宇野邦一



『ドゥルーズ 流動の哲学』
 (講談社選書メチエ
 2001年4月刊)

●魅力と距離


 ドゥルーズについては、ニーチェについてドゥルーズ自身が書いた入門書を1冊と、ドゥルーズの思想についての入門書を2冊読んでいる。つまり、ドゥルーズ哲学への入門書としてはこれが3冊目。
 さすがにそろそろ、その思想の全体像が、まだまだ朧気ながらも見えてきたというあたりだと思うんだけど、しかしその反面、それを説明するのは、ますます難しくなっていく。
 ドゥルーズの思想は、ある意味、非常に理解しやすい。リゾーム、器官なき身体、脱領土化と再領土化、ノマドロジーと、哲学用語としては非常に魅力にあふれる独自の用語と、常に世界をその構成の固化から救い、外部へ向けて開いていこうとするその開放性は人々を引きつけ、そしてその魅力ゆえに、用語と全体的な方向性のみをピンポイントでつまみ出しては恣意的につなぎ合わせるような、安直な理解のされ方を、特にポストモダンの時代にはされてきた。
 そうではない方法でその思想を理解し、そしてそうではない理解の仕方とはどういうものであるのかを感想という形でここに記すのは、これは考えれば考えるほど難しい。
 そもそも、その思想が広く知られるようになった段階で、多くの紹介者がそれに失敗したからこそのポストモダンだったわけだし。
 とはいえ、だから書きません、というのは、本読みとしてはあまりに無責任な姿勢というものだろうから、少しゆっくりと感想を記していくことにしようと思う。

●ヒューム理解について


 ちくま学芸文庫から、その名も『ニーチェ』『ヒューム』という、それぞれの思想家についての入門書が出ている。著者はジル・ドゥルーズその人。
 ずっと疑問だった。ニーチェはともかく、なんでヒュームやねん。
 宇野氏は、ドゥルーズが解説書や論文を書いている幾人かの思想家たちについて、ドゥルーズが彼らの思想に何を見ていたのかを解説した第1章で、ヒュームの懐疑的な経験論の、徹底的な理性との対決姿勢をとりあげる。
 ロック、バークリーの後を受けたイギリス経験論の流れの中でも、ヒュームは特に、理性の認知する対象の同一性を虚構と見なす懐疑的な立場をとる。人間の知覚の対象は、様々な状況、観念、印象の中で絶えずあらゆる形に変化しているのであり、そこに「AはBである」という同一性を認めようとするのは、人間の想像力の生み出す虚構に過ぎない。
 宇野氏はそれを次のように語る。

 理性も悟性も、ある触発や運動の過程を経てはじめて、理性あるいは悟性たりうるのに、しばしばこのような過程から目をそむけ、触発や運動の現実的な過程からみずからを隔離し、それらを無効にするようにはたらく。理性も悟性も、多くの隠蔽や排除や抑制の作用をともなっている。このような作用は決して無害ではなく、認識と現実の間を切断し、切断されている状態を不動の現実として固定するという点で、十分有害でもあるのだ。
(p.43「ある哲学の始まり」)


 たとえば、ここに1匹の汚い痩せた野良犬がいるとする。
 人はその犬が空腹状態にあると考えるかもしれないが、その犬は、もしかすると今、非常な満腹状態にあるかもしれない。それは、「痩せた」「汚い」「野良の」という印象を、過去の経験から「空腹」に関連づけ、推論しているのにすぎない。
 そこからさらに、様々な視覚情報を削ぎ落としていけば、「狼」といえば「飢えている」といった観念が発生してくる。それは別の場所では、「人といえば」「思想といえば」「男といえば」「女といえば」といった、様々な固定化した観念を発生させる。
 それは、認識を、自らの内部へと閉じこめてしまうことに他ならない。
 ヒュームは「飢えている狼」という認識を捨て、「狼《と》飢え」をそこに見いだす。
 そして、同じことは実は、「リンゴを空中へ投げると落下する」「温度や水などの条件が揃うと花が咲く」「朝が来ると太陽が昇る」といった物理的な事象に対しても演繹できる。我々はそれらを、何十回、何百回、何千回と繰り返しているので、経験的に「こうなるであろう」と予測することができるが、「なぜそうなるか」については何も知らないのである。
 「質量のある物質には引力がある」とは知っていても「なぜ引力があるか」という問いには答えられない。経験的な予測を捨て去ることはないが、それは疑えない真理などではない。だからこそ「飢えた狼」ではなく「狼《と》飢え」をそこに発見しなくてはならない。
 ドゥルーズはそこに、内部性と外部性、あるいはのちのリゾームという概念へとつながる思考の種子を見いだしている。

