ガストン・バシュラール



『空間の詩学』
 (ちくま学芸文庫
  訳:岩村行雄
  2002年10月刊
  原著刊行1969年)

●バシュラールの詩論


 バシュラールの名は、科学哲学、エピステモロジーの第一人者として知ってはいた。知ってはいたが、著作を読んだことはなく、解説書のたぐいすら目を通したことがなかった。こんなことではいかんのかなあ、とは思いつつも。
 で、今回初めて読んだバシュラールは、科学哲学ではなく、詩論であった。読んでみてから、こういう一面もある思想家なのか、と驚かされた次第である。
 勉強不足? いやいや、哲学とか思想とかは、興味はあれど専門外だから、別にこんなんでもいいんすよ、とかいいわけしてみたり。ダメか、ダメだろうな。精進します。

 手元の哲学事典でバシュラールの名前を引くと、「フランスの科学哲学者。独学に近い経歴を通して、また同時代のいかなる思潮にも完全に従属することなく孤絶した思索を通して生み出された29にも上る著作群は、大きくエピステモロジー系列のものと、詩論とに分かれる。」と冒頭にある。
 この人、科学哲学の分野では、相対性理論の哲学的な意味あいを見いだしたりしたのち、科学者が科学的な事象と向き合う際の客観的認識の中にも無意識的な歪曲がある、それはいかんよ、というようなことを主張する。ところがこの主観的な歪みを批判的にとらえる科学的な判断基準は、やがて文学作品をテーマとするようになって後退していき、『火の精神分析』を転換点として、むしろ詩的言語がそれ自体のうちに含むニュアンス(=主観的な歪み)を肯定的にとらえていくようになったらしい。
 かつては人間の「無意識的な歪曲」ととらえられていたようなものが、今度は詩の世界をより豊穣にするものとしてとらえられるようになったということだろう。
 科学哲学の分野ではカンギレムやフーコー、アルチュセールなどにも大きな影響を与えているのだが、詩論においては、様々な作品、あるいは時代も場所も異なる詩人たちの作品群を、たとえば火とか水とかいったテーマを軸にすることで横断的に読んでいくテーマ批評の方法論をいちはやく取り入れている。テーマ批評という方法論自体、現代の批評理論のなかでは重要なもので、この分野においてもバシュラールが先行者として与えた影響は大きい。

 で、本書は後年、詩論に取り組むようになってからの代表的著作のひとつ。
 というか、個人的な印象としては、テーマ批評という方法論が、いったいどういったもので、どんなことを目指して、何を語ろうとしているのか、ということがよくわかる実践入門、という感じ。
 もちろん、バシュラール自身はおそらくこれを入門書として書いているわけではない。だから、これが「テーマ批評とは何か」を理解するためのテクストだと僕が気づいたのは、本書をすっかり読み終わってからのことで、これがなかなかタチが悪いところである。そーゆーことは最初に言ってよね。

●詩の中の家


 ただまあ、テーマ批評というのはあくまで方法であって、さまざまな作品を横断的に比較しつつ読むことでいったい何を考えようとしているのか、ということの方が実際のところは重要なわけだ、当たり前だけど。
 本書の場合そのテーマは、「詩のなかに登場する『家』は、いったいどのような詩的イメージを伴って現象するか」である。
 家っていったら帰るべき場所なわけだから、そりゃあ安息とか穏やかさとかそういうもんを象徴するんじゃないの、というくらいのことは誰にでもわかる。僕でもわかる。
 バシュラールの場合はもっと微細に家というイメージを腑分けして、じゃあ地下室はどうか、屋根裏はどうか、抽斗や戸棚はどうか、自然界の家である鳥の巣はどうか、貝殻はどうか、と子細に検討していく。最後には、じゃああるものの内部と外部というのはどういう関係性であるのだろうか、家というものを抽象化していくとただの円になるけれども円ってのはどうだろう、と問題の系が拡がっていく。
 なるほど、これがテーマ批評という手法が持っている可能性なのか、と蒙を啓かれる思いがする一方、手法としては、あるていど批評者の恣意に依存している印象もある。膨大な量の詩をコレクションして、その中から屋根裏なら屋根裏を扱った詩を選び出し、そこに見られる共通性を引っ張り出してくる。でも、屋根裏を扱っているという条件さえ満たすものであれば、最初のコレクションの中からどれを選んでくるかという主体は批評者の側にあるわけだろう。それってどうなのだろう、最初に結論ありきで、それに見合った例をサンプルに出してくるということもできちゃうんじゃないの、という疑念はつきまとう。
 しかしながら、それでも屋根裏なら屋根裏といったテーマごとに、どういったニュアンスで用いられるか、一定の傾向といったものは確かにあるし、それは屋根裏をあつかった詩をいくつも集めて、傾向ごとのデータの多寡でもって分類をすれば検証をすることが十分に可能だろう。テーマ批評は、他のすべての手法と同様に、万能ではもちろんないが、有効性は確かにある批評方法であることは抜きがたい。
 そして、そうした方法でもってバシュラールがいくつもの詩を横断的に読んでいくとき、思わず膝を打ちたくなるような盲点をついた指摘も生まれてくる。

