笠井潔 |
『機械じかけの夢 私的SF作家論』 (ちくま学芸文庫 2000年7月刊 原著刊行1996年) |
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なんというか、こういう力作評論を読んだのは久しぶりだったので、ちょっと感動した。ただし、一抹の不安を抱えながら。 70年安保の大学紛争期と重なりながら青春時代を異端派左翼青年として過ごしたらしい筆者の眼は、ルカーチを媒介にしたマルクス主義を土台にしながら、旧来的なマルクス主義の超克を既に果たしている。ただし、それがあくまでマルクス主義を足場に持った超克の仕方だというあたりが、僕の感じた不安の根底であるらしい。 それは例えば、本書でもっとも鮮烈で、それゆえにもっともまとまりの悪いル・グィン論に顕著で、筆者の驚嘆すべき現代思想への理解度から改めて読み込まれるグィンのテクストの意味に、ゆっさゆっさと脳味噌を揺すぶられて、マイク・ベルナルドとマジバトルさせられた茶帯の空手少年のごとく、僕はふらふらになりつつどこかに承服しがたいものを感じるのだった。 「下方」と見なされがちな「他者」からの視点によって「社会構造」の意味を崩し、その中から人間存在の根底を救い出そうとするのがグィンの意図である、とする筆者の指摘と、そこから翻っての「人間の終焉」論的イデオローグへの作者自身の批判、ここまでの道筋は、僕自身の知識不足を棚上げして言うのもおこがましいが、概ね承認できる。 ただ、1980年代初頭というそもそもの原版の出版時期をさっぴいたとしても、それ以前の西側世界を覆った革命のイデオロギー(反ベトナム戦争や全共闘など)に対する筆者の共感的な姿勢に対しては、僕は全面的には首肯しづらいものを感じる。時代の格差もあるだろうけれど、この人と僕とは、ちょっとだけ向いている方向がずれているかもしれない、という不安を、筆者の知性に抗えないままで感じた。 簡単に言えば「そうですそうです、その通りですが、その通りのように考えられますが、しかしどこか違う気がするんです」という、意味をなさない反論なんだけど。 でも、SFっていいよな、と感じたりはしました。かなりいい本だったな、という。 (1999.10.20) |
『物語のウロボロス 日本幻想作家論』 (ちくま学芸文庫 1999年9月刊 原著刊行1988年) |
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一定の強度を備えた方法論を持つSF・探偵小説作家として、日本では希有な存在である笠井潔の、探偵小説・伝奇小説論です。 いわゆる「全共闘世代」に属する笠井さんですが、ゲオルグ・ルカーチをはじめ、全共闘の理論を支えたマルクス主義思想の決定的な影響下にスタートしつつも(学生時代にルカーチ論で思想界にデビューしたのが、ひとつの出発点となっているくらいです)、日本赤軍の挫折によって全共闘の季節が終わった後、その体験を思い出というセンチメンタリズムに解消するのではなかった点は他の同世代作家たちと一線を画するものを備えています。『テロルの現象学』をはじめとする内省的な思想に、あるいは『バイバイ、エンジェル』『ヴァンパイヤー戦争』といった小説として本格的な骨格を備えた探偵小説・SF小説に作品群が発展し得たのは、その卓越した方法論的意識の故だったと言っていいのでしょう。 本書では、まず序章として三島由紀夫・大江健三郎という、戦後を代表する2人の純文学人を、「物語の不可能性」という断面から取り上げます。その近代という時代が不可避的にはらむ断面を、「あらかじめ自壊することを定められた物語」として方法論で逆転し、アクロバティックに「『成立が不可能であることさえ物語の一部である』物語」を成立させてしまうものとして探偵小説がとらえられ、その筋道に沿って夢野久作・久生十蘭・江戸川乱歩・小栗虫太郎・中井秀夫らの作品を解読する作業が続く。 