 ドゥルーズといえば、まずベルグソンの思想との影響関係を想起するが、他にもニーチェ、ヒュームはもちろん、カント、スピノザ、ライプニッツ、同時代だがフーコーなど、様々な思想家の思索について、独自の読みを試みている。
 それをたどっていくことで、ベンヤミンの言うコンステラツィオーンのように、ドゥルーズという一人の思想家の思想が、徐々にその輪郭線を描きだしていく。ドゥルーズの愛弟子でもある宇野氏は、内部性と外部性というキーワードを携えて、そこにひとつの星座を描き出している。

●スピノザ理解について -器官なき身体-


 ヒュームと同様、ドゥルーズの思想に深い影響を与えているとされていながら、僕としてはいまいちピンと来ていなかったのがスピノザだ。
 主著「エチカ」の名前くらいは知っていても、そこで展開された時代性からは大きくかけ離れている思考がどのようなものであったか、それをまずわかっていない。彼がレンズ磨き職人であったことだけは、どういうわけだか知っていたのだけど。
 宇野氏は、スピノザに向かい合うドゥルーズの姿を、ヒュームについて考えを巡らせているのと陸続きの姿として説明している。

 ヒュームをめぐって「精神はもろもろの原理に触発されてはじめて、主体となる」と書くドゥルーズは、まさにこの「触発される」ことについて考え抜くことになる。そして触発し、触発されるものとは、何よりもまず身体なのである。
 (中略)しかし、理性や意識や自己をあくまでプロセスとしてとらえるヒューム的思考を、ドゥルーズは、身体と触発をめぐるスピノザのきわめて冒険的な哲学を通じて決定的に深化するのである。まさにドゥルーズは、「スピノザのインスピレーションは根本的に経験主義的である」(『スピノザと表現の問題』)と書くのだ。
 (中略)
(引用者注:デカルト的な)合理主義者にとって身体は、不条理で、たえず矯正すべき対象だが、「経験主義的なインスピレーション」によって思考するスピノザにとって、むしろ身体が何をなすかをリアルに見つめ、その力をいかにひきだすか、ということの方がはるかに問題である。
(p.56「ある哲学の始まり」)

 スピノザは汎神論的世界観によって知られるが、その「神=世界=自然」という立場からは、必然的に、理性を身体よりも上位に置く、従来的なモラルを否定し、精神と身体を等置する視点が発生してくる。
 そして何らかの刺激によって触発された身体は、いくつもの情動を引き起こし、その情動がシンフォニックに響きあうことで、ひとつの反応を導き出す。そうした運動と触発、情動、その強弱、緩急のすべてを器官の働きに帰するなら、そこで見落とされる運動が出てくるだろう。というのも、器官もまた、無数の原子によって形づくられているのにすぎず、そしてその原子もまたさらに小さな素粒子によって構成されているのであり、ひとつの情動は、それら素粒子の運動にまで、解体していくことが可能だからだ。
 こうして、情動を器官の働きに還元することなく、そこに境界のない素粒子のかたまりを見る、「器官なき身体」の概念が生まれてくることになる。

 身体の各部分を器官にカテゴライズしないこの概念は、むろん、概念の固定化を拒絶するドゥルーズの思想と深く響き合うと同時に、無意識を「欲望する機械」と見なしたり、領土という概念を持たずに移動する遊牧民のように思想するノマドロジーの概念を生み出していく、その萌芽であると言えるのだろう。
 思考を停止させないことが哲学のひとつの本質だとするなら、概念の頸城から思想を解き放つ「器官なき身体」とは、まさしく哲学的な概念でもあるわけだ。
 そしてまた、すべてを貨幣価値という素粒子的な運動まで還元してしまう、資本主義というシステムとの類似性も、後にドゥルーズは指摘することになる。

