栗本薫(中島梓)



『タナトスの子供たち -過剰適応の生態学-
 (中島梓名義
 ちくま文庫
 2005年5月刊
 原著刊行1998年)

●一冊400ページ丸ごとヤオイ論という熱量


 タイトルだけじゃ何の本だかよくわかりませんが、表紙を見ればすぐわかる、『コミュニケーション不全症候群』の続編というか第2弾というか、いずれにしても『不全症候群』の遺伝子を引き継いだ評論。ただしオタクとか過食症とかも扱ってた前作からテーマが絞り込まれまして、まるまる400ページがやおい論。
 『不全症候群』は、オタク・サブカル系の評論としては名作として、もはや古典の位置にあるんじゃないかと思うんですけど、焦点を「やおい」(本書での表記に合わせれば「ヤオイ」)に合わせて執筆された本書は、著者のやおい好き(思い入れ)が途中から暴走しててなんかもうしっちゃかめっちゃかな感じに。この本に込められた熱量だけは伝わるんだけど、あまりにトータルにやおいを論じようとしすぎていて、結局まとまりを欠いてしまった印象です。

 なんてんですかねぇ、やおいというのは、多分、もうトータルで論じるには拡がりすぎた概念なんじゃないかと思う。「やおい」と称される作品群が小説・マンガ・ゲームと多ジャンルにわたって量産されたことの必然的な帰結として、今やトータルで論じるにはいろいろな問題を内包しすぎていると思える。
 この本のテーマは「やおいとは何か」なんだけれども。それはたとえば「SFとは何か」とか、「小説とはなにか」みたいな、「扱う範囲が広いよ!」とつっこまなければいけないたぐいのテーマ設定になっているのではないかと。まあ、元がNiftyのパティオで連載されたものだそうだから、続けてるうちに話がとめどなくどこまでもいってしまった、ということもありそうですが。
 実際のところ、いま、やおい論をやろうと思ったら、物語の型についての論議があったり、読者論があったり、個々の作品論があったり、発展の系譜についての論議があったりしないといけないんだろうと思うし、それはそれぞれに問題を含んでいて雑駁に片づけるにはそれぞれの問題が大きすぎると思う。
 で、「それをぜんぶ一緒くたに論じる気か!」と怒られそうなことをやってしまっているのがこの本だと思うんですが、じゃあこの本がめちゃくちゃで読む価値のない本なのかっていうと、それもちょっと違う。

●音速進化とビッグマザー


 じゃあこの本の価値はなんなのかというと、解説で榎本ナリコ氏が「黎明期」という言葉を使っておられるけれども、やおいという言葉がまだなかった頃、最初期に男性同士の恋愛を描いた作家である「栗本薫」という視座からすべてを語っているということじゃないかと。
 つまり、いろいろと派生したり枝分かれしたりして大樹になってしまった「やおい」というものの、その一番根っこの部分ができたときに関わっていた人間だから、その後、枝分かれした部分についても語れるはずだ、という前提がある。もっとざっくり言ってしまうと、栗本薫は「やおい」全体のビッグマザーだから、現在、やおいが含み込んでいる問題とかテーマについても、その萌芽は「栗本薫」の中に認められるはずである、ということだと言ってよかろう。もちろん、本人はそこまで尊大な物言いはしてないけれども、でもそういう前提がなければ、「栗本薫」という作家の実体験から「やおい」全体を論じるということは不可能なのではなかろうか。論の土台と論じる対象が、どこかでつながっているという確信があってこそ、評論というのは成り立つのだと思うし。
 で、栗本薫がやおいにとってオンリーワン・ビッグマザーであるのかどうか、というあたりには、異論がいっぱいありそうなのだが、僕はそこらへんには詳しくないので語るべき言葉を持たない。
 ただ、ビッグマザーだったらそこからの派生をすべて語れるのか、というと、それはどうかなあという気はする。やっぱりそこには自ずから限界というものが出てくるであろうし、たとえ話で言うなら夏目漱石が村上春樹を論じたらどうなるか、みたいなもんだとすれば、そこにある種の滑稽さも認められようというものだ。
 で、実は中島梓氏本人もそのあたりは自覚していて、それは「文庫版あとがき」を読むとわかる。というかむしろその自覚こそがこの本を書く原動力なのではないかという気もする。

 この本が最初に刊行されたのは1998年で、やおいを取り巻く状況というのはそのころと比べてさえ、どえらい変化をしたもんだと思うわけですが(だってふつーにPS2でBLゲーが出る時代だもんなぁ)、その1998年頃に、中島梓氏は、「親離れ」しつつあったやおいに対するある種の惜別の言葉(まあその後もやおいを書き続けておられるので惜別というのはちと違うか)として本書を著したのではないかというのは、センチメンタルな見方というもんでしょうか。
 「文庫版あとがき」には「BLはヤオイではない」というなかなか衝撃的な言葉も登場しますが、こりゃまあ、師匠が弟子に向かって「おのれらのやっておるもんはワシの愛したやおいではないわーっ!」と言っているようなもんでしょう。そこには最近の「美味しんぼ」で海原雄山が山岡士郎に対するような、あるいは旧世代のオタクが「げんしけん」世代のオタクに対するような(9巻特装版「同人誌」の篠房六郎氏のマンガを参照)、愛憎入り乱れたナニモノカがあると思うのですよ。

