尾形仂



『鴎外の歴史小説 -史料と方法-』
 (岩波現代文庫
 2002年8月刊
 原著刊行1979年)
 歴史小説と言うことで、「伊沢蘭軒」などの史伝物も対象に含むかな、と思っていたが、実際に本書の中で論じられているのは、「興津弥五右衛門の遺書」「阿部一族」「佐橋甚五郎」「護持院原の敵討」「大塩平八郎」「堺事件」「魚玄機」の、いわゆる「史伝」とは呼ばれない歴史小説群だった。まぁ、史伝は史伝であって歴史小説とは呼ばない、という人もいるから。
 さて、内容としては、鴎外が当たったと思われる史料を同定し、史料の参照箇所と小説とをつきあわせていくことによって、鴎外が自分で作り出したオリジナルの箇所を探り、そこに鴎外の制作意図を見よう、というもの。
 先に読み終えた坂内正氏の『鴎外最大の悲劇』と比べるわけではないが、尾形氏は、元が近世の研究者だけあって、史料を取り扱う手順の踏み方がしっかりしていて、非常に安心感がある。安心感があればいい、というものでもないが、ないよりは遙かにいい。
 少なくとも、鴎外が史料をもとに作品を作るとき、鴎外の意志は「史料からどの部分を持ってくるか」「自分で作り出したオリジナルな内容をどの程度までそこに付け加えるか」「それをどのように叙述するか」の3点にのみ働くわけで、史料と作品とのズレとなる「オリジナル」の部分には、それだけ鴎外の生の考えが露出していると考えてよいのではないか、という主張には耳を傾けなくてはなるまい。
 歴史小説について何ごとか考えるんなら、本当はこのくらい細かくことに当たらなくてはならない。自戒したいところである。

 「興津弥五右衛門の遺書」「阿部一族」は、雑誌掲載時の「初稿版」と単行本所収時の「再稿版」の2版がある作品だが、斉藤茂吉以来の解釈として、作品自体は、乃木大将の殉死事件にインスパイアされて書かれたとする説がある。
 扱われた「殉死」というキーワード、さらに当時の時代状況とを見比べれば、それは特に検証を経なくても確定的と言っていいように思えるが、尾形氏はさらに資料的に考えてもその推測が間違っていないと論じ、そして両作品の初稿版・再稿版の成立順序に注目して、「阿部一族」の初稿が成立してから「興津弥五右衛門の遺書」の再稿版が成立するまでの間に、鴎外には何か、稿を改めさせるような心境の変化、考え方の変化があったのではないかと推測する。
 ここで尾形氏は、君臣の間の「献身」という命題に、鴎外が初めて「歴史」という文脈の中で向き合ったのではないかと考える。

 ここで私どもは、再稿本「興津弥五右衛門の遺書」が成ったのが、初稿本「阿部一族」の脱稿後、「佐橋甚五郎」や再稿本「阿部一族」の成稿とほぼ前後する時期のことであることを想起する必要がある。ひとたびそれらの作品で君臣関係の矛盾や権力者と個人の相克を衝いた鴎外が、再び初稿本と同じ立場から、単に史実の正確を期することのみを目的として、再稿本の筆を執ったろうとは考えがたい。思うに鴎外は、初稿本において乃木大将の殉死を弁護する立場から、その行為を統一するものとして、功利の念を没却した主命に対する献身という命題を見いだした。(中略)鴎外の描き出した、『翁草』に伝える興津弥五右衛門の場合は、権力者と個人とのたまたまもっとも調和的に結ばれた場合である。しかし、いかにして、そのような調和的なかかわりあいが可能であり得たのか。一時の激情に駆られて草した初稿本を急遽世に発表し、次に遠くそれを突き放して見たとき、鴎外の胸には当然そのことに関する疑問がわき起こってきたにちがいない。
 「阿部一族」はその疑問を追求して、その調和的な関係が崩壊し、破局に終わる場合を描いた。してみれば、再稿本「興津弥五右衛門の遺書」において鴎外が、初稿本の中心命題をそのままに据え置き、その前後の節を克明な史実の再現をもって包んだのも、功利の念を没却して主命の前に献身するという行為が、いかなる歴史的条件の中で果たされたのか、さらには殉死という行為が初稿本でとらえたようにそのまま個人の献身とつながるものであったのか否かを究明しようとする意図に出たものと考えるべきではなかろうか。

(p.54〜55「興津弥五右衛門の遺書」)