●『差異と反復』


 さて、本書は、ドゥルーズ思想の入門書だ。入門書であるから、その思想を独自に解釈しなおすといった作業をおこなっているわけではなく、かつてポストモダニズムが陥った、鮮烈なキーワードや、主著の中の理解の容易な部分にのみ着目するといった誤謬を避けつつ、その思想についての紹介をおこなっている。
 スタイルとしては、冒頭でドゥルーズが影響を受けた思想家・作家などについて、その解釈の仕方を述べた後、「差異と反復」「アンチ・オイディプス」「千のプラトー」など、主著に述べられた思想を、年代を追う形で紹介している。割にスタンダードな形だと言っていいと思う。
 しかしその中でも、やはり人によって解釈が異なってくる部分はあるのだなと思ったのが、「差異と反復」をめぐって書かれた章だった。

 反復が差異を生み出していく。
 ドゥルーズは、この一見矛盾するようにも見える考え方によって、内部と外部の境界線を突き崩していく。
 「反復」とは「同じ」ものごとを繰り返すことだ。「差異」とは、2つの物事のあいだの「違い」を意味する。しかし、はたして完全に「同じ」ものというのは、この世の中にあるだろうか。
 コピー機でコピーをとるにしても、同じ原本の2枚のコピーは、粒子のレベルではもちろん違いがある。PCにおけるファイルのコピーでさえ、タイムスタンプや、2つのファイルを開くPC間の性能差などによって、完璧に同じものとなる、ということはありえない。たとえタイムスタンプをごまかして同一にし、同一のPCで2つのファイルを実行したとしても、その2つのファイルのうちの一方が、もう片方より後になって作られたという事実はどこにも消えはしない。
 ということはすなわち、「反復」によって作られていくコピーの群れは、ひたすらに差異を創造していく過程でもあるということになる。このとき、世界を構成するあらゆるものは、ひとつの「同じもの」の反復の結果に過ぎないととらえることが可能だ。宇野氏は「ノマド的な配分の哲学にとっては、世界は一つであり、同時に無限の差異であり、その間に表象や同一性などはなくていいのだ。」(p.92「世紀はドゥルーズ的なものへ」)と、そのことを語っている。
 それを読んでいて、そういえば昔、ログインで連載していた「オールザットウルトラ科学」のリードに、似たような文章があったなぁ、なんてことを思いだした…とか書くと歳がばれるね。でも、ポストモダンやらニューアカやらが、僕が知らないところで確実に一般的になって、全然思想とは関係ない雑誌でもそういう記述があった、そういう時代だった。
 いずれにしろ、このとき、内部とか外部といった区別には意味が無くなる。ここに「器官なき身体」と陸続きの部分を見いだすこともできるだろう。
 かつて、篠原資明氏のドゥルーズ入門書を読んで後、僕は「どんなに同じものを反復しようとしても、差異は自然に生成される。したがって、その差異性こそが、ある特定のものごとを考えるとき、本質となる部分だ」という考え方をしていた(篠原氏の本にそう書かれていたというより、自分がそう理解していた、という感じだったと思う。謬見だったとしたら、それはすべて僕の責である)。そこに、多様性の許容を見いだそうとしていたのだと思う。
 その解釈も、間違いではないと思うのだが、それが差異と反復をめぐる思想の全体ではない。今よりも理解が浅かったということもあるだろうが、解釈をする人の視点によって、注目する部分が変わってくるということでもあると思いたい。

●2つの主著・1 -「アンチ・オイディプス」とガタリ-


 ドゥルーズの主著ということになると、まず「アンチ・オイディプス」あるいは「千のプラトー」をあげる人も多いのではないだろうか。
 宇野氏は、ガタリとの共著になるこの2冊を、かなり慎重な手つきで解説している。
 まず、ガタリがどのような人物であり、そしてドゥルーズとの共同執筆が、どのような形でなされたのかを取り上げる。実際、ガタリの名は、ドゥルーズとワンセットで出てくることが多く、しかもガタリ自身がどのような人物だったのか、それをつぶさに知る機会は、あまりない。僕自身も恥ずかしながらよく知らなかったし、まして、ドゥルーズにとってガタリがどういう人物だったのか、ということになると、さっぱりわかっていなかったと言っていいだろう。