 で、さっき例に出しましたが、たとえば夏目漱石が村上春樹を論じたとしたら、多分、滑稽になってしまう部分もあるだろうけれども、きっと読むべき部分もあるだろうということは容易に想像がつく。
 本書についても、とっちらかっている部分はもちろんあるわけですが、読むべき部分がないということではない。それが、前段の最後で述べた「めちゃくちゃで読む価値がない本かというとそうでもない」ということの意味合いです。まー、その部分の腑分けとかは、やおいが好きな人にやってもらわんとどうしようもないと思うので、僕としてはこのへんで感想の筆を擱きたいと思いますが。
 しかし、この本の中に渦巻いてる熱量というのはなかなかすごいです。翻って、今の僕にこれだけ熱く語れるジャンルがあるかと問われると…、うむう。
(2007.9.6)


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『グイン・サーガ81 魔界の封印』
 (ハヤカワ文庫
 *****刊)
 パロの内部で翻弄されるイシュトヴァーンと、レムスと対峙するグイン、という感じのお話。
 最後にかいま見せるレムス自身の素顔が印象的な今巻ではあるが、しかし、それ以上に印象的なのが、いつもにまして忙しいから、と作者自らが語るごとき理由のためか、やたらと躁状態の著しいあとがき。それなら少しは仕事を絞り込めば良さそうなものを、そうしないのはライター・ホリックというべきか、狂気の沙汰というべきか。
 しかし、ただのハイテンションとは違うのは、妙に感極まったところがあるというか、万能感のようなものを露わにしているところで、何かアップ系のクスリでもやってるんじゃないかという勢いがある。これはまぁ、僕とても、かつてはへっぽこライターのはしくれとして「このスケジュールであとこんだけ書くのかよ」という修羅場をくぐっていたから、ある程度、自分の身にも経験のあることではある。物書きというのは、ものを書くように生まれついた人間のことだから、「針を振り切らないと書けない」という状況になったら、風邪を引いたときに体温が上がり、日射病のときにのどが渇くように、体がそれを察知して針を吹っ飛ばしてしまうのだ。
 それは多分に同情的にとらえうるところのものだから、「グインは他の小説とは違う」「自分は自動筆記しているだけのような感触」とこれまでにさんざん言ってきたのに「もしちょっとでも私に興味をもってくれたのなら、ほかのひろがり、ほかの世界も見てくれたら全然違う風景が見えるのに」と書くのは矛盾しておりはしないか、というような意地の悪いことは言わないようにする。
 が、そもそも、その時期にあとがきを書く必要が本当にあったか、というのは、疑問を提出してもよかろう。元から乖離した本編とあとがきではあるにしても、もう少し、スケジュールに余裕を持たせて、それぞれの仕事の間でのつながりを「作者」という一個の肉体以外にも持たせるようにした方が、後になって、実を結びやすいのではないかと思うのだけれど。
(2001.12.12)


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『グイン・サーガ80 ヤーンの翼』
 (ハヤカワ文庫
 *****刊)
 もろもろあるも基本的にはイシュトヴァーン篇。それはゴーラ編ではないのかと問われると、ゴーラ編では明らかにない。なぜならばケイロニアやパロと比してわかるとおり、ゴーラ編に突入すると、とたんに登場する固有名詞が少なくなるからだ。これはもう、そもそも人材がいないからに他ならないが、そうした小説世界内での事情はさておいても、やはり明らかにそれは少ない。
 なぜそうなってしまうのか。それはイシュトヴァーンを中心に物語が回っているとき、彼が王であり、従って彼の動静は1国の動静と意を同じくするにもかかわらず、最も重要なのはイシュトヴァーンの内面であるからだ。
 だから、その他の人物はあくまで遠景でしかなく、それゆえに政治も国情も、描かれていないわけではないにも関わらず、いたって印象が薄い。それは政治や国情という事象そのものが、描かれ続けるイシュトヴァーン1人だけで動かせるものではないからだ。つまりは、描かれていないイシュトヴァーンの周辺部分には、省略されていることがたくさんあるのである。
 イシュトヴァーン編がもっとも輝き(そしてそれと比例してイシュトヴァーン自身の機嫌も良くなるのだが)、その相貌を明らかにするのは、だから、戦争においてである。戦争は、たしかにマキャベリのいうように政治の一形態ではあるだろうが、しかし、個人の資質が占める割合が、内政よりも格段に大きい(もちろん、中世の戦争という意味合いにおいて)。「指輪物語」において、サウロン討伐に際したエルフ軍やドワーフ軍が魅力的に描かれえたのは、そこで登場人物を数多く描かなくて済んだからに他ならないことを思いだそう。
 そしてこうした事情は、イシュトヴァーンがこの物語において、もっとも運命という渦に翻弄されている主要人物であることを雄弁に物語る。一国の王として国を操縦するという、運命の渦の中心にいながら、しかしその渦を自らコントロールしていない。コントロールしているのなら、彼を描くことで内政もある程度まで描けるはずなのだ。そこにやはり、この人物の魅力もあるのだろうし、危うさもある。そしてもうひとつ物語るのは、「運命の大勢を決めるのは、それでもやはり政治力である(力よりも知性)」という、作者の、あるいはこの作品の内包する価値観である。それは、「コナン・ザ・グレート」をひとつの範とするヒロイックファンタジーの世界に、この作品が投げかけるひとつの反乱の試みでもあるのかもしれない。
(2001.12.10)


