上野俊哉・毛利嘉孝 |
『実践カルチュラル・スタディーズ』 (ちくま新書 2002年5月刊) |
|
ちょっと、この本の感想を書くのは気が乗らない。自分がどこまで理解できているのか、ものすごく怪しいから。 書き方はそんなに難解ではないし、カルチュラル・スタディーズだけに題材が身近で、その場その場では理解がしやすいと思う。非常にサクサクと読める1冊である。ただ、それを後から、本書を読み終えて振り返ってみたとき、「あれ? あの部分は、こういうこと…でいいんだよな?」という、不安な気分がつきまとう。 もういっちょ踏み込んで言うと、したがって本書で述べられていることの妥当性について、全くと言っていいほど自分なりの判断が持てないのであった。うーん。 カルチュラル・スタディーズについて自体、僕はずぶの素人と言っていいレベルでしか知識を持っていない。 比較的近年、イギリス(バーミンガムだっけ)で生まれたある種の社会学・思想で、ある時代の相を読む際、思想書だの特別な音楽や小説だのを素材とするのでなく、もっと卑近な、女性週刊誌や、ゴシップや、今だったらインターネットのBBSなどを題材とし、そこに底流している無意識的なもの・時代相を読み解くという手法を持つ。 ものすごく簡単というか、実際これでは何を説明したことにもなっていはしないのだが、まぁ、そんなところまでしか僕の知識というのは追いつかない。 まぁ、だからこそこうして勉強しとるんじゃないか、という言い訳も成り立ちはするだろうが、威張れるほどの言い訳ではない。 さて、本書は、同じちくま新書の「カルチュラル・スタディーズ入門」の後を受けての実践編参考書という位置づけで、ひとまずは受け取っていいと思う。で、僕はその前著を読んではいなかったりするのだが。 扱われるのは集団形式のアートプロジェクトやレイヴパーティ、アニメなどなどだが、参考書だけに、それらの流行の中から実際に時代相を切り出してこよう、ということよりも、カルチュラル・スタディーズの中で用いられる概念やテクニックについて、実例を交えて解説し、実際に実例の中でその概念がどのように生きているのかを解説する、といったことが主眼となっている。 比較的印象に残るのは「トライブ(部族)」という概念についての説明で、僕は「トライブ」と言われても昔のアーケードゲームに「コンバットライブズ」ってのがあったわな、くらいの連想しかできないのだが、要するに、現代の各シーンにおいては、地縁だとか血縁、あるいは思想などで結びついたグループよりも、特定の嗜好のもとに自然と寄り集まったグループの方が重要な役割を持っていて、こうしたグループを「トライブ」と呼ぶのだと言うことらしい。 かつてのいわゆる「ナントカ族」であり、本書ではその実例として、様々な形態でのレイヴがあげられることになる。しかし今現在、私見でもっともわかりやすい実例を挙げるなら、それは「モーオタ」になるだろう。あれこそまさにトライブであると思う。ただまぁ、この辺は、僕があちこちサイトを見て回る中でよく目にするんでわかりやすいと認識してるだけで、一般の人にとってはそうでもないのかもしれない。 しかしながら、参考書であるということは、結局、その中で「カルチュラルスタディーズのひとつの方法論・あり方を示す」ことが目的であり、趣旨である。 他にたとえば、元X−JAPANのYOSHIKIが天皇一家の前で歌を歌った、とかいうのが以前にあって、それがひとつの実例として語られはするが、そうした実例の中から、なにがしかの時代相を読む、ということ自体は目的そのものではないわけだ。 多分、そういう「実例は豊富に示されるが、その中から、何かをつかみ取ること自体は副次的なものでしかない」というのが、僕が本書を最後までつかみきれなかった原因のひとつではあると思う。もちろん、僕の頭が悪いことが大きな原因であることは言うまでもないが、ハナから「参考書だ」と決めてかかってしまえば、もっと読みやすく、理解しやすい1冊だろう。どうも僕は、少し読み方を間違えてたような気がする。 (2003.3.14) |
上野俊哉・毛利嘉孝 |