 ラカンに師事したガタリは、ラボルト精神病院という実験的な病院施設の主導的メンバーであった。
 この病院の立場は、「精神の病は、まず病院の外部での生活が原因となって発症している」ということを前提に、施療を考えるというところにある。つまり、病院の外で何が起きたか、という原因を知らなければ、病院での施療、あるいは病院がどのような場所であるべきかを考えることも不可能だ、ということだ。
 そして、病院の外で何が起きたかは、常に社会のあり方、人間関係のあり方、生のあり方と密接に関わる。その中での軋轢が、精神の病となって個人に発現するならば、病院を考えることは、社会を考えることに他ならない。
 そしてこのプラグマティックな立場は、ガタリの師であるラカンによって確立された構造主義的フロイト心理学の精神分析とは、決定的に対立すると、宇野氏は言う。いや、対立するのが、そのプラグマティックな側面であるのかどうか、今ひとつ僕は確信が持てないのだが。ラカンの理論ってのが、どうも説明を読んでもピンとこないし。
 とはいえ、このプラグマティックな立場は、それまで、観念的なレベルを脱していなかったドゥルーズの思想を、実際の資本主義社会や人間関係へと展開させることになる。「資本主義と分裂症」という、「アンチ・オイディプス」「千のプラトー」に共通した副題は、それを雄弁に物語ってもいるだろう。

 いずれにせよ、ドゥルーズは、精神医学における「無意識」に興味を向ける。「無意識」は、主体の意識よりも深くで、身体、言語、貨幣、その他諸々の機械的な構造と連結された、それ自体ひとつの機械的な存在だ。
 「器官なき身体」のレベルにおいて、その機械を動かしているのは「欲望」であると定義される。このとき、「欲望」は、意識的に認知できる類の食欲や性欲などのみを意味しない。針で刺されれば痛いと感じ、息を止めれば苦しいと感じるのも、また「欲望」だ。そしてその「欲望」によって、「無意識」が働き、それはさまざまな機械的構造と連結する。すなわち、肉体の全てを素粒子レベルへ解体して考えた場合の「器官なき身体」とは、イコール「欲望する機械」である。
 精神分析は、「無意識」を、常に両親と幼児との性欲の関係、すなわちオイディプス・コンプレックスの中に還元してしまう。それは「欲望」を常に、「欲しい」が「持っていない」という欠如の枠組みの中でとらえることを意味する。
 ドゥルーズとガタリは、精神分析はまさに全てを「オイディプス化」しようとするものであると批判し、むしろ一定の方向性に「欲望」を還元して解釈しない、分裂症的な方向性を肯定的にとらえようとする。そしてそれは必然的に、「欲望」をあらゆる相の中に認め、肯定しようとすることと陸続きである。
 「欲望を全肯定することは社会を崩壊させる」とするポストモダニズム批判の場では、「欲望」というタームが、フロイト的な理解のもとで理解されている、と宇野氏は指摘する。そしてあるいは、ポストモダニズムを信奉する者の多くも、同じ誤解を犯していたのかもしれないのだ。

●2つの主著・2 -「千のプラトー」の主要概念-


 「アンチ・オイディプス」に続けて、宇野氏は「千のプラトー」を解説するが、15章からなる本書を、単純に精読していくという方法はとられていない。
 それぞれがプラトー(高原)としてそびえ、かつリゾーム状につながりあった15章は、従って、結節点を持ちつつも独立している。
 「リゾーム」「戦争機械」「国家装置」などの重要な概念について説明しつつ、宇野氏は、読者が恣意的に、メジャーな章と概念とのみを見ようとすることに注意をうながしている。

 私たちは「リゾーム」という言葉を、自分の思考を開き、転換する機会にするのではなく、ただシニカルにかわすこともできる。たとえば、中心も幹も土台もない、正体不明の組織、誰が担っているともしれない不可視の装置として、この国の「天皇制」を連想することさえもできる。未知の秩序に向けて実験的に思考するかわりに、さっそく既知の何かにむけて未知を還元してしまうこともできる。シニシズムと、自己防衛や秩序回復の本能とは一体である。
(p.174「微粒子の哲学」より)