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『グイン・サーガ79 ルアーの角笛』
 (ハヤカワ文庫
 *****刊)
 読んでいて、あたかもパロの話であるような気がしていたが、実は1巻まるごと、ケイロニアの話なのだった。パロの情勢に反応するケイロニアの様子、というだけで300ページ足らずを埋め尽くしてしまうというのも、なかなかに筆力と、それから79巻という、積み重ねてきた物語の重さを感じさせる。「この国の気質はこうで、このキャラクターはこのときはこう動いて」というのがわかっていないと、こういう芸当はできない。で、それはもちろん、想像力のたまものでもあるが、同時に物語を積み重ねることでしか生まれない「厚み」でもある。
 漫画だと、長期連載になればなるほど、話が作りやすい、というのがある。「こち亀」なんか代表的だけど、どんな小さなことでも、話のとっかかりがひとつあれば、後はキャラクターの組み合わせにしたがって話が出来てしまうわけだ。
 ところがこれは、パロディ小説・パロディ漫画の話の作り方でもある。読み手として、元となる作品をよく読みこんでいればいるほど、小さなとっかかりから話がどう広がっていくかがわかる。だから後は、それを記述していくだけになる。「こち亀」なんて、だから今ではもう、基本となる話の型の部分では、秋本治がセルフパロディをやっているに過ぎない。秋本治の凄いところは、高橋留美子のように、そこでひとつの設定を打ち止めにしてしまうという選択肢を取らずに、その型の俎上に常に最先端の題材を、それもそれなりのうんちくと一緒に乗せていくことで、ストーリーの型のバリエーションとは無関係に、漫画としての面白さを保ってしまっているところなのである。次の作品を書き始めるのでもなく、しかも水戸黄門やサザエさん、水島新二的な偉大なるマンネリにしてしまうのでもない、というのは、想像力だけでは出来ない、取材力とか体力とかが必要な作業であって、こういうところ、ある程度、実績のある人にしかできないという部分はあるものの、なかなかの芸当だと思う。
 さて、話を戻して、話が作りやすくなるということは、ただし、ストーリーという面では、逆に足かせになる。つまりそれは、「型」の構築がほぼ終了していることを示すのだから、それだけ図体が大きくなって、動きが緩慢になりやすいということをさえ意味しているのだ。
 グイン・サーガの動きが緩慢であるか、というと、それはたしかに、なりすぎているということはないにしても、初期と比べてみれば緩慢になっていることは否めないと思う。シルヴィアがグインの出兵に際してだだをこねるとか、アトキア公ギランが老人らしいくどくどしさを発揮するとか、そういったことは、初期のころならなかっただろうし、またやろうとしても出来なかったことだろう。
 それは悪いことでは決してない。しかし、それは作者にとって、これはエピソードとして書く、これは余分だから書かない、という判断が求められるということをも、また意味する。展開がファン心理によって遅滞する、というのは、やはり、あまり良いことではないのだから。
 ところで、105ページ、ケイロニア諸侯の力強い「おお!」という声を、字体を角ゴシックに変え、大きさもやや大きくして、その力強さを表現していますが、こうした技法というのも、また今後、出てくるものでしょうか。初の試みであると同時に、手塚治虫が「新撰組」のころに劇画の影響で初めて血のりを書いたときのように、あまりうまく使えてないな、とも思いますが。
(2001.12.8)


