小野不由美 |
『東亰異聞』 (新潮文庫 2002年2〜3月刊 原著刊行1998年) |
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大尊敬している方が、以前、『屍鬼』よりは『東亰異聞』が良かったとおっしゃっておられたのを思い出すけれど(ちなみにその方は『東亰異聞』はごくわずかに惜しい、という評価で、『屍鬼』はどうしようもない、と評価されておられました)、確かに、あと一歩、腹ごたえが足りないというか、作者や登場人物の知性が、飾りのままで作品の上を素通りしていくような感じがあったものの、面白いのは面白かったです。 こういう、知性やうんちくが散りばめられつつ、それが小説の厚みになっていかないという感触は、割に最近の売れ筋小説の傾向とも重なる気がするんですけど、まぁ、それはさておき。 「解説」での野崎六助さんは、推理小説(というか探偵小説と呼ぶべきか)としての趣味より、怪奇幻想小説としてのテイストを重視したコメントを寄せてます。その「探偵小説の皮をかぶった怪奇小説」というところに、時代相との関わりを見ようというわけですが、それはちょっと一面的すぎるかも知れないなと。 構成にかなり意を凝らした小説だと思うのです。推理小説のワクの中では、金田一耕介的な因果話が展開されるのですが、そこで諸悪の根元であるかのように描かれる初子の呪詛が、推理小説というワクを包み込む怪奇幻想小説というスパンから見ると、正しいものである。で、探偵役の万造と、妖怪の黒衣との重なり合いが、初子のそれと同様の価値の転倒をもたらします。そして、その価値の転倒を見たときに、ワトソン役の新太郎が劇中で漏らす文明開化への失望が、ワトソン役という推理小説のワクを超えたところで、実に微妙な位置を獲得してくるわけですね。このへん、あまりネタバレになり過ぎないように気を使って書いてますけど。 そういう重層的な構造に、鏡花・乱歩・久作というあたりの流れを意識した耽美的な趣味が影響してくるわけですけど、どうもこの耽美的幻想趣味が、今ひとつ作品の本質まで及んでないのかな、という気はします。 鏡花でも乱歩でも、代表作で言えば、怪奇趣味の幻想美を抜いたら、作品が成立しないわけですよ。でも、この小説の場合は、先にも言った「探偵小説の皮をかぶった怪奇小説」という、いわば2本立的な構成も影響してるんでしょうが、怪奇趣味・幻想趣味じゃなくても、価値の転倒を活かしていれば、作品は成立してたんじゃないかというように思います。それが、ある種、小説の弱点になってくるのかも知れません。 (2000.7.4) |
『屍鬼』 (新潮文庫 ????年刊) |
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★ネタバレ注意★
●「バトル・ロワイアル」との比較において読み始めてから読み終わるまでだいたい1週間。まぁ、スピードがついてからは速かったかな。 まぁ、あちらこちらで言われていることではあるようだが、和風ホラー風味の『バトル・ロワイヤル』。後は芥川の『地獄変』もちょっと入ってる。 文庫版の解説で、宮部みゆきがキングの「呪われた町」の名前を挙げていましたが、これは読んでないのでわからない。ただ、同時代性とかを考えると、読者にとっては、一般には「バトル・ロワイアル」との親近性が、一番に感じられるのではなかろうか。97年に第1次稿が完成したという「バトル・ロワイアル」(出版は99年になってから)と、98年に刊行された「屍鬼」。両者はその構造において非常に似ている。 ただ、困ったことに、小説の出来は「バトル・ロワイアル」の方がいい。って、別に困らないか。 小野不由美は、さすがに文章はこなれているのだが、こなれていたところでだからどうした、という感じはぬぐいがたい。 文庫にして全5巻、およそ2000ページに及ぶ大作だが、これ、300〜400ページくらいに収まりきる内容ではないのだろうか。どこに2000ページを費やさねばならない必然性があるのか全くわからず、正直、作家が短くまとめる手間を省いて得意げにベラベラと書き流しただけの手抜きではないかと、憤りさえおぼえる。 最初にも述べたように、本作は「バトル・ロワイアル」に似ている。 どこが似ているか。まず、バカスカ人死にが出ると言うところだが、これは別に相似と言うほどのもんでもない。それより重要なのは、次々と死んでいく人間達が、それぞれに名前を持ち、生活を持ち、個人レベルでの屈託やストーリーを持っているということだ。それぞれに周囲との人間関係があり、抱えている問題や小さい幸せを持って日々を送っている。それが不条理に切断されてしまうから、そこに悲劇が生じるし、恐怖が発生するわけだ。 次に、そうして死が連鎖的に起きていく中で、それが起きている閉ざされた集団(「バトル・ロワイアル」なら高校の1クラス、「屍鬼」なら田舎の小さな村)が、実は何らかの必然性があってそうした集団が形成されているわけではなく、何の意味も関連もない個々人が、何かの共通項(高校生なら年齢だし、村人なら地縁というものだ)でひとくくりの集団に押し込められているに過ぎないことが見えてくるということ。 