そして、探偵小説をそのコードによって構造として解体・解読し、今度は探偵小説とは別のやり方で、しかも同じように自己解体構造を秘めたジャンルとして、伝奇小説の国枝史郎と半村良が語られ、そこから最後に稲垣足穂と村上春樹についての位置づけがなされることになります。 キーワードは、「自己解体」、すなわち、ウロボロスをひとつのモティーフとするような、「最終的には『物語』という自身を解体してしまう構造が内包された物語」です。 その、きわめて構造主義的に把握された物語理解を通して眺めると、一連の探偵小説・伝奇小説の系譜が、大江や三島の逢着した近代という物語にとっての隘路から、華麗に脱出する、裏道のごときものとして見えてくる。そしてその行き着く先には、再び、純文学の正統と目される村上春樹の描き出す小説のような物語が交差するということになります。 巻頭に三島・大江を、最終章に村上春樹を置いたというのは、その間に並べられる作家たちをひとつの抜け道として把握していきたいという、非常に戦略的な構成であることは明らかでしょう。 ここで考えておきたいのは、本書中、あるいは全共闘に対して、あるいは昭和初期のマルクス主義陣営に対して、あるいは1980年代ポストモダンに対してしばしば口にされる「A(例えば全共闘)という物語を否定してB(例えば日本赤軍)という形態に辿り着いても、しかし結局Bとは、Aとは別の物語に過ぎなかった」という視点です。そうした事態を超克するために、「あらかじめ解体する物語」というトリックが必要となるわけですが、それでは、そのトリックを成立させるために、三島・大江からはじまって、夢野・中井らを経て伝奇小説などの形式も経由しながら村上春樹へと話を結びつける本書の構成それ自体も、笠井さんが生み出したひとつの物語ではなかったのか、という疑念についてです。 実はおそらく、このへんの問題には笠井さん自身も感づいているんだろうと思えるような表現がところどころに散見されるのですが、その最たるものは小栗虫太郎論と中井秀夫論に渡って展開される「探偵とは、犯人が作り出した不透過なもの(犯罪)を、唯一特権的に透過してみせることが出来る存在であり、その特権的な立場のゆえに、構造的には探偵とはイコール犯人である」「探偵がその雄弁によって、あるいは行動によって犯罪という謎を解読していく行為は、全ての登場人物に対するメタな視線を有するためのものであり、そのメタな視線が謎を1本の物語にそって解読する際、実は小栗・中井の小説においては、そこでは再び謎が生み出されるに過ぎない」といった意見でしょう。探偵小説という小説のジャンルに対し、そこに物語の不可能性という1本の補助線を引くことで、ひとつの系が生み出されるという本書の内容は、そのまま笠井潔という探偵がひとつの犯罪からある解決を導くのを見ているかのようです。 だからこそ、時折、「いま一瞬、論理が飛躍しなかった?」と思える瞬間がところどころに待ち受けている。飛躍を飛躍の素振りも見せずに通り過ぎることは、探偵にこそ許された仕儀であるからです。 では結局、本書で語られたことは笠井潔のしくんだトリックに過ぎなかったのかというと、実はそんなことはない、というのが僕の結論です。ここで語られることは、たしかにそれをすなわち真実と見なすには危ういかも知れませんが、各作家論を貫通して通った1本の糸は、やはり物語の可能性を示していると思うんですね。つまり、ここで示されたのは解答(記号と解法の合致)ではなくて、あくまで象徴(ある解法の適用によって集められた、同類項を持った記号の集積)なのだろうと思うわけです。 (2001.10.26) |
『探偵小説論序説』 (光文社 2002年3月刊) |
