多かった。 この実際の事件を題材に、1人の女教師を描いたのが本作。当時から日教組系の団体には右翼からの風当たりが強かったし、また、教師が争議活動をおこなうことについては、一般市民にも抵抗があったらしく、朝日新聞への講義もずいぶんあったようだが、ま、それはそれとして。 石川達三は決してマルクス主義系の作家ではないわけだが、本作に関して言えば、全面的に教師側の論理に立って、文部省・自治省・県・県教委・自民党を貫く保守的な動きに「NO」を突きつけている。 (前略)私は左翼的でもなく、そうなりたいと望んだこともなかったが、ただ一つ私を怒らせたことは、国家の教育の基本的な方針を定める文部当局のなかに、政府与党の勢力安定のために教育を利用しようとするはっきりした姿勢が読みとれたことであった。佐賀事件が起ったそもそもの原因も県教育行政のゆがんだ姿勢から発したものであった。私の筆は勢い、そうした在り方を糾弾するような形に動かざるを得なかった。 (「経験的小説論(抄)」(本書中巻収録)より) 石川自身は、こうしたスタンスを取るに至った理由を、そんなふうに説明している。 実際に休暇闘争が行われたのが57年の2月、新聞連載開始が同年の8月末からのことだと言うから、その間は6〜7ヶ月程度しかない。 石川は「経験的小説論(抄)」の中で、「私はそれまではほとんど深い知識をもっていなかったので、この作品を書く前の約八カ月を調査に費やした。」と述べているから、その言に従えば、実際に休暇闘争が始まる直前から取材に入っていることになるが、そこにいたるまでに、すでに全国的な話題になっていたのかどうか。調べてみないとわからないことなので、うかつな判断はしたくないが、もしかするとこのへんは石川の記憶ちがいも混入しているかもしれない。しかし、いずれにしても、かなり早い段階から、石川がこの事件に興味を寄せたことは間違いない。 なお、スタンスの取り方については、石川は前述の通りのコメントをしているが、なぜこの事件を題材に小説を書こうということになったのかは、本書だけではうかがい知ることが出来ない。 調べてみればわかることかもしれないが、今、そこまではしない。 が、ひとつ言えるのは、それだけ早い段階からこの問題を小説に仕立てようと考えるに至ったのであれば、石川は「私はそれまではほとんど深い知識をもっていなかった」とは言いつつ、事前に最低限の情報は持っていたし、自分なりのスタンスも持っていたと考えておかしくない、ということだ。 ●教養小説としての構造主人公の女教師、志野田ふみ子(後に離婚して尾崎ふみ子となる)という架空の人物をして、佐賀事件という背景の中を生きさせたこの小説だが、では、この物語とは、いったいどのような物語であったのだろうか。「佐賀事件をあつかった」「教師の側に立った書き方がされた」と、それだけでは、小説を説明したことにはなるまい。事件の背景や作者の視点は、物語の構造とは別の物である。 物語は、ふみ子が突然に、自主退職を勧告されるところから始まる。佐賀事件前年の大量人員整理の一環というわけで、やはり教師ではあるが、県教組の専従職員である夫と共働きのふみ子は、「共働きだから退職させても急に食べていけなくなるわけではない」という理屈から、退職勧告を受けた。 しかし、教員組合の中での出世に汲々とし、夫婦らしい愛情を示してくれない夫への幻滅から離婚を考えていたふみ子としては、これを受け入れるわけにもいかない。勧告を受けた他の教師と同様、その勧告を無視し続けることでこれを乗り切る。あくまで勧告でしかないから、こういうこともできるわけだ。 教育委員制度が公選制から任命制に変わったり、県の財政難から教員の昇給延期・人員整理に拍車がかかったり、といったおおやけの動き。そして担任の子ども達の1人が列車事故で死んだり、自民党系の保護者が役員を務めるPTAからの労働運動への風当たりが強くなったりといった、ふみ子の職場の回りでの潮流。さらに、夫との離婚や、同僚の教師への淡い恋心など、ふみ子自身の周辺での出来事の中、ふみ子はやがて、教職員組合の活動の意味を知り、事件の渦中を生きていく。 これを一言でまとめれば、「ふみ子が教職員組合の活動に目覚めて成長していく物語」だと言えるだろう。 どこかで見た物語の型だ。つまりこれって、ビルドゥングスロマン(教養小説)ではないか。 「尾崎ふみ子先生も一条先生のとなりの席で、黙って議論を聞いていた。去年の四月までは、彼女も他の女教師と同じだった。