ただし、「バトル・ロワイアル」ではクラスの出席番号付きで、その集団の限定性というか、「これだけしか人間はいませんよ」というのを示してくれるのに対して、「屍鬼」では、村の要になっている家とか場所とかにまつわって、後からどんどん登場人物が出てくるため、ちょっと間延びしてしまう部分がある。 この間延びした感じは意外に尾を引く。ここでの「間延び」というのは、要はその集団の限定性(「これだけしかいないんだ」という感覚)がぼやけているということに他ならないので、「どんどん人数が減っていく」となかなか思えずに、恐怖感や切迫感まで、いっしょに間延びしてしまうのだ。 ●単調な構成が恐怖感を摩滅させる本作の話の進み方は、多種多様な登場人物が登場する割に、意外と単調で面白味に欠ける。 まず、舞台となる外場村に、深夜、引っ越しのトラックがやってきて、なぜか引き返していく。小さな村のことなので、そしてまた、少し前に、村の一角に、村にはそぐわないような洋館が移築されたところだったので、そんなことでも村中の話題になる。その話題になっている様子を、Aという人物を中心に短く描き、またBという人物を中心に描き、さらに、C、D、E、Fと、短いカットを積み重ねていく。 次に外場の中でも、ちょっと他の集落からは外れたところに位置する山入という集落で、住民全員となる老人3人が死んでいるのが見つかる。バラバラ死体が混ざっていたこともあり、警察も捜査にやってくる。これは大事件だということで、またそれが、村の人々の話題に上る。その様子を、引っ越しトラックの件と同様に、A、B、C、Dとそれぞれ違う人物を主役にした短いシーンで、様々な視角から描いていく。 こういう積み重ねが、ひたすら続けられる。 手法としては、またぞろ引き合いに出すのも気が引けるが「バトル・ロワイアル」によく似ている。しかしひとつの事件を何人かの人物の視点から多角的に描くということであれば、それは芥川の「藪の中」以来、何人もの作家が採ってきた方法であって、ここでことさらに類似を騒ぎ立てるほどのことではない。 問題は、延々とこの構成が続けられるので、いかにも話の進みがのろいということだ。 多角的に事件をとらえていくことによって、作者がどういう効果をねらっていたのかはわかる。それは、事件の被害者が、そして加害者も名前を持ち、人生をもっているということを否応なしに認識させるし、噂というものが無意識的な悪意を伴って、徐々に形成されていく不気味さも表現しているだろう。 しかし、引っ越し未遂事件があり、それに対する人々の反応を描き、それが一通り描き終わったら、今度は山入集落での怪死事件があり、またそれに対する反応を描き…というのでは、構成として単調に過ぎるのではあるまいか。 「事件A→反応A’→事件B→反応B’→…」といった具合で、つまりいくつのも事件や反応が、並列的に起きていくわけではなく、それぞれ整然と順を追って起きていく。 ということは何を意味するかというと、「反応A’」が描かれている間は、読者は「次に何が起きるのか」を想像することこそあれ、そこに予想外の事件をぶつけられることがない、ということだ。最初のうちはそこまで気を回していずとも、やがて、話の構成パターンが見えてくると、「もうそのおばちゃんが騒ぐのはええがな。次に何が起きるねん」といった苛立ちをおぼえる。 それは、ホラー小説であるこの「屍鬼」にとっては致命的な、恐怖感の摩滅を生じさせる。いや、実際のところ、長い割に、怖いと感じられるシーンはごくわずかだったのだ。 実際のところ、やがて幾人かのキーパーソンが見えてきて、彼らの試行錯誤がはじまると、話の構成はそこまで単調でもなくなるわけだが、なんせそれまでが長いし、そうなってから後も長い。もうちょっと、はしょっていい部分はあったと思う。 ●「異端者」=「屍鬼の群れ」=「反乱したロボット」ところで本作では、芸術家というのは、ちょっと異端的な存在であるということになっている。 というのが誰のことを言っているのかといえば、もちろん、主役級の人物の一人、室井静信のことを指しているわけだが、若き異端児である結城夏野もまた、何かを作品にすることこそないにせよ、芸術家気質だと言ってもいい。 芸術家が特別な存在であるという書き方自体は、そんなに珍しいことではない。泉鏡花なんかでもそうだ。何かあっても、画家や作家はえてして、生き残ることになっている。それもしばしば、人外の存在からお目こぼしをもらう形で生き残る。 怪事件というのは語り部を残さねばならない。「遠野物語」だったか、山の中で妖怪の起こした洪水に襲われて、ほぼ全員が死亡する中、「お前はこれを後の世に伝えろ」と言われて助かった、てな話があったりする。 だが、それは異端性というよりも特権性と呼んだ方がいいような性質だ。 「屍鬼」の場合、それは特権的だということではなく、たとえば夏野のように積極的に事件の解決を模索したり、あるいは静信のように屍鬼たちの論理に共感してしまったりという、集団の中での異端性という形になって現れてくる。 このあり方が、芥川の「地獄変」との類似として、先に指摘した箇所だ。 