上野千鶴子・小倉千加子・富岡多恵子 |
『男流文学論』 (ちくま文庫 ****年刊) |
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いわゆるフェミニズム系の評論。社会学の上野さん、心理学の小倉さん、作家の富岡さんと、多様な角度から作品に照射される鼎談形式の文学評論は、結構、読みでがある。 ただし。読んでいて「どこかで味わったことのある感覚だな」と思って、しばらく考えてから思い当たったのだが、マルキシズム系の評論、あるいは合評会に似たものが含まれている。3人の中でも色々と立場の違いが出てきて口論になってもいるのだが、どこか構造的に予定調和に帰着しちゃうというか、最終的に全てがフェミニズムに還元されがちであるというか。 要するに、読んでて面白い箇所とそれほどでもない箇所の差が激しかった。僕にとっては。 フェミニズム、というのは、たしかに大義名分、錦の御旗となりえる思想的ムーヴメントなのだけれども、それだけに学問的ではない部分も含んでると思う。フェミニズムの見地から作家の意識に光を当てれば、確かに今まで見えてなかったものも見えてくるだろうし、それはとても大事なことであると思うけれども、そこから牽強付会に作品価値の否定や従来の評価の否定に向かう可能性もあるのだとすれば(ごく自然に従来の評価を訂正しなければならなくなる場合ももちろんある)、そのあたりの腑分けは慎重に行うべきだろう。ちょうど、今、マルクス主義系の批評家の評論を読むとき、十分に眉に唾つけながら、重要な評価資料として扱うのと同様に。 吉行淳之介、島尾敏雄、谷崎潤一郎、小島信夫、村上春樹、三島由紀夫が取り上げられている本書だけれども、吉行と三島に関しては、なんか物足りない…もう一歩進んで考えなきゃいけないんじゃないか、というような感想を抱いた。他の諸氏に関してはまず順当かな、と思ったりもするけど。 最も手ひどくやっつけられているのは吉行淳之介。小市民的な私小説で、不必要な仕掛けが多すぎてそれを巧く使いこなせず、今読むと古くさいだけで滑稽、ということになっているんだけれども、じゃあそれがなぜ評価されて世に出たか、というあたりになると、ちょっとツッコミが足りないんじゃないかと懐疑的になってしまう。 同じけなすんでも、谷崎潤一郎とか村上春樹のは、なんか読んでて納得できたんだけど…。 三島については、ちょっと手に余ってるというか…外縁を回ってるだけで、内奥まで入っていけてない感覚がありました。 以上、とても偉そうな素人評ですが、なんかフェミニストというのは、苦手ですね。男のフェミニストの90%以上はただの嘘つきだし、女のフェミニストは会議の場に甲冑を着込んでやって来るというような所があって。 単純に女性を大事にしましょう、と唱えるだけのアホフェミニストなら無視すればいいだけなんですけど、そこに論理が伴ってきたとき、こっちは反論もしづらいわ、態度の改善もしづらいわで。 (1999.4.17) |
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