金子勝・テリー伊藤 |
『入門バクロ経済学』 (朝日選書 2002年5月刊) |
|
●腐る本・腐らない本本というのは、基本的には書棚に何年か放っておいたところで、そうそう腐るものではない(だからって放っておいていいというものでもないぞ、俺よっ)。200年前に書かれた言葉にも感動できるというのが、本のいいところのひとつだ。 しかし、まれに腐ってしまう本というのもある。たとえば、時事問題を扱ったものがそうだろう。情報として役に立たないものになってしまったら、読む意味はなくなってしまう。これは言い換えれば本が腐ってしまったのだ。 また、読むつもりでハードカバーを買っておいたら、読まないうちに文庫が出てしまって涙にくれる、などというのもよくある話だ。そしてまた、経済学関連の書籍というのも、しばしば放っておくとどんどん古びていく性質を帯びていることがある。 たとえば、ちょっと前なら、エンロンが新しいビジネスモデルの提示者として称揚されてもいただろう。GEの元会長ウェルチが経営の神様と呼ばれた時代もあっただろう。もっと大きな枠組みで言えば、インターネットが普及する以前に書かれた経済モデル理論には当然、現在では修正されねばならない箇所もあるだろうし、9.11テロ以前と以後でもそうした部分はあるはずだ。 現実の社会があり、その上に乗っかって人間が生きて消費し、交易する、それが経済なのだから、現実が大きく動けば、経済も大きく変容せざるをえないのは当然なのだ。たとえば、いささか不謹慎な例えだが、今冬、鳥インフルエンザの流行で中国の人口の何割かが死んでしまったとしたなら、経済の移行予測は大きく書き換えられるだろう。そうなったとき、本棚に積みっぱなしになっていた経済書はどれだけの意味をたもっていられるのか? すぐに腐ってしまう本なら、できれば買いたくはない。しかしだからといって、経済書など買わない、経済に無知なままでも問題ないと言えるのかというと、それもちょっと違う気がする。 というわけで、何か入門書くらいは押さえてもおきたい。入門書に必要なのはわかりやすさであり、そうした意味ではテリー伊藤氏にもなにがしかの使い道はあろうと買っておいたのが本書だった。 結論から言う。その安直な手の出し方が招いた、本選びの失敗であった。 ●オールスター家族対抗自慰合戦ううむ、これは何というかな。対談形式ではあるのだが、お互いがお互いを褒めるばっかりで、対談にする意味がないのだよ。ビートたけし氏の出演する最近の番組でしばしば感じるような、出来レース的な居心地の悪さがある。 対談者が相互に、お互いの意見や話しどころを尊重するのはもちろん必要なことなのだが、テリー伊藤氏は金子氏の説明に100%の賛同を示し、金子勝氏はテリー氏が「じゃあこういうこと?」とか言いながらあげる例を着眼点が素晴らしいと、これまた手放しの大絶賛。 オナニーがしたいんなら一人でやってろ、というのは、いささか乱暴な評になるだろうか。 ちょっと例を挙げて説明する。と言っても、金子氏の発言が経済学的にどう適当でないのかについては、僕みたいな素人が言いたてるよりもプロの経済学者の方でちゃんと批判をしている人もいるようなのでそちらにお任せすることにして、何というか、文面の感じで、嫌だなあ、と僕がおもった箇所をあげる。ちなみに、銀行を槍玉にあげて、もう銀行なんてなくていいんじゃないか、と言っている部分の会話だ。 テリー でしょう。だいたい三時にシャッター閉めて、何やっているかと言えば、別にビデオ屋のTSUTAYAにいる、茶髪のお兄ちゃんとほとんど同じことやってるだけじゃないですか。 金子 うーん、そう言われるとそうですね。いま本当にいらない状態。ずるずると公的資金で国民の税金食ってるだけ。 テリー そうだよ、それでまた、もう何度目かわからないけれど、「公的資金を入れる」っていうわけでしょう。「おまえ、ふざけんなよ。俺はおまえなんかに何の世話にもなってねえよ」とでも言いたくなるよ(笑)。 金子 本来なら銀行は、預金者からの預金を集め、それを貸す(与信)、そして決済という三つの大きな機能を持っている。だけど、今は前の二つはやっていない。預金なんか運用できないから集めたがってない。うーん……それはもうそのとおりだわ。 (p.56「2時間目 経済はそんなんじゃなかった会議」より) 同種の会話がこの後も続くが、延々と50過ぎのおじさんがお互いを褒めあっているのを見ているのもつらいのでこのへんで。 ここにあげた会話には、いくつかの問題点が包含されている。 まず、基本的に両者の意見が合致していて、どこにも行き場のない、結論が先に決まった状態で話をしているという予定調和性。 次に、「ビデオ屋のTSUTAYAにいる、茶髪のお兄ちゃん」は大した仕事はしてない、という前提に立つ態度の傲慢さ。 最後に「俺」と「おまえ」、あるいは「私」と「彼ら」に世界を大別してしまう二元論的価値観。 銀行に対して文句を言いたい人は世の中にごまんといるだろうが、その文句の妥当性はひとまずおいといて、それをこういう文脈で語って本にしてもらえる人というのは、まあ、そうはいない。 それができるのがテリー伊藤氏のネームバリューではあるのだろうが、たとえばこの上記の会話を、元敏腕テレビ演出家と経済学者の会話ではなく、会社の上司、あるいは学校の先生同士の会話だと想定してみるがいい。 この延々と益体もない愚痴を聞かされて、かつ、「君もわかるだろ?」