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●ジャンル批評という胎盤同著者の『探偵小説論I』『同II』の序説という位置づけで、「探偵小説」というジャンルそのものについて、可能性を探るジャンル論、それが本書である。 『探偵小説論I・II』は、本書に先駆けて既刊であり、本来ならそちらも併せて読んでいくべきところであるとは思うが、今、僕の怠惰からそれはしない。それを踏まえた上での感想とさせていただきたい。 冒頭で笠井が指摘するように、探偵小説、あるいは推理小説とは、作品論や作家論ではない、ジャンルそれ自体を論じることが出来るという数少ないジャンルのひとつである。ジャンル論を許容しうる小説ジャンルとしては、他に歴史小説・SF小説などがあるが、これらがそのコスチューム、すなわち題材とする時代や道具立てのあり方を論じるのを専らとするのに対して、探偵小説論は、その構造自体を論ずることまで許容しうる。 というのはつまり、探偵小説では「まず事件が起こり、探偵が登場し、犯人を暴く」という、ベーシックな物語の型が存在しているからだ。 これを笠井は、「犯人」「被害者」「探偵」の3項によって作品が成立するとみなし、その3項の力関係のありかた、つまりは探偵小説というジャンルの作品がどのようになりたつのかについて、「自我」についてひたすら語り続けた近代小説の、パロディとしての「探偵小説」というスタンスから語っている。 読者はそこで「犯人−被害者−探偵」が、近代の小説における「作者−作品−読者」と照応するのだという指摘と、そして、作者の自我が作品を生み、それを読者が享受するのではなく、探偵によって事件が解決されて初めて犯人が登場しうるように、読者が作品をどのように読むかによって、初めて作者の自我もそこで創られるのだ、という主張に出会うことになるだろう。 こうした探偵小説への考え方、とらえ方は『物語のウロボロス』でもすでに出てきているものだが、その妥当性を検討するのは、ひとまず後回しとしてしまって構わないと思う。 それに先行して、まずは本書がどのような手法で、論を展開しているのかを確認しておく必要がある。 本書のとる手つきで特徴的であるのは、近代的自我を主張し、自我によって語られる物語を至上であるとしてきたような文学理論へのロジカルな反証である。 反証からスタートし、近代的な文学を裏返しにして自らの理論を展開する。 それはまさに著者の主張する、「近代文学の欺瞞を戯画的に裏返す探偵小説」という図式そのままの光景であるわけだが、この反証の際、非常にしばしば、世界で最初の探偵小説と言われる、ポーの『モルグ街の殺人』が引用されることに注目したい。 本書では他にも、クイーンの『エジプト十字架の秘密』、クリスティの『アクロイド殺人事件』、エーコの『薔薇の名前』などが登場するが、『モルグ街の殺人』は、その頻度と重要性という面から見て、ほとんど別格と言って良い。 反証の論拠を、個々の作品が独自に、ではなく、探偵小説という形式が、その構造自体の中に、すでにその一番最初の作品のうちから胚胎しているのだ、という考え方からすれば、それは当然のことかもしれない。また、そのベーシックな構造自体を問題にするのでなければ、このようなジャンル論など成立しえないだろう。 だが、だから「モルグ街」で当然、ということにはならない。本書での引用はこの場合、必要に迫られて実作を引っ張り出すのにしょうがなく「モルグ街」、というよりも、もうちょっと積極的な意味合いを持っている。 というのも、笠井が自説を述べるのに必要な諸要素が、ほとんど全て「モルグ街」の中にあると考えるのなら、「モルグ街」の諸要素を、そのまま帰納したところにジャンル論が成立しうるはずであるからだ。 おそらくそれゆえに、特に他を参照する必要のない限りで、笠井は「モルグ街」を引用し続ける。 しかしこのとき、帰納するのとは正反対に、「モルグ街」の諸要素を演繹拡大していったところに、新たな探偵小説の可能性というものも探れるはずだ。 というわけで僕は、本書の意図として、ジャンル論の完成と平行して、探偵小説の新たな可能性を探る、という意味合いを見ている。 ●主張の検討1:用語について本書の手法と目的を簡単に推察してみたので、次に、それを下敷きにして、本書の主張そのものの検討にうつる。 