ピーター・ブルックス



『肉体作品 -近代の語りにおける欲望の対象-
 (新曜社
  2003年12月刊
  田茂樹訳)

●不勉強


 えー、けっこう長い間かけて読んでた本ですね。1ヶ月ちょっとかかってると思います。
 でもその割に、この本から得たもの受け取ったものというのは少ない。というのはこの本の情報量が少ないというのではなくて、おそらくこの本が書かれるにあたってしたじきにされている理論とか知識で、僕がまだふまえていないことが多いのだろうと思う。
 一応専門と言っていい文学評論でこういうのは良くないというか、まあ、不勉強だなと反省する次第。
 とはいえこういう場合、自分の理解できる範囲で理解をおしすすめていくしかないわけで、そのためにも感想は書くのです。

●語りの構造と肉体


 著者のピーター・ブルックス氏はエール大学で教鞭を執っている。僕自身、この人のことをあまりよく知らないのだが、どうも作品の読解そのものと同じかあるいはそれ以上に、作品の形式論とか文学理論みたいな部分に興味を持って仕事をしている人らしい。
 巻末の著者紹介では「精神分析的な知見に基づく物語論を通して、フランスや英米の小説について緻密でダイナミックな作品論を展開する」とあり、「訳者あとがき」では、訳者の高田茂樹氏がブルックス氏の『プロットを読む』(邦訳未刊)を参考にしつつ、ブルックス氏の物語論を概説してくれていて、これが本書を理解する上で手助けになる。
 本書は「近代の語りにおける欲望の対象」という副題が示すとおり、近代の文芸あるいは絵画などの芸術作品における、欲望の対象としての、あるいは欲望の象徴としての肉体(ということはつまり、男性主導であった近代の芸術にあっては女性の肉体ということだ)の描かれ方についての論考だ。
 小説にとって、あるいは「語り」にとって肉体とは何か。この問いに答えるのは容易ではない。というのはつまり肉体とは多義的な存在だからだ。本書の副題を取って肉体とは欲望の対象であると答えるとする。確かにそれはそうだ。だが語りの現場において誰かが誰かに欲情するとき、それは単に性欲という事象をこえて、そこに何らかの意味が付与されていることが通例である。その意味では、肉体とは意味が刻み込まれる場であり、語りそのものであるとも言える。

 このように述べたとき、僕たちが身近に思い浮かべることのできる物語としてラフカディオ・ハーンの『耳なし芳一』があるだろう。
 琵琶の名手である芳一は怨霊にとりつかれ、体中に般若心経を書き込むことで怨霊からみずからの身を見えなくしようとする。周知の通り、耳にだけ経文の言葉を書き込み忘れたために、芳一は怨霊に耳を引きちぎられてしまうわけだが、この説話において、芳一の肉体はまさしく、仏による守護を刻印される場であり、同時に刻印のなされなかった場でもあった。
 これは一見、仏教説話にも見えるのだが、結局のところ芳一が守りきられなかったという点において、本質的に仏教説話ではありえないだろうと思う。
 ちょっと話がわき道にそれるが、考えてみていただきたい。経文を体に書き入れた箇所が怨霊に見えなくなる、あるいは触れられなくなるとしても、文字というのは面ではなく線なわけだから、結局、たとえば「仏」という字のにんべんとムの間なんかは見えちゃってたのではないか。そう考えると少なく見積もっても体の30%くらいは見えていたはずである。つまり、経文の文字の形の部分だけ透明で、あとはその文字の部分が抜け落ちた形で皮膚が見えている。なんかそっちの方が怨霊みたいだ。あるいは光学迷彩に失敗しちゃったみたいな。
 これは揚げ足取りに聞こえるかもしれないけれど、そうではない。たとえば他にも耳を削ぎ落とされた、その傷口は見えるはずだろう。そこから攻撃すれば芳一を殺すことも怨霊にはできたはずだ。そうなっていないというのはつまり、守られた部分よりも守られなかった部分の方が重要であると考える根拠になりえる。
 つまり経文の書き入れによる守護自体は実は後付けされた意味であったと考えられる。そうではなくてむしろ削ぎ落とされた「耳」という器官自体に何か他に意味があったと考えるべきなのだ。
 よく考えてみれば、目の見えない琵琶法師の芳一にとって、聴覚というのは外界からの情報を摂取し、自分の演奏を確かめるとても重要な手段であったはずだ。つまりこのとき、芳一が聴覚を奪われるというのは、琵琶法師としての道を絶たれ、また世間との関係を絶たれることを、したがって即座に芳一の社会的な死を意味している。
 つまりこのとき、何らかの意味があったのは、実は耳そのものだった、ということになる。
 もちろん、『耳なし芳一』に性的な欲望は登場しない。だがたとえば、不具者の登場する小説ということで言えば、江戸川乱歩の『芋虫』(両手両足を戦争で失い、頭と性器しか意味を持たなくなった男が登場する)などはどうだろう。
 語りとは、人間を意味の総体と見なすことなのだ。だからこそ物語にはしばしば不具者が登場し、そののこされた器官にすべての意味を賭けることにもなる。