組合のことにも無関心、教育界全体の動きにも無関心だった。しかし十カ月のちの現在、彼女は別の人間になっていた。何としても割り切れない憤りや悲しみが、幾つも幾つも胸の中にごろごろしていて、せめてそのうちの一つでも解決しなくては、自分が苦しくてたまらなくなっていた。だから彼女にとって、組合の闘争は(組合のため)ではなくて、彼女自身のための闘争であった。」(下巻p.52)という一文は、それを明瞭に表している。 ここを踏まえれば、ふみ子が「教職員組合の活動に目覚める」ことは、「『組合のこと』や『教育界全体の動き』が自分の立っている教壇とひとつながりのものである、と認識すること」とイコールであるということも見えてくるだろう。 そして、ふみ子たち現場の教師のスタンスというのは、戦後のいわゆる「新しい教育」である。この「新しい教育」というのが大義名分になっているところが味噌で、これによって「新しい教育」=「組合」←→「保守党」=「教育勅語のような戦前の教育」という図式が描かれることになる。 だからこそ、「組合活動」に目覚めるという、人によってはあまり好意的に見ないような事象が、「成長」である、ということになるわけだ。 ビルドゥングスロマンがビルドゥングスロマンとして成立するためには、主人公の歩んでいく方向が「良いこと」であるという大義名分が必要となる。そうでなければ、誰もそれを「成長」とは呼ばないからだ。 人によっては、「新しい教育」と「組合」が本当にイコールなのかという疑問を抱くかもしれない。そのあたりは作者も周到に、何度も「組合活動で政府与党による首切り・すし詰め学級に対抗しなければ、ただでさえ貧乏な教師達は、とても新しい教育を教壇で展開することは出来ない」という論理を展開していて、こうした構図がかなり自覚的に描かれたことをうかがわせる。 もしも、組合活動と新しい教育とが直接的に同一の物ではなくても、保守党の「政府与党の勢力安定のために教育を利用しようとするはっきりした姿勢」への抵抗という目的のもとでは、利害関係は少なくとも一致する、というわけである。 ●構造の中の希薄そしてこの図式に基づいて、夫との離婚も、同僚教師への恋心も、生徒達との関わりも、位置づけられていくことになる。ふみ子と別れる夫、建一郎は、元々教師であり、組合の職員でもあるが、「新しい教育」のため、といった目的ではなく、自分の立身出世のために組合を利用しようとし、それに失敗すると保守党と気脈を通じて別の教職員組合を立ち上げる。従って、この夫との離婚は正しいことと見なすことができる。 ふみ子が恋心を抱く教師の沢田は、組合とはあまり関わりたがらないが、新しい教育を、教壇の上で実践している。従って、ふみ子も彼に恋心を抱く。 最後の最後、沢田のプロポーズをふみ子は断って、組合活動に専念しようとするというのは、ふみ子自身が、新しい教育(=沢田)と同化するのでなく、むしろこの新しい教育を庇護する立場になるということを暗喩していると考えることが出来るだろう。 ただし、こうした構図に基づくということは、教育の方針や方法をクローズアップしすぎて、肝心の教育対象である子ども達の個性を、ともすれば軽視してしまう危険性を秘めている。なぜなら、先に挙げた構図には、どこにも子ども達の入るべきポジションがないからだ。ふみ子が受け持つ子ども達は何人か登場するわけだが、どうもどの子も印象が薄いというのは、そのあたりを反映しているように思えてならない。 ついでに言っておくと、この小説が書かれてから45年あまり、「学校の教師たちの間では(一度は読まなければならない本……)と言われていたようであった」(「経験的小説論(抄)」)とのことだが、そうした教師たちからの授業を受け続けた僕自身の経験から考えると、戦後の「新しい教育」の敗北というか末路というかを知っているだけに、そもそも大義名分となるべき「新しい教育」という言葉自体が、どこかしらうそ寒く聞こえてしまうというところはある。時の流れというのは小説をも風化させるのだ。 もちろん、だからって戦前の軍国教育を賛美するつもりもないが。しかし熱意と経験だけで教えられても、こっちとしてはたまったもんじゃないというのは、これ事実である。残念ながら、大学に入るまで、僕自身は、自然と尊敬できるような頭の出来をした教師というのには、ついぞお目にかかることがなかった。 (2003.4.10-11) |
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