『探偵小説とは、近代小説が隠蔽してきたこと、すなわち、物語の源泉であるとされてきた作者の自我が、実際にはありもしない、あるいは「ある」と言い切れない、ということを暴き、裏返しにするパロディ的な性格を持った小説形式である』 これが本書の主張である、と言っていいだろう。この主張は、いくつかに分節することができる。 まず、「近代小説は、作者の近代的自我が物語の源泉であると見なしてきた」ということ。 しかし、「作者の自我は、実際のところ、物語が書かれる前からあり、それが物語を生み出すのだ、とは言えない」ということ。 そして、「探偵小説は、それを暴く、いわば反近代小説的な小説形式だ」ということ。 少なくとも、こうした主張を念頭に置きつつ、本書の内容が構想されたことは間違いないだろう。 これらを主張するために、「作者−作品−読者」という小説圏の上位下位的な構造が解説され、ロシア・フォルマリズムに乗っ取ってファーブラ(個人的には「ファビュラ」の方が通りがいいような気がするがどうかなあ)とシュジェット(ストーリーとプロット)の用語を用いた対立構造が示され、そしてそれらが、探偵小説の構造と照応されていくことになる。 「作者−作品−読者」の構造については、ちょっと後回しにして、先に用語について、ここで自分なりに定義し直しておく。 ロシア・フォルマリズムというのは、まぁ、テクスト主義の源流のひとつでもあるわけだが、ファーブラ(=ストーリー)とは「実際に作品中に導入される順序、仕方とは係わりなく、事件の自然な、年代的、因果的秩序にしたがって、首尾一貫して述べうるもの」=「論理的、因果・時間関係におけるモチーフの総体」であり、シュジェット(=プロット)とは「作品中で与えられる順序と連関における同じモチーフの総体」であると、ボリス・トマシェフスキーの言葉を借りて説明されている。 …なんだかこんがらがってしまう。 ここでは、「ファーブラ・シュジェット」の用語に代えて、耳に馴染んだ「ストーリー・プロット」を使い、さらに、前田愛が「増補文学テクスト入門」で引用したフォースターによる定義を、再引用しておこう。 すなわち「王が死んだ。それから王妃が死んだ」と言えばストーリーであり、「王が死んだ。それから王妃がその悲しみのあまり死んだ」と言えばプロットであると。 時間的経過がストーリーであり、因果構造がプロットであるとも言い換えられるだろうが、トマシェフスキーは、プロットの定義に「作者による人工的な操作によって、何らかの効果をねらい、配列されなおしたもの」という定義を考えているらしい。 しかしまぁ、小説においては、フォースターが考えるような因果構造は、作者が設定し、配列するものだがら、今、少なくとも本書を読んでいく限りでは、両者の定義の違いはあまり意識しなくてもいいと思われる。ただし、「プロットは人工的に配列し直されたものだ」というのは重要な指摘なので、それだけ追加で押さえておけばいいだろう。 ●主張の検討2:反近代小説性とはさて、「作者−作品−読者」の構造についてだが、先にも少し述べたとおり、笠井はこの構造を近代小説の代表的なあり方の構造であると見なした上で、探偵小説の内部では、それが「犯人−被害者(謎)−探偵」に照応すると考える。 近代文学の誕生は、本書でも述べられているとおり、ルソーの「告白」などがその代表的な嚆矢とされる。それは「私とあなたは違う」という、その差異性を個々人の自我に求める発想から来ている。個人個人に自我があるなら、「作者」は自分のそれを小説の上に表すことも可能であるはずであり、そうして「作品」が生み出される。ということはこのとき、「読者」はいてもいなくても関係なく、作者の自我も作品も、存在しえるということだ。 しかし、そもそもの前提となっている「近代的自我」というもののありかたも、また近代という時代が生み出した、ひとつの制度に過ぎない。 中世の身分制度の時代、「騎士のあり方とはこう」「武士のあり方とはこう」だったと同様に、近代という時代は「個人個人はそれぞれ自我を持っており、自我のあり方とはこう」という制度をもたらしたのであり、だとすれば「作家」が持っていると信じられていた自我というのは、所詮は制度という虚像だったことになる。 