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『グイン・サーガ78 ルノリアの奇跡』
 (ハヤカワ文庫
 *****刊)
 今度の表紙はイェライシャですか。このおっちゃんも、最初に出てきたときはこんなに力のある魔導師だとは紹介されてなかったようにも思うんですが、元の設定からこうだったのか、それとも出世したのか、今ではグラチウスと肩を並べておりますな。
 今巻は、恋物語あり、アクションありと、それこそハリウッド映画のようなエンターテイメントぶりで、読むのがいつもにまして早かった。主な流れとしては、ナリスが仮死状態から目覚めるまでのこと、というくくりになりますね。
 ここで問題は、恋物語は、まぁ、自然の流れなので問題ないにしても、やや唐突な印象さえ受けるヴァレリウスと怪藻とのアクションシーンの存在です。思うに、ここでアクションシーンがなくても、別に問題はなかったはずで、それをあえて挿入せざるを得なかったというのは、やっぱり何らかの理由、それも物語上の因果律から来るものではなくて作劇上の理由を見るべきでしょう。
 つまり、ナリスの偽死亡説というのは、とにかくヤンダル・ゾッグの魔の手から逃げるための窮余の策だったわけで、それがうまくいったからこそ、ナリス軍はカレニアに逃れた上で態勢を立て直せるわけですね。ただ、本当にすんなりいきすぎると、窮余の策が窮余の策にならない、というか、ナリスが仮死状態の間にはこんなことがあってあんなことがあって、という部分に欠落が生じてくる。そこで、ヤンダルの尖兵としての怪藻が出てくるということになるんだと思います。
 伏線、というか理由づけてとして、ヤンダルもナリスの死亡説を疑いつつ、確かめる手段を防がれてしまっているので、情報が欲しいのだ、という理屈があるんで、これはおかしなことではないんですが、しかし作劇上の理由が入ってくるというのは、これは「極力、作者と作品を分ける形で表に出していこう」というグイン・サーガの方針の中では、割と珍しいことだと言えるでしょう。
 そこから敷衍して、(76巻についての評でちらっと書いたようなこととも少し関連しますが)「作者−作品」というつながりを、もう一度、作品を支配する論理の主要なものとして浮かび上がらせるような考え方も可能でしょう。で、それにも関わらず、「あとがき」と「作品」の間に、絆が薄いように感じられるのは、「あとがき」もまた作者によって書かれた作品に他ならないからです。つまり、作者は作品を支配しうるけれども、作品が別の作品を支配するということはあり得ないわけですね。もちろん、「あとがき」の方が地に近い文章だから、本編よりもメタな位置に来るということはあるでしょうが、それは決してその位置を越えない。
 で、それを「作者が作品を恣意にしている。許せない」ととらえるのが、ヤオイは嫌だ、という人の考え方の根っこにある考え方です。でも、これは明らかにおかしい。作品をどういう方向に持っていくかという判断をする権利は、最終的には作者のものなんだから。
 グインではたびたび、あとがきなんかで、「作者は自動筆記装置のようなもので、すでにそこにある『グイン・サーガ』という物語を書き写しているような感覚がある」と書かれたりしていますが、これが「極力、作者と作品を分ける形で表に出していこう」ということのあらわれであり、そしてそれを過度に押し進めると、「作品は公共のものだから作者が恣意にすることは許されない」という奇妙なロジックになっていくんだと思います。
 もちろん、発表された作品はすでに作者の完全な私物から離れて公共性を獲得している、という考え方もあるわけですが、しかしその公共性は、あくまで私物性の下位に位置する属性だと考えておく方が妥当なんじゃないでしょうか。まして、「グイン・サーガ」というのは、今、まだ書かれている最中の作品でもあるわけですし。
(2001.12.7)