 フランス人の読むドゥルーズと、日本人が読むドゥルーズには、社会環境その他の差異によって、やはり理解に様々な差異が出てくる。
 しかし、それはひとまず措いておくとしても、1本の樹木のように幹を持ち、枝葉を持つ序列のはっきりした構造ではなく、ハスやサツマイモなどの地下茎のように、特定の序列を持たず、ただお互いを連結する構造を示す「リゾーム」という用語は、それが魅力的なモデルであるだけに、恣意的に用いられてしまう危険性を秘めている。
 あるモデルを、たとえばインターネットなどの構造を「リゾーム状の」モデルだと評するとき、そこではただ便利な用語がひとつ生まれているに過ぎない。そこには、固定化された概念を転回させ、外部へと開き続ける視点は欠落している。
 そしてまた同時に、ドゥルーズの思想においては、基本的に肯定的なものととらえられているリゾームは、それ自体、再領土化により、新たな権力構造として否定的存在となる危険性もまた持ち合わせていると説明される。インターネットがまさにそうだと言ったら、やや僕の私見を挟みすぎたことになるだろうか。
 常に、思考の固定化から、固定的な権力構造から逃走することがドゥルーズの思想の本質のひとつだとするなら、リゾームという構造モデルもまた、その逃走のためのツールでなくてはならない。

 面白いのは、国家とは「戦争機械」であるにもかかわらず、その「戦争機械」は「国家装置」とは相反する概念、肯定的にとらえられるべき概念だと説明されているところだろう。
 人の住むところ、常にそこに発生し続け、固定化を試みる国家という装置は、つねにその機能として戦争をはらむ。しかし、戦争はその中に狂気や裏切りを常にはらむから、実は国家装置にとっては相反する概念でもある。
 ドキュメンタリー番組「映像の世紀」では、ベトナム戦争時、月にその一歩を記した宇宙飛行士たちを、ベトコンにおびえながらジャングルを進む米軍の兵士がねたみ、彼我に向けられる米国民の視線の温度差に、呆然とするような祖国との距離感を感じる場面が登場した。そのとき彼は、アメリカのために命をかけながら、アメリカを憎んでもいたのだ。戦争という悪は、同時に国家という悪にとっても敵である。
 ベトナム戦争やソマリアの悪夢は、今もなおアメリカをさいなみ続けているのだ。

●ポストモダン批判への回答とポストモダンからの逃走


 昨今、ドゥルーズやデリダに代表されるポストモダンと呼ばれた思想や運動は、様々な形で批判されている。
 批判は世俗的、あるいは政治的レベルから哲学のレベルまで、さまざまな形で提出されている。日本においても、80年代後半から90年代はじめにかけて支配的な論調となっていたポストモダン信奉を批判する動きは、経済の失速を背景としつつ、90年代末から様々な形で提出され、優勢なものとなっているように思える。
 それらは様々なレベルにわたって繰り広げられているがゆえに、ひとくくりにその傾向をまとめることができないのだが、本書の中で宇野氏は、そうした批判のなされ方と、それらが何によって起こっているものであるのかを、あくまでさらりと流す程度にではあるが、ことあるごとに紹介していて、それも僕には面白かった。
 そもそも、僕自身がポストモダンとポスト構造主義の区別さえついていない人間なので、あまり突っ込んだ理解はできていないのだが、宇野氏としては、そもそもドゥルーズの思想を「ポストモダン」という枠組みの中で語ること自体に無理があると考えているらしい。
 実際、ドゥルーズ自身は自分の思想をポストモダンと称したことはない旨も書かれているし(自称してるのはリオタールくらいのもんじゃないかとは思うけど)、そもそもそうしたカテゴライズ自体が、ドゥルーズの思想と相容れないものであるのは事実だ。
 さらに、「欲望の全的に肯定しては世界がめちゃくちゃになってしまう」といった、ドゥルーズ思想の理解の不足による批判と、そうした批判を許してしまった受容する側の不用意もまた、別のレベルにおいては存在していた(「欲望」の意味合いは、僕たちが普段の生活において使用しているそれとはかなり大きく異なっていると宇野氏は説く。ドゥルーズの場合、「欲望」という言葉の意味合いとしては、むしろスピノザの「情動」に近い、理性に還元される前の身体的な反応を指す)。
 ポストモダン批判には、ハーバーマスなどが名を連ねる。彼らの批判には的を射たものも多いにせよ、しかしながら先にあげたような単純な誤謬も存在しているということは、ポストモダニズムの時代を、我々があまりに駆け足で通り過ぎてしまったため、その受容をいまだ不十分な形でしかなしえていないことを如実に物語っているように思える。