しかしその虚像は「ある」ことになっていた。それは「読者」が「作品」を読むことによって、それぞれの読書体験の中であらためて、作者の「自我」を承認したからだ。つまり「作品」の中で「作者」の思考を追体験したからこそ、そこに「自我」もまた認められたのである。 制度とは、一般の民衆から承認されない限り制度として機能しえないものだし、「自我」もまた制度である以上、その範を逃れられないわけだ。 ここまでは割に常識的な考え方だろう。 それでは、これを探偵小説に照応させるとどうなるか。 「犯人」が「被害者」を殺す。そうして生み出された謎を「探偵」が解決し、「犯人」を指摘することで幕が閉じる。 しかし、仮に「探偵」が「犯人」を指摘しなかったら? そのとき、「犯人」はついに小説の中に存在しえないのではないか。 「探偵」とは「あなたが犯人だ!」と名指しすることの出来る、つまり「犯人」が「犯人」であると承認することの出来る、探偵小説における特権的な存在である。これが小説である以上、「探偵」がいなければ「犯人」は存在することが出来ない。 「作者−作品−読者」が「犯人−被害者−探偵」と照応すると考えれば、「探偵」によって「犯人」が承認されるとき、「読者」によって「作者」が承認されるということも、また明るみに出される。それこそが探偵小説の「反近代小説」性である。 これが笠井の主張だ。 それは説得力を持つ主張ではあるのだが、しかし、問題は、その照応関係を、どう立証していくのかである。 というところで、ここからストーリーとプロットの定義がようやく役に立つ。 ●主張の検討3:「犯人」=「作者」=「ストーリー」さて、前項までで、笠井の主張にとって、「作者−作品−読者」と「犯人−被害者−探偵」の照応関係がどのようなものであるか確認してきた。 本書での笠井の主張は、一見、複雑多岐にわたっているように見えるが、実際のところ、この照応関係を踏まえ、かつ、その照応を延長していったところにまで「犯人」「被害者」「探偵」の役割を敷衍していると考えれば、そうそう複雑なものではない。 一例を挙げる。 「探偵」とは「読者」であり、「被害者(謎)」=「作品」を読むことで「犯人」=「作者」を創り出すことのできる唯一の存在である。したがって、当然「探偵」は「被害者」を中心とする「謎」の外部にいる存在であり、「読者」が作品の外部存在であるのとちょうど同じように、外部性を有する。ところで、「読者」は、「作者」によって書かれた「作品」の中に、プロット、つまりは因果関係を読み、意味づけをする存在である。「探偵」もまた、「謎」というストーリーの中から、一定の因果関係を発見し、並べ替え、意味づけをする存在だと言える。 このようにして、「犯人」はストーリーを、「探偵」はプロットを司る存在として、探偵小説の中で拮抗しあうのだ、という認識が獲得されるわけだ。 ただし、ひとつ気になるのは、この照応関係が、どのように正当性を持ちうるのか、という点である。 「AとBは照応関係にある」と言うとき、常に、それを指摘する人間の恣意性を問題としないわけにはいかない。それが、指摘者に都合のいいところをつまみ出した照応関係でないと誰が言えるだろうか。少なくともそれは、「論」として存在するためには、最低限の正当性を確保しなくてはならない。 本書ではその正当性を、実証としては「モルグ街の殺人」などを引用することで示し、論理の上では、「探偵」の上に「プロット」を、「犯人」の上に「ストーリー」を重ね合わせつつ、その各項の関連性の相似をもって証明しようと試みている、と言えるだろう。 ん? と、いうことは、それって要するに構造主義じゃないの? 厳密に言うと、各項目の性格やなんかについても照応関係を見ようとしているあたり、構造主義とはちょっと違うのだが、しかし、おおむね、構造主義的な方法であると言ってしまっても良いのではないかと僕は思っている。 