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『グイン・サーガ77 疑惑の月食』
 (ハヤカワ文庫
 *****刊)
 おそらくはヨナ、なんだろう、末弥純の描く表紙が一段と冴える、ゾロ目の77巻目である。末弥純の本領は、その構図と、そして光の描き方にあるのかもしれない。というか、光線の当たり具合をこれだけうまく表現できる人も珍しい。
 内容は、というと、ナリス自害の報を受けての、ナリス軍および諸外国のてんやわんや。いやぁ、イシュトヴァーンはますます救いが無くなっておりますな。ただ、今巻の最後に、ややコミカルなところもあるマリウスの出奔を持ってきたところに象徴されていますが、もう3度目ですか、ナリスの狂言死亡説。その狂言性を、作者としても、あえて露骨なくらいにほのめかしているという部分が見て取れます。図太いよな、こういうところ。
 で、74巻の感想を書いたときにも、ジャパニーズファンタジーというものについて軽くふれたが、今回も読んでいて、ジャンル全体に関わることに思いが及んだので少しだけ。
 日本の出版業界というのは、伝統的にミドルティーン、13歳くらいから17歳あたりまでの年代に弱い。僕がその年代だった頃に、その年代向けの作品としてどんなものを読んだかと考えてみると、このグインと、高千穂薫のクラッシャー・ジョウ、あとは星新一のショート・ショートあたりとか、和製ファンタジーブームの嚆矢である水野良のロードス島戦記とかがあって、それ以外には、ヴェルヌらの外国作品になってしまう気がする。僕たちの年代とよりも少し上、ちょうど活字離れと言うことがいわれだしたあたりのミドルティーンというのは、実は読めと言われても読んで面白いと思える本がほとんど出版されていない、という世代だった。たしかに朝日ソノラマ文庫はあったし、田中芳樹もいたし、SFだってそこそこ隆盛(そろそろ衰亡期?)だったにしても、出版点数という点でいけば、読める本は決して多くなかった。
 児童向けの本や、「大人向け」という感じの本は出版点数が結構多い。それに比べると、ミドルティーン向けの出版状況が置かれた環境っていうのは、決して幸福なもんじゃなかったと思う。
 で、実はこの状況は、今も、多少は良くなったとはいえ、あんまし改善されてない。ゲームとか漫画ってよく売れてるじゃない? それも、「活字離れ」によって一度は放逐された「物語」が存在しているものの方が売れる。アニメが好きな人は僕の回りが特にそうだというのもあるだろうけど多いし、映画もミドルティーン向けの映画は多い、というか、この層がそっぽを向いた映画は絶対にヒットしない。
 つまり物語に対する需要は大きいわけだ。そして、需要は急にふくらんだわけではなくて、前から大きかった。にもかかわらず、小説というジャンルにあっては、長い間、その需要に応えてこなかった。そりゃ活字から離れるわけだよ。
 そんな中で、栗本薫と、その世代のSF作家、山田正紀とか神林長平とか高千穂薫とか岬兄悟とか大原まり子とか新井素子とか久美沙織とかっていうのは、非常に貴重だったと思う。たとえ、ジャンル的にはSFに大きく偏っていたとしたって。なんせ、伝奇小説には夢枕獏と菊池秀之がいたとしても、推理小説にはそういった存在はほとんど皆無だったし、純文学にいたっては、ミドルティーンが読んで面白いと思える作家は、今にいたるまで太宰治が読みつがれ、村上春樹と村上龍に指を折ることが出来るといった程度。
 その世代向けの文学、というのは、本当はあってしかるべきものだと思うんだけど、どうなんだろうね。
(2001.12.6)


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『グイン・サーガ76 魔の聖域』
 (ハヤカワ文庫
 *****刊)
 栗本薫『グイン・サーガ76 魔の聖域』読み終わり。
 なんか最後の方でナリスが自害したとの声があがっておりますが、続刊をすでに入手済みの身としては、79巻の帯で「復活したナリスは…」との文字を見ており、なんだかショックを受けそこなって損をした気分。
 しかし、75・76巻のあとがきは2ちゃんねるとの対決姿勢が鮮明です。「匿名の批判は匿名であるという時点ですでにある意味では批判とは呼べない」として、「そうした文化とは私は絶対に相容れないだろう」と言いつつも、その批判の多くを占める「ヤオイ化反対」の声に対しての釈明を試みているあたり、まだまだ優しいと言うべきなんでしょうが、つまるところ、「匿名性に乗じて言いたいだけ言う」という姿勢は批評性を持たない、ということでしょう。
 批評性、という言葉をどう解釈するかにもよるけれども、「東京新聞」に連載されていた「大波小波」のように、匿名であっても、いい批評というものは実は存在します。ただし、匿名であるわけだから当然、署名性とか正当性とかは持っていない。「誰々が書いたものだから」とか「文句があったら誰々に言え」とかは無いわけです。持っていないところに匿名の意味があるわけですね。無記名だから好きに言わせてもらうけど、それを信じるか信じないか、意見として重く見るか一顧だにしないかはお任せします、という部分にこそ意味がある、というかそこにしか意味はない。
 2ちゃんも同じで、無記名で書かれた書き込みにどう反応するかは、結局、読む側の意志に一任されるわけですよ。それがたとえニュース速報板だろうがヲチ板だろうが、信じる信じないは読む側次第。それが何かの作品への批評なら、読むも読まないも、それに反応するもしないも、読む側の自由意志に任せます、というのが建前なのね。
 もっとも、一旦、他人の目に触れるところに文章を掲示しておいて、後は任せます、というのが、本当に自由意志に委ねられているということだと言えるのかどうか、という部分で、落とし穴はあると思いますけど、でも、その建前を呑まないんなら、匿名のものは全て読まない、ということにするしかないという部分もある。特にインターネットはそうですが。
 だから、このあとがきで語られていることが全面的に正しいとは、僕は思わないんですが、しかし、「(75巻のあとがきで悪く言われたのが)自分のところかと、会員が疑心暗鬼になって大紛糾している。あなたにはそれを収拾する責任がある」という抗議のメールを作者に送ったという、2ちゃんねらーとおぼしき人物の主張には失笑せざるを得ないでしょう。
 「何を言ってもいい」代償として「何を言われても構わない(および、何も言われなくても構わない)」というのが、匿名であるということなわけでして、さっきの論理で言えば、そこを受け入れないんなら、匿名で何か書く意味と資格はないのよ。
 まぁ、資格は無くったって、口でぶつくさ言うかわりに何か書けてしまう、というのがインターネットであるわけで、2ちゃんねるが抱える最大の問題点もそのへんではあるのでしょうがね。
 もっとも、結局のところ、この2巻でのあとがきは、ぶっちゃけた話が「本編とあとがきは別物だ」ということを証明したに過ぎないのかも知れません。ヤオイ化した、と言ったところで、変わったのはむしろ、「ヤオイ」という視点を手に入れた世間の目の方で、それにあわせて、表現がやや変化してきているにしろ、本編はむしろこの20年間、あとがきほどには変化していない、と感じるのです。、
 しかし、きょうび、ヤオイくらいでガタガタ言ってんじゃねーや、という気もしなくはないですな、実際のところ。
(2001.12.3)