●ピーピングトムと小説の読者、語りの中の肉体


 小説とは、本質的に他者の生活ないしは事件、内面をのぞき見る楽しみである、とブルックス氏は言う。
 したがって、小説に登場する肉体には少なからず、窃視症者の欲望にこたえるようにとの要請がなされる。
 この文脈の中で登場するのがフロベールの『ボヴァリー夫人』だ。日本では小林秀雄が『私小説論』で引用した「ボヴァリー夫人は私だ。」というフロベールの一文が有名だが、ここでは私小説としての文脈ではなく、「見られる肉体」としてのボヴァリー夫人が問題とされている。
 見るという行為は、認識欲と深く関わっている。見る対象のことを知りたい、それも、できるならこちらのことを相手に知られずに。この窃視症のロジックが、『ボヴァリー夫人』にあっては、彼女と結ばれるあるいは姦通する3人の男性のまなざしを通して文章化されることによって断片化され、結局は本質自身にはたどりつけずに終わる。女性とは西洋哲学の伝統の文脈でいうならば「真理」であり、フロイト流にいうならばそれは「ファルス(男根)の欠如」だ。
 だから読み方によっては、ある女性の肉体を知るというのは、あらかじめ欠如しているもの、どこにもないものを認識しようという試みでもあるのだ、とも解釈できる。

 こうした肉体への視線の構造にのっとって、バルザックの風俗小説、ゾラの『ナナ』、あるいは神話に材をとった近代の裸体画、ゴーギャンのタヒチでの裸体画などが問題にされる。そしてまたフロイト、メアリー・シェリーの『フランケンシュタインの怪物』、『愛人(ラ・マン)』。
 ゾラの時代、それは産業革命の時代であり、万博の生まれた時代でもあった。
 万博での目玉のひとつがストリップショーまがいの見世物であったことは荒俣宏氏の『万博とストリップ』に詳しい。たとえば第1回パリ万博では、当時のセクシーダンスであるカンカンを取り入れたオペレッタが大人気を博したというし、ずっと時代が下るが1933年のシカゴ万博では、プレ・オープニングパーティで、ストリッパーのサリー・ランドがゴディバ夫人を演じると称して、全裸で馬にまたがり、会場内を練り歩いたという。
 このサリー・ランドのエピソードを僕が思いだしたのは、ゾラの生きた時代、クールベやブーグローといった画家たちが、裸体画を頻繁に描いている、それも神話に材をとってヴィーナスの誕生やサテュロスの巫女を描くという名目の元に、女性の裸体を描くことを免罪しながら描いているのだ、というブルックス氏の指摘を読んだときだった。言うまでもなく、これはゴディバ夫人という演目の元に、ストリップが万博で演じられる、というのと同じ、ある種の詐術である。
 つまりゾラの時代、こうした詐術をもちいてでも裸体を表現する、という欲求は、たしかに市民社会なるものの誕生とともに芽生えていたのだ。
 もちろん、自然主義を代表する作家であるゾラによる裸体表現には、もちうょっと鬱屈したものが潜んでいる。それは「最後まで見たい」という認識欲であると同時に「最後まで見たらどうなるのか」という恐怖でもある、とブルックス氏はフロイトを援用しながら言う。
 「見る」側に立って裸体を眺めるというストレートな方法においては、現在のところ、このゾラの語りを本質的に越えるものは出ていない、とブルックス氏は考えているらしい。
 近代を過ぎて、肉体は、単なる欲望の対象であることをやめる。欲望の対象であることを自明としながら、それを前提として世界の中でどのような位相をしめるかが問題となりはじめる。それぞれ作品論としてもまとまったものになっているので、概括して語ることが難しいが、フランケンシュタインの生み出した怪物、あるいはアジアの西洋人社会に住みながら、中国人の愛人となった西洋人の少女、といった存在が、それぞれその肉体自身が問題化される存在であることは想像するに難くないだろう。
 肉体というのは、つまるところ、そこに人間がいて、何らかの物語が展開されるなら、必ず、その物語の場となり、その物語自体を刻印される場ともなるものだ。
 だからこそ、肉体を問題化するという小説は、近代が始まってからずっと描かれ続けているし、またこれからも書かれ続けるだろう。そこに物語を集約することが可能だからだ。

 いかんせん、僕自身の本書への理解度が足りず、長いわりには中身のない感想となってしまったが、本書が考えようとしたテーマについては面白いと思うし、また、十分に説得力を伴った議論がなされていると思う。その証拠に、というのでもないけど、先日、本屋で河出文庫フェアやってたから『愛人』買っちゃったもんなぁ。それだけ、本書の内容に興味だけは示しているのよ、ということで、ひとつこの感想のまとめとしたい。
(2005.10.28)


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