 ここまで、ドゥルーズの入門書であるこの本に拠りつつ、ドゥルーズの思想について感想を述べてきた。それを簡単に概括しようとすることは適当ではない。
 多様性を特定の共通項に還元してしまわないこと。「AとBはaという共通項がある。だからAとBはaだ」という還元型の思考でなく、「AとBの差異」に注目し、微細な差異の積み重ねとしての大きな隔たりを見続けること。そして大きく隔たったAとZが、それでも保持している同一性の奇蹟をそこに発見しようとすること。
 そうした方向性を持つドゥルーズの思考を、なにがしかの要素で概括してしまうことは、それだけでほとんど暴挙、あるいは冒涜ともいえるだろう。

●哲学は生きているか


 宇野氏は「映画I・II」の解説もしてくれているのだが、ドゥルーズの映画論は、どうも僕にはピンとこないので説明を省かせていただくことにしたいと思う。
 老境にさしかかったドゥルーズは、「フーコー」「襞 --ライプニッツとバロック」「哲学とは何か」などを通して、まさに「哲学とは何か」という問いを問い続ける。
 ちょうど「千のプラトー」の執筆時期にドゥルーズから教えを受けている宇野氏は、この時期のドゥルーズの「哲学とは何か」という問いへの関心はそれ以前からもずっと持続して問われてきたものだと言う。

 けれども、ガタリとの共同作業の間も、またその後に共同作業を一段落させ、再び単独で、絵画に、そして映画に思考を集中させたときも、ドゥルーズは哲学の境界にたち、哲学そのものを問い、点検し、再構築するような試みとして、哲学外の諸領域に向かっていたのである。彼は、そのようにしてたえず哲学の外に直面し、哲学を外部に開きながら、やはり哲学的思考の生命を問うていたように思われる。哲学はまだ生きているか、哲学を死なせるものがあるとしたらそれは何か、哲学に固有の生命とはいったい何か、というふうに。
(p.221「哲学の完成」より)

 素人目には、この時期の、哲学の内部と外部を峻別しようとするかのようなドゥルーズの思考が、一貫して外部と内部の連続性を主張してきたこととどこで折り合いをつけているのか、というあたりがどうもよくわからないのだが、いずれにせよ、ドゥルーズは哲学の生を信じていたし、同時にその生に危惧を抱いてもいた。
 まぁ、連続性がある、ということと、混濁してしまって境界が不分明だ、ということはまた別の話だ。そして、科学や精神医学などが、次第に旧来的な哲学を駆逐しつつある、という危惧がドゥルーズにあったとすれば、それは特に不当なものではない。また、そもそも、その方法論が違うということは大きいだろう。
 哲学は超越性を嫌い、内在性を指向する。特権的な存在をどこかにおくことなく、あらゆる場所に内在しようとする。ドゥルーズの指向した哲学は、まさしくそうした哲学であった。

 1995年11月、パリの自宅からの投身自殺により、ドゥルーズの人生は終焉を迎える。95年は、つい最近のこと、という印象が僕には強い。95年以前と以後で、色々と変わったのだ。
 若い頃からのヘビースモーカーぶりもたたり、肺を病んで人工呼吸器なしでは息のできない体になっていたドゥルーズの老年の様子は、直接に彼の様子を知る筆者の手になるだけに生々しく、痛々しい。
 しかし、その痛々しさとは別に、彼の哲学のモチーフは「喜び」であったと宇野氏は言う。
 ドゥルーズの思想が、それに触れることで人を解放に導き、元気にさせる哲学であることは重要だ。それは魅力的であるだけではない。魅力的であればこそ、僕たちはその内在性を常に自分たちの内に確認しつづけることができるのだから。
(2003.8.19-30)


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宇野邦一

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