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『グイン・サーガ75 大導師アグリッパ』
 (ハヤカワ文庫
 *****刊)
 いや、全体の3/4まで来てしまいましたか、そうですか、という感慨もひとしおの75巻目。それもあってか、内容的にも、派手な動きにこそ乏しいものの、かなり重要なポイントが含まれている。
 ほとんど1巻まるごとを通じて、ついにお目見えしたアグリッパが世界の秘密を語り明かす、という、いわば種明かし的な内容を多く含んでいることもさりながら、比較的巻頭に近く、16〜17ページでは「魔道とは、『おのれの肉体をきたえ、ひとの子のものとは細胞から変化した、進化したものに発展をとげるようきたえ、変質させ、精神生命体に向けておのれを修業によってしぼりあげてゆく』ことで、精神が肉体を支配するようになり、様々な術を使いこなせるようになるものである。それによって、寿命自体をも超越し、世界の真理を知るに時間不足な人間の定めをも越えようとするものだ」と、ほとんど初めてであろう、魔法の体系、というか仕組みについての解説がなされている。
 これ、割と重要なポイントで、しばしば登場する魔道師たちの言動に、これでようやく理解が行き届くわけだ。ヴァレリウスは魔道師らしいところの少ないキャラクターだから、これまで、魔道というものについての解説がなくても何とかなったわけだけれども、これからはこういう論理が作品を覆っていくんだろうなぁ。
 あと、面白いところでは、アグリッパが「ナリスは本当ならもう死んでるはずだったのに」とか言うところがあって、これは以前の巻のあとがきにあった、「何人かは確実にお亡くなりになります」という作者の発言とやや呼応するのかな、という。
(2001.12.1)


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『グイン・サーガ74 試練のルノリア』
 (ハヤカワ文庫
 *****刊)
 ナリスはジェニュアで態勢の立て直しをはかり、ヴァレリウスはルードの森でイェライシャと会見し、ナリスママが出てきてがみがみ言う、というお話。なんのこっちゃ。まぁ、1/100であると考えれば、そんなものなのかも知れないが、描写密度と意味的密度を、ほとんど両者が乖離しきってしまう寸前まで引き離してしまう手腕には、いつもながらあきれると同時に感心させられる。
 それでいて、300ページのワクの中でまとまった話を書けといわれれば、それを書いてしまうだけの実力も持っているところが、なかなか栗本薫という作家の盤石なところだ。グイン・サーガという、まさしくサガ以外の何者でもない作品であるからこそ、全ては水彩的な、あるいは水墨画的な濃淡ではなく、アクリル絵具、あるいは岩絵具のような多層的な厚塗りでもって、一見、のっぺりとしているように表現される。普通だったら、省略してしまうようなことをもひたすら書き込んでいくことで、物語はかえってリアリズムを離れ、しかも神話的な抽象性ではなく伝説的な絢爛な彩色となっていくわけだ。
 もっとも、この手法がジャパニーズ・ファンタジーに与えた影響は意外と大きくて、何でもかんでも厚塗りにすれば重厚華麗だという風潮が生まれてしまったという側面はある。もちろん、その一方には、会話文と現実世界的な筆致でアニメ的なリアリティを獲得しようという手法が存在し、これまた、SFでも学園ものでもハイ・ファンタジーでも、全て同じ描き方で表現してしまうという安易な風潮を生み出す結果ともなったわけだから、手法自体は決して悪しきものではなく、それを方法論として明文化しようとする意識だけがひたすら欠落する状況にこそ、ジャパニーズ・ファンタジー凋落の素因を見て取るべきではあるだろうけどね。
 そう、日本のファンタジー、特にライトファンタジーには、徹底して文学評論の視点が欠けていたのだ、今思えば。それさえあれば、もうちょっとマシな状況もあり得たのではないかと思うのだが、ファンタジーに関するエッセイやコラムは文体などではなく、ひとしなみにゲームへ、RPGへとリンクしようとしていた。それはおそらく、潮流そのものという以外に、商業的にそっちの方が儲かりそうだった(マーケットとして可能性があった)から、ということが影響していると、僕は考えている。
(2001.11.29)