しかしこのとき、本書の後半で「犯人−探偵」の両項目に「作者−読者」に加えて、さらに「ストーリー−プロット」の関係を、笠井が付け加えてきているのは、深読みしすぎなのかもしれないのだが、戦略的なもののにおいを感じる。 それはあくまで、近代的な文学論への反駁という形式の中で登場するのだが、実際のところは、項目をもうひとつ重ねてくることで、最初の照応関係、つまり「犯人−被害者(謎)−探偵」と「作者−作品−読者」の中で、笠井が主張している「読者によって作者の自我が創り出される」ということを、さらに強固に主張することにつながっているのだ。 ここで笠井は、モレッティの探偵小説論を引用し、モレッティの「犯人が人工的に組み上げたプロットを、探偵が解決編で再び、元々あったような時間的順序に、つまりストーリーとして並べ直す」という考え方に対して、次のように反駁する。 (前略)物語に起点としての事件をもたらす犯人とは、同時に被害者という作品を制作する作者でもあるのだから。探偵小説の作者がストーリーからプロットを構想するように、被害者の屍体という作品の作者である犯人は物語の全体を、ようするにストーリーを、探偵をはじめとする諸々の登場人物に対して特権的な視点からあらかじめ鳥瞰することが許されている。(中略)反対に探偵役デュパン(望月注:「モルグ街の殺人」の探偵)は、物語の進行過程において、換言すればプロットの流れの中で試行錯誤を重ねながら最後に真相に達するにすぎない。(中略)ファーブラ=ストーリーは犯人の側にあるり、探偵の側にはシュジェット=プロットがある。このように想定する方が妥当ではないか。 (「第7章 物語論」p.123〜124より) モレッティが思い描いているのは、「犯人によって隠蔽された(=プロット化された)真実(=ストーリー)を、探偵役が再びストーリーに差し戻す」という、パズルのような構図だ。 これに対して、笠井は「探偵役の前に雑然と現れる事実(=ストーリー)を、探偵役は人工的に配列し、組み合わせる(=プロット化)ことで、犯人に到達する」と言う構図を描く。 「犯人=作者」とするなら、確かにモレッティの考えかたはおかしい。近代的な文学観では「作者とは、作者の内面の真実を語る」のだから、そこにはなんら、プロットとして隠蔽されたものがあるはずもない。(もっとも、モレッティは「犯人=作者」とは考えていなかっただろうが) そしてこのとき、基盤になっているのが、本書の付論となっている現象学に関する4つの思想論が示すような、「生きられた世界」という概念だ。フッサールというよりもメルロ=ポンティ的な概念なんじゃないかという気がするが、まぁ、僕は素人なので、ここらへんについては不確かな知識しか持ち合わせない。とにかく、笠井の構図においては、「生きられた世界」ではなく「生きられた謎」ともいうべきあり方で、「謎」が存在する。 ここで「生きられた謎」は、経験論的なあり方でもって「確かに存在した」と言いうる。そして「犯人」=「作者の自我」なるものがその中でのみ発見される。つまり、「読者に生きられた作品」においてのみ「作者の自我」もまた発見されうる。このとき、「自我」をそこに存在させるための主体が読者の側にあることは言うまでもない。 そして同時に、探偵小説は、近代小説が隠蔽してきたそんな構造を明らかにしてしまう、ということにもなる。 ただ、さきほど述べたように、モレッティは、別に笠井の言うような照応関係に基づいて自説を述べたわけではなく、ヴァン・ダインの「探偵小説=パズル」という見方に基づいての説を述べているに過ぎないので、これを批判してことなれりというのは、ちょっとアンフェアな気もする。 また、これを以て、探偵小説という形式には、すべからく、こうした構造がある、と言ってしまえるのかも、ちょっと疑問だ。 しかし、少なくとも、探偵小説という形式の中に、そうした可能性があるというのは、主張として通るだろうし、あるいは、それで十分なのかもしれない。 初日の最後で述べたように、本書が単なるジャンル論というより、探偵小説の可能性を探っていくというところに主眼をおいた書物なのだ。 (2003.6.11-13) |
笠井潔 |