類似と言っても、芥川のように芸術の至上性を、小野不由美が言いたかったわけではないだろうが、しかし、ある人物が異端的であるがゆえに、一般の社会、あるいは集団を構成する論理に馴染めない、はみだしてしまう、というのは共通性を持った部分だ。それは、まさにそれだからこそ異端である、というところへ回帰し、ついには「異端的である自分」が存在する限り、自分は社会からはみだしていく、という、アイデンティティーと社会性との相克という限界状況へと突き進んでいく。 それはおそらく、小野不由美が本作の根幹テーマのひとつとして定めたものだろうし、だとすれば、静信と同様に存在そのものが異端な屍鬼たちと、人間との戦いは、たとえばチャペックの「RUR」のような、「反乱するロボット」とどこかしら似たものに映ってくるということになる。 さてそれでは、「屍鬼の群れ」=「反乱したロボット」という構図が何を意味しているかというと、これはとりもなおさず古典的に、人外の存在である「屍鬼」の意味をずらしていくことで、人間たち、あるいは村の秩序、そういったものを逆照射していこう、という試みであると言ってもいいように思う。このへんは一読すれば感性的にもわかる範囲の事柄だ。 ただ、そうした裏面の構造があるから本作が優れている、というわけではないのは、すでにいくつか指摘してきた欠点が身をもって証だてるところであろう。文庫版解説の宮部みゆきはそこのところを過大評価するが、それをもっとうまく描いた小説は他にもあるわけで、そんなモラルハザードの問題を今さら持ち出されたところでなんぼのもんじゃいという話である。 ●建築趣味のリアリティしかしながら、あまりに欠点ばかりをあげつらうのは公平性を欠くというものだ。 正直、この長さの前には多少の美点も消し飛ぼうというものだが、僕としては、日本家屋の間取りとか建築構造に妙にこだわっている小野不由美の姿勢は評価したいと思っている。 これは、日本的なヴァンパイアである屍鬼たちが、まずあらかじめ内側から招き入れられないと、家の中には入ってこられない、という設定からの要請もあると思うのだが、作者は、登場する家々の間取りをいちいち解説しているほか、どの部屋で何が起きる、というのをかなり綿密にコントロールしているふしがある。 舞台となる外場村には、何世代にもわたって暮らされてきた家屋が多い。 玄関を開けるとまず三和土があって、すぐに板張りの廊下がある。そこに面した障子を開けると畳敷きの居間と、その奥にふすまで仕切られた仏間があって、雨戸を隔てて縁側があって、庭に通じている。 そうした構造を踏まえて、この部屋では家族の誰が寝起きしてるとか、だから屍鬼がまず忍び込むのはここだとか、そういうのにかなり気を配っているように思われる。 それは当然ながら、主立った家の間取りをちゃんと設定してあるということで、たとえば次のような箇所にそれは顕著に現れる。 戸口の中にはかなり大きな踏込があって、一段上がって台所になっている。小さなテーブルが置かれ、いちおうダイニングキッチンの体裁になっているが、椅子のひとつは倒れ、テーブルも誰かが押しやったように斜めになっていた。ビニール製のテーブルクロスは半ば落ちかけ、卓上の小物は倒れて転がっている。 (第1巻p.220 山入の村迫家の様子) 妙の寝室は家の裏手にある。国道ではなく、裏の田圃に接する庭に面していた。その寝室を出て廊下を抜け、仏間を兼ねた座敷に入る。入って妙は目を覆った。 (第1巻p.309 矢野家の様子) まぁ、どの家でも構わないのだが、とりあえず目についた2カ所を抜き出してみた。もちろん、さらに重要な家屋である病院や寺の間取りは、さらに詳しく書き込まれている。 なぜ、そこまで細かく設定したのか、作家の真意をはかるのは不可能だが、多分、「こういう出来事が起きるのはこんな家のこんな部屋」というのを、かなり明確に持っている作家なのだろうと思う。そういえば、「東亰異聞」でも、物干し台のようになったベランダで男が炎上するシーンとか、かなり印象的ではあった。 そしてその反面、非常に重要な建築物でありながら、屍鬼の本拠地である洋館は、その間取りをあまりつまびらかにしないあたりは、おそらく計算してのことなのだろうと思わされる。 昨今のミステリ界では、森博嗣をはじめ、建築探偵シリーズの篠田真由美とか、妙に建築にこだわりや興味を持っているらしい作家が多いが(島田荘司の館シリーズとか、そういえば板東眞砂子も建築を勉強してたらしいし)、小野不由美もまた、その系列に入るということなのだろうか。 いずれにせよ、設定的な必然性もあるし、どこから屍鬼がくるのか、といった部分でのリアリティも感じられるしで、このこだわりは作品をいい方向に引っ張っていると思う。テクストの特徴が素直にいい方向に出ているという、この作品の中では珍しいパターンだ。 できればもうちょっとコンパクトにまとまった作品の中で、そうしたこだわりを見せつけてほしかったという気はするのだが。少なくとも「東亰異聞」はかなり面白かったわけだし、全然ダメな作家ではないと思う。それだけに、もうちょっとがんばってる作品が読みたいな、という、長い割には食い足りない作品であった。 (2003.4.26-28) |
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