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『グイン・サーガ73 地上最大の魔道師』
 (ハヤカワ文庫
 *****刊)
 この長大な物語に、久しぶりで、ヒロイック・ファンタジーとしての相貌が戻ってきた。怪異な生き物たちと、ほとんど体系の説明されない怪しい魔道。あとは、コナン・ザ・グレートのようなヒーローが登場すればヒロイック・ファンタジーが生まれることになる。マッチョである、というのは、この際、重要なことだ。怪しさが坩堝となってうごめく世界を、常人離れした腕力で切断するヒーローの存在こそが、ヒロイック・ファンタジーをヒロイック・ファンタジーたらしめる、と僕は思う。そしてそれゆえに、ナリスやイシュトヴァーンは決して主人公になれない。
 今巻では、ナリスの擾乱にキタイの竜王ヤンダル・ゾッグの手兵が絡んできはじめたところから、闇の司祭グラチウスの介入を経て、ナリスとヴァレリウスがクリスタルを離れるところまでが描かれる。タイトルの「地上最大の魔道師」とは大導師アグリッパのこと。初めて彼の名が、現実的な響きを伴った形で登場した。
 多分、こうした魔道めいた存在の顕現化に伴って、本作は再び純正ヒロイック・ファンタジーへと回帰していくことになるのだろう。73巻をかけて、「ヒロイックファンタジー→政治陰謀劇→戦記→ヒロイックファンタジー」というジャンル横断的な流れが出来てきているわけである。ほとんど唖然とさせられるばかりの長大さながら、この変化があることによって、読者たる僕たちはこの長大さと饒舌に飽きることなくつきあうことが出来る。
 かれこれ10巻ほど、買ったまま読まずに本棚の上で塵をかぶったままとなっている本シリーズ。一気に読もうかと考えてはいる。
(2001.11.27)


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『グイン・サーガ72 パロの苦悶』
 (ハヤカワ文庫
 *****刊)
 表紙の凛々しい女性騎士はリギアか。本編ではあまり目立たないけれど、71巻で表紙になったナリスはともかくとして、叛乱軍の中では一番絵になる人なのだし。ヴァレリウスもちょっと前に表紙になったし、リンダは囚われの身になりっぱなしで出てこない。ルナンはただのじーさんだし、こうして見ると、叛乱軍は今のところ、本当に人材が手薄なのですな。
 ヤンダル・ゾッグが本格的に本編にも顔を出してきました。人名なのかどうかもわからなかった初期、忘れ去られていた中期を経て、最近は名前を口にするのさえはばかられていましたが、これからはどんどん、政治劇宮廷劇の中にこの龍人が登場するようになるのでしょう。
 しかし、これだけ巨大な物語となると、常人にはその「外側」にある作者の影を見据えることさえ困難になってきます。こうなると、自分が何を見ているのか、何を見ていないのかわからなくなってきて、作者の意図などありはしないかのように、まるで、つまらない夢物語を眺めているかのように錯覚してしまいそうになります。
 実際、僕にもそういう時期はありましたし。
 ただ、それでもやはり、周到に隠されているとは言え、「外側」はちゃんと存在しているし、その「外側」のさらに「外側」、作者の意図の及ばない、小説特有の領域も存在しているようです。そのことが、ヤンダル・ゾッグの登場で明確になりつつあると感じるのですが、どんなもんでしょうか。
(2000.6.14)


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『グイン・サーガ71 嵐のルノリア』
 (ハヤカワ文庫
 *****刊)
 末弥純の表紙画がいつもに増して光っている今巻ですが、内容としてはどっぷりとパロ陰謀篇で、しかしそれでいて、進展するところは進展する展開の、ゆったりとしたスピード感がなかなかに心地よかったです。
 それとほぼ不可分に結びついた、高貴なる者による叛乱という主題は、優雅さとギリギリ感の背中あわせになった、奇矯な美しさをはらみます。そのギリギリ感が、ギリギリの場所でしか成立しないラヴを強引に成立させていたりもするのですが、そのラヴの中にある恍惚感は、ラヴの一方の主であり続けるナリスによって、冷徹に見つめられます。
 それにしても、リンダは影が薄くなりましたなぁ。
(2000.6.11)


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『グイン・サーガ70 豹頭王の誕生』
 (ハヤカワ文庫
 *****刊)
 栗本センセお得意のお祭シーンあり、ちょっとした種明かしあり、何かと華やかな今巻です。しかしそれでも、何かとラヴなシーン満載なのは、最近のグイン・サーガの傾向というものでしょうか。ヴ。
 いやまぁ、ラヴもいいんですけど、こうなってくるとヒロイック・ファンタジーとしての側面は、出てきても付け合わせみたいな扱いにはなってきます。ま、面白いからいいんですが。
 男性作家でラヴばっか書く人というのも、渡辺淳一とか吉行淳之介とかいますけど、男がやると妙にエロ親父っぽくなっちゃうのは難点ですね。「エッチ」じゃなくて「エロ」になると、どーもつまんないので。
(2000.6.9)