 「家は鉛直の存在として想像される。それはそびえたつ。家は鉛直の方向に自己を区別する。」「鉛直性は地下室と屋根裏部屋という極性によって裏づけられる。」(p.65)という言葉に続けて、「地下室へ通じる階段をわれわれはいつもくだってゆく。ひとが思い出のなかにとどめるのはこの階段の下降であり、下降が階段の夢を特色づける。」(p.77)という一文を読むとき、あ、それは確かにそうだよな、と思わずにいられる人間がいるだろうか?
 そうか、地下室はいつも「降りていく先」にしかないのだ。そのことを、確かに僕は知っていた。知っていたにもかかわらず、そのことに気づいていなかった。そうした驚きにとらえられる。
 詩であろうが小説であろうが、地下室とはほとんど常に「階段を下りた先にある場所」であって、地下室から階段を上がって帰ってくる、というような描写はほとんどないか、あってもその場合には地下室には力点が置かれていない。それは居間とか地上「への」帰還であって、その場合に重要なのは地下室ではなく居間の方だ。

 こうした指摘は、本書のうちにいくつも見いだすことができるし、そのたびごとに本書に出会えたことを喜びとして僕は受け止めた。にもかかわらず、本書を読むスピードがいっこうに上がらなかったのは、こうした指摘をいくつも続けて読んでいると、どこまでが客観的に見て十分に納得できることで、どこからが批評者の恣意性を疑えるのか、その境界が次第にぼやけてきてしまうからだ。
 もうひとつ付け加えるならば、先ほどの指摘にしてもそうなのだが「確かにそうだけれど、だから何だろう?」というようなというのが、次第にわからなくなってくるから、という理由もある。
 なんとなくね、頭がぼわーんとしてきちゃうのだ。これは、書いてあることが難しいから頭がついていかなくなってくる、ということではない。少なくともそれだけではないと思っている。

●酩酊としての読書


 思うに、この本を読んでいると、家に対して持っているイマジナリーソースのフォーマットが、一回解体されてしまうことに原因があるのではないか。つまり、ふだん僕たちは「家」という言葉に対して、それまでに読んだ小説や詩から、ある種、定型的なイメージの下地をベースにして、その上で「家」という言葉を受け止めているわけだけれど、それが本書を読んでいるうちに、そのベースがゆらいできてしまうのである。だから本書に書いてあることを受け止めきれなくなっていくのだ。足場のしっかりしていないところでキャッチボールをするようなものなのである。
 この足場がぐらぐらになってしまう感覚を繰り返し味わっていると、自分たちが使っている言葉が、いかにア・プリオリに先行する詩的イメージを踏襲した上に立っているものなのかを実感させられる。
 バシュラールが本書でやっていることというのは、誰もが知っていることであるにもかかわらず、誰も理解していなかったことを、再び詩の世界に言葉を戻した上で、再構築するという作業であると思う。
 訳者である岩村行雄氏は、解説「ガストン・バシュラールについて」のなかで、こうした体験によって「読者は詩人の想像力に融合し、詩人とともに詩作をはじめる。わたくしがこれをかくはずだった、という読書の誇りが読者のこころにみちあふれ、読者は詩人の夢想をあらたにいきはじめる、新しい夢想を展開することになる。そして批評が、この『たましいの現象学』のしるしのもとに展開されれば、批評活動は創作活動となる。」と述べている。
 言葉の足元を再構築するバシュラールの思索を追体験することで、戸惑いのようなものをおぼえることはある。足元がゆらぐからだ。
 ただ、それでも本書を読むのはエキサイティングな体験であることも間違いない。足元がゆらぐからである。
 そうか、テーマ批評にはこんな展開のしかたもあるのか、という驚嘆とともに、その展開そのものにもすっかり翻弄される読書体験であった。これはもしかすると酩酊であるのかもしれない。
(2007.4.17)


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ガストン・バシュラール

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