 歴史小説の成立する条件についての重要な示唆を含む一文だが、氏の言うとおりであるとすれば、ここにはすでに、後の史伝への一歩があると同時に、初稿本が決して史伝的(いわゆる「歴史其儘」)でない、かえって菊池昌典の言う「借景小説」的なものであったという示唆もまた読みとることができる。そして、後者については、本書を貫く、鴎外の歴史小説に対するひとつの見方でもある。
 反面、乃木大将の殉死が確かに一大事件であり、乃木が鴎外にとってはドイツ留学以来の友人であったのは確かながら、なぜ鴎外が「激情に駆られ」て一篇を上梓するにいたったか、については即座に理解しづらい部分もある。坂内氏はそこに、「乃木殉死の理由は西南戦争で軍旗を敵に奪われたことだけでなく、旅順で大量の兵士を死なせたことへの責任感もあった」とする論をひっぱってきて、旅順での戦死者・傷病者の多くは脚気であり、それらを考え合わせれば脚気惨禍の原因を作った一人である鴎外が激したのも当然、とするわけだが、たしかに、そうした推論を許す余地は残っているわけだ。
 乃木大将の殉死は芥川に「将軍」を、漱石に「こころ」を書かせるわけで、その衝撃の大きさはなかなか、現代に生きる僕たちにはうかがい知られないものがあるが、坂内氏の意見も含め、鴎外にとっての乃木殉死がどういったものであったかには、また推測・考察の余地が残されているところかもしれない。ただ、なにぶんにも推測の余地を出ない議論になるのは致し方のないところだろうか。
 このへん、どのようにも読むことが可能な作品のテクストから、作者の意図を推し量ろうとすること自体に無理がある、とする意見も出てくるところだろう。

 さて、本書に所載された各論文は、そのほとんどが昭和37〜40年あたりにかけて書かれている。
 そのころが、尾形氏にとっての鴎外研究の最盛期だったということだろう。その中で、後年の執筆となるのが「大塩平八郎」「堺事件」を扱った論文で、前者が昭和50年、後者が昭和52年に書かれたものとなっている。
 昭和30年代半ばの、大岡昇平と井上靖による、所謂「『蒼き狼』論争」から、そのまま論説の射程が延伸される形で鴎外の歴史小説に対して大岡が攻撃を始めたのが、昭和40年代末から50年ごろのことであったらしい。「『蒼き狼』論争」は、要するに大岡が、井上の「蒼き狼」に対し、現代人を歴史という書き割りの前に置いて書いているにすぎない、としてイチャモンをつけたことに端を発する。
 大岡の主張は、歴史を題材として扱う以上は史料の歪曲や作者の捏造は避けなくてはならない、というもので、たとえば芥川の「地獄変」なり「羅生門」なりのように、現代人を歴史の中に放り込んだ類の、菊池昌典の言う「借景小説」は認めない立場だ。
 この論争自体は、鴎外の「歴史其儘と歴史離れ」、あるいは菊池昌典の「歴史小説とは何か」などを貫通する、「歴史小説のあり方」という問題を考える上では見過ごせない論争だが、井上が大岡との論争を嫌ったために、途中で尻すぼみになってしまった感はある。もっとも、大岡はその影で「姉小路暗殺」など幕末を舞台とした歴史小説の名作を書くわけだから、尻すぼみになったとはいえ、大岡にとっては、少なくとも益のある論争だったのだろう。
 ところで、大岡の論自体とは親和性の高そうな鴎外の歴史小説だが、大岡は論を進める課程で、鴎外の歴史小説を考察し、そこに論難を加えることになる。その課程で、尾形氏の論文も書かれることとなる。

 とりわけ「堺事件」。尾形氏の立場は、大岡の攻撃に対して、ひとつの反措定を企てたものと言う形になっている。
 大岡が「国文学者とは論争をしないことにしている」として相手にしなかったために、論争という形にまではならなかったようだが、大岡の論に触発されて、尾形氏が論文を書いたということ自体が面白い。
 事前の研究で、大岡の立論にあるおかしいところがわかってしまったことも、もちろんあるだろうが、それ以上に、尾形氏が研究者としての節度は守りつつも、鴎外にシンパシーを感じていることが、おぼろげに見えてくるからだ。
 それは研究者として身びいきは良くない、などと騒ぎ立てるまでのレベルのものでもないのだが、尾形氏の向いている方向が、論文というメディアの中でさえテクストに現れてくるというのが面白い。
 本書の圧巻は「阿部一族」での、30ページ近くにわたって鴎外の典拠となったであろう部分が、「阿部一族」の該当箇所とともに羅列されていく場面だろうが、後年の、ややもすれば鴎外の心理を忖度しすぎなのでは、とも思える論文も、それはそれで、それと承知していれば面白いのである。ただもちろんそれは、学術的な正しさ、という点から見れば、坂内氏の説と同様、やや疑問符を付けたくなるような箇所をはらんでいるということでもあるのだが。
 けど、論文ってそういうもんだからなぁ。
 大事なのは、「論文だから間違ったことは書かれてない」などという思いこみを捨てて、「論文だって人間の書くものだ」という地点に立って読むことなのだろう。それは、史料もまた人間の書くものだから、思いこみや脚色は当然あるのだ、という尾形氏の指摘とも通じることだ。
(2003.3.19-20)


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尾形仂

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