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『グイン・サーガ69 修羅』
 (ハヤカワ文庫
 *****刊)
 さて、なんだかここに来て展開が早くなってきた「グイン・サーガ」終盤突入間近です。あと30巻でグイン・サーガも完結(予定)。ということは、まぁ、あと6年くらい…。終盤と言っても、長いですね、スパンが。
 久しぶりに生き生きとしたイシュトヴァーンが見られて、それなりに嬉しくもあり、最初の頃から比べると妙にホモくさくなっているカメロンとの間柄に苦笑いしたりでした。
(2000.6.7)


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『グイン・サーガ68 豹頭将軍の帰還』
 (ハヤカワ文庫
 *****刊)
 軽快でありながらもちっとも話が前に進まないという、よく言えば隙のない粘着質の、悪く言えば水増しされた展開は相変わらずです。これをよく言うか悪く言うかは、小説としての完成度から判断すべきで、僕自身は、これだけ長い巻数を積み重ねて、そこにある種の感慨を生じせしめたという実績がある以上、これをよく言うべきだと思いますがいかがなものでしょう。
 ところで、かつては「刹那」「無辜」といった単語がよく見かけられたグイン・サーガですが、今巻では「知悉」の語がよく見られました。
 こういった言葉のセレクトは、必然からなされたものというより、「この言葉が雰囲気にあっているな」という、むしろ気分的なものからなされたものと思います。まぁ、栗本センセが何となく気に入っている、というふうに言ってもいいかもしれない。
 ただそれが、そういう言葉がよく使われていたあたりの展開というものを、ちょっと象徴しているように思えてくるのは、栗本薫という作家の天分と考えるべきかも知れません。いや、存外、すべてたくらみづくのことで、それをたくらみづくと感じさせない度量を備えているということなのかもしれませんが。
(2000.6.6)


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『グイン・サーガ67 風の挽歌』
 (ハヤカワ文庫
 *****刊)
 相変わらず面白い。代表的庶民であるトーラスの煙とパイプ亭で、グインとカメロンが会話していると、既に主人公組の視点がメタなものであることに気づかされる。それを、本書中の言葉で「英雄」の視線と呼ぶこともできるだろう。それは、比較的近い場所が舞台だった第1巻(まだヒロイック・ファンタジーの正統を地でいっていた頃だ)でのグイン達の視線とも違っている。第1巻での視線は、先の例にならえば「冒険者」の視線とでも言えばいいだろうか。
 「英雄と庶民」、という対比関係は、「高貴と俗」とも言い換えられる。「人に生まれの貴賤の差はないが、その精神の持ち方によって、人間には貴賤がある」という言い回しがちょっと前に出てきたと思う(47巻(アムネリスの婚約)あたりの、ヴァレリウスとリギアとの会話シーンだったように思って探したが、残念ながらとりあえず今は見つからなかった)。ここでの「高貴と俗」というのは、すなわちこの貴賤の差と考えていいだろう。で、本書での描き方が、決して一面的ではないけれども、全体として貴族的なものの肯定にむかっているというのは、端的に言えば作者自身(と読者)の好みなんだけれど、60巻以上という歴史の中で、すでにメインの登場人物のほとんどは冒険者から英雄になっているのだな、と思うとちょっと感慨深かったりもしますな。ええ。
(1999.11.26)


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『グイン・サーガ65 鷹とイリス』
 (ハヤカワ文庫
 *****刊)
 いやー、この本を読む折、65巻目を読み抜かして66巻目以降を読んでしまってたんですよね、たしか。そんなわけで、あらためて65巻目。
 こう書くと、65巻目が欠番になったことでミッシングリンクは生じていなかったのか、という疑問が浮かぶことでしょうが、そこはあれです。話が進まないときは全く話の進まないグイン・サーガ。ちょっとだけ「そんな展開になってたっけ」と思いはしても、全体の流れがわかってさえいれば、これがほとんど困らなかったのです。
 まぁ、欠落に気づくだけのモノはあったわけなんですけどね。
 で、まぁ、イシュトヴァーンがゴーラ王に正式即位することにアムネリスが同意し、ナリスにスカールが会いに来るといった内容の65巻ですが。
 会話を、もうほとんど一滴のカルピスを25メートルプールに落としたがごとき希釈率で膨らませるのは、栗本センセの作風というものでしょうが、しかしそれにしても、今巻は妙にスピード感に欠けました。役200ページをさして劇的には進展しない会話のみでつなぐ、ということ自体は、これまでのグイン・サーガを振り返ってみても、そこまで無理のあることではないように思えるのですが(実際、そういうケースはこれまでにもあったし、それはそれで楽しく読めたわけです)、会話の中で何かが動くということが無いせいでしょうか。うーん。
(2000.2.27)


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栗本薫(中島梓)

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