とでも言われているような、もう全身の毛がぞわっとするような気色の悪さ。 まあ、ちょっとひどい部分を選んで抜いてきているので、ここだけとりあげて気持ち悪いと批判するのも少し不公平かもしれないが、しかしおおよそにおいては、これが200ページにわたって続くと思っておいて間違いない。一応、金子氏が説明をして、テリー氏がそれを聞くという体裁になってはいるが、金子氏の説明が良く言えばスピーディーすぎて、悪く言えば実証性に欠けすぎて、ちっともこちらの頭に入らないうちにテリー氏が我が意を得たりとばかりに賛同してしまうのである。そしてさらに金子氏がそれを絶賛する。 とりあえず今の経済に文句があるのはわかった。しかしそのくらいのことならそこらへんの零細企業の社長さんだって言えることだ。 ●日本語から勉強しようついでなので、もうひとつ指摘しておく。次の箇所だ。 金子 (前略)何度も出して申し訳ないけれど、竹中(引用者註:平蔵)氏の『経済ってそういうことだったのか会議』(佐藤雅彦氏との共著)にはこんなことが書いてある。 佐藤 我々の幸せ、皆が幸せになる方法みたいなものを探るのが、本来の「オイコノミコス」ですよね。でも、労働っていう概念で経済学をとらえたときにはもうそういう意識はなくなってしまってるんですね。 竹中 そのことに対する反省はすごくあると思います。だから、その経済学の不備を補うために、哲学とかいろんな人生論が出てきてるんじゃないでしょうかね。 これを読んで私は頭を抱えてしまったんですけれども、おいおい順番が全然逆じゃないか、哲学の中から経済学が生まれてきたんで、その逆だなんて言っているのは、世界中で竹中氏だけですよ。 (p.177 「5時間目 お金ばかりじゃつまらない」より) たしかにマルセル・モース的に言えば、未開社会においては結婚もまた贈与であり、それは経済的な意味あいも含んではいるだろうし、そのことはレヴィ=ストロースにいたっていっそう明瞭となるだろうが、でもそれはここで引用されている対話とはまったく別の話である。 金子氏が意図的に曲解しているのか、それとも日本語が不自由な人なのかはよくわからないのだが、どう考えても、これは「哲学の起源」あるいは「経済学と哲学はどっちが先か」といった話ではないだろう。この部分だけをいきなり抜粋するから、「経済学と哲学はどっちが先か」という意味合いにもとれなくはない印象を受けるが、そうではないことは、佐藤氏の発言の手前にある竹中氏の発言を引用すれば簡単に理解できる。 竹中 (前略)基本的に経済は、人間を蛋白質のかたまりと見る医学と同じような観点から労働力を見てきたわけですが、(中略)しかし、経済学も人間を単なる労働力とみなすだけではだめだということに気がついてきていることも事実です。たとえば「女性の生きがい」というのが労働の経済学の中で、今すごく大きな問題になってきています。 (中略)つまり、数字だけでは目に見えない、労働力という言葉からだけではくみ取れない人間の生きがいも微妙にミックスされて、今、労働の経済学として議論されているということでしょう。 (佐藤雅彦・竹中平蔵『経済ってそういうことだったのか会議』 日経ビジネス人文庫版p.333〜334) なお、中略ではしょった「女性の生きがい」の問題というのは、キャリアとして入社した女性が、一度結婚・出産で退社すると、また仕事に復帰しようとしてもパートのおばちゃんしか職がない、という問題を指している。 そういう「生きがいの問題」は、従来的な経済学ではフォローしきれない。佐藤氏はそのことをエコノミクス(経済学)の語源である「オイコノミコス」(ギリシャ語で「共同体のあり方」)からの、経済学の乖離というところから突き、竹中氏はそれに対して、「そのフォローとしての哲学や人生論」という形で回答している。 したがって、ここでの「出てきている」は「発生した」という意味ではもちろんなく、「流行しはじめた」あるいは「さかんに唱えられはじめた」と解釈するのが正しい。 傍証的に言うなら、「いろんな人生論」という竹中氏の発言は、主格である「人生論」が複数あること、つまりそもそもの単一の起源ではないことを示しているし、「出てきている」というのは現在進行形であって、哲学の起源という過去のお話ではないことを物語る。 まあ、この場合、「出てきている」という曖昧な表現をした竹中氏にも隙がないわけじゃないのだが、普通、日本語が読めればこうした内容の取り違いは起きないのではないだろうか。 この金子氏の発言を受けてテリー氏は「竹中さんって、ほんとに『それだけ』の人なんだね」となんだか納得してしまう。もうこの際、金子氏の発言が日本語として体をなしてないのにはひとまず目をつぶってこれだけは言っておくが、その引用で納得できるのは世界中で金子氏とテリー氏くらいのもんだ。 なんかこんなどうでもいい誤謬をいちいちあげつらっているのも悲しくなってくるので、ここで筆を置く。 この本、多分、先の『経済ってそういうことだったのか会議』へのアンチテーゼ的な内容を意識しているのだと思うのだが(対談という形式にしても、竹中氏へのやたら挑戦的な姿勢にしても)、その割にその相手の書名を「経済ってそんなことだったのか会議」と誤って書いてしまったりしていて(p.26)、どうにも安直というか、中身が不確かだ。そこだけは徹底している。装幀がけっこういいのが悲しさをさらにそそる1冊。 (2004.11.10) |
金子勝・テリー伊藤 |