栗原亨



『廃墟の歩き方2 潜入篇』
 (イーストプレス
 2003年11月刊)

●〈監修〉から〈著者〉へ


 前作は結構売れたらしい、現代日本廃墟の探訪紹介本、その第2弾。
 「1」を持っていると、まず気がつく点がひとつある。前作では「監修」となっていた栗原氏の肩書きが、今度は「著者」に変わったということだ。本を作っていく上での役割の違いももちろんあるだろうが、印税の入り方なんかも違ってくるものと思われる。役割の違いにしても、どうして格上げが起きたのか。
 前作の好評を受けて、今度はメインライターをどーんとお任せしましょう、ということになったものだろうか。いずれにせよ前作が好著だっただけに、発展的に続編が上梓されたというのは目出度いことである。
 そもそも前作は「廃墟探険ってのがあってコアなファンがいるらしいから本を企画してみようか」という出版社側の安易な思惑が見え隠れする代物だった。
 監修の栗原氏をはじめ、廃墟系の有名サイト管理人を、言い方は悪いが寄せ集めて執筆・写真提供をお願いし、見映えをよくするために表紙と一部の写真に『廃墟漂流』などの廃墟写真集で有名な小林伸一郎氏を起用した、という企画立案過程が見えるようなつくり。『完全自殺マニュアル』など、一連のサブカル系マニュアル本を意識したイラストとレイアウト。
 そのいずれもが、きっちりと練り込まれた企画と編集方針にもとづいて一定の方向性を目指した本と言うよりも、勢いで作り上げた代物であることを示していた。
 ある種のお祭り的企画物であったのだろうと思う。
 それが予想外の好著になったのは、廃墟そのものが持つ魅力と、加えて提供された紹介文章・写真のクオリティによるところが大きい。そしてそのとりまとめ作業の中で、栗原氏の果たした役割というのが決して小さくなかったのであろうことは、続編となる本作を見れば明らかである。

 では、前作と比べて、どんな違いがあるのか。やってることは基本的に一緒である。廃墟の紹介文と写真、間でちょこちょことコラム。
 ライターが栗原氏1人になったことで(クレジットがなくなったので、おそらく一部のコラム執筆者を除き、文章・写真とも、他の廃墟系サイト管理人はノータッチなのではないかと思う)、さすがに扱っている廃墟の量および分布範囲は狭くなっている。
 目次に「Chapter1 関東廃墟ガイド」とある割に「Chapter2」がどこにもないところを見ると、企画段階ではもうちょっと広い範囲で廃墟のデータを収集する予定だったのかもしれないが、結果的には関東の、それも前作で紹介されていない廃墟が中心だ。
 しかしショボくなっているかと言うとさにあらずで、カラー写真の大幅増、執筆・編集サイドの慣れなどの要因が、かえってソリッドな味わいを本書にもたらしている。「1」のてんこ盛り感も捨てがたいものがあるが、洗練の度合いは格段に「2」の方が上だ。特にカラー写真大幅増には捨てがたい魅力があって、これは進歩と言ってもいいと思う。

●異界(異郷)感覚 -「ノスタルジー」を超えて-


 「1」の感想を書いた際、「異界性」というタームを使って、廃墟の魅力、あるいは娯楽性がどこにあるのかを考えてみた。
 現代日本の廃墟を見て、そこに我々が何らかの魅力を感じるとすれば、それはその廃墟という空間が日常空間からどれだけ離れているか、どれだけ隔離されているか、という度合いでもって、我々がその「離れかた」を楽しんでいるからなのではないか、というわけだ。この考えは今も変わっていない。
 「異界」というと妖精界とか地獄とかみたいでちょっと違和感があるという人は、代わりに「異郷性」と言ってもいい。
 要するに、「ここ(日常空間)ではない」ということが大事なのだと思う。廃墟に触れたとき、人はひとときエトランジェとなって異郷を彷徨うのだ。

 本書のコラムでは、ウシロメタサ氏が「ノスタルジーの正体」と題して、「廃墟にノスタルジーを感じる」と言う人々の「ノスタルジー」とは何なのかを考えている。
 自分が生まれてもいない年代に朽ち果てた廃墟に「ノスタルジーを感じる」というのはちょっと変じゃないか、と氏は言い、「ここラピュタみたーい!」とはしゃいだ女の子の言葉を足がかりに、廃墟に感じるノスタルジーというのは、実は映画やテレビなどのメディアを通して見た偽りの原風景に対する偽りの懐かしさのようなものなんじゃないか、と指摘する。
 なるほどな、という感じだが、僕としてはちょっとこれには異論を唱えたい気がする。

 「ノスタルジー」というのは、単に便利だから、あるいは耳慣れているし、「廃墟」という「かつて生活の場であった場所」との親近性もあるから使われているだけで、実際のところ、「ノスタルジー」という言葉で指し示されている感情は、おそらく本来の意味での「懐かしさ」にひとくくりに収斂される類のものではない。
 というのも、たとえば自分がかつて通っていた小学校が廃校になり、廃墟化したとして、そこに忍び込んで得ることができるノスタルジーは、おそらく一般の廃墟で得られている「ノスタルジー」とほぼ別種のものであると推定できるからだ。

 自分自身が実際に過去にそこで暮らしていた場所へ潜入したとしよう。そこでどのような感情にひたるかは自由である。暖かい懐かしさかもしれないし、過ぎていった時に対する哀惜かもしれない。嫌な思い出に陰鬱になってしまうこともあるだろう。しかしいずれにせよ、その感情は、実際に過去にその場所で起きた、具体的な個別の体験と密接に結びついていざるをえない。
 こうした感情は、根っこにある特定の出来事があり、それを流れ去った年月というフィルターを通して眺めることで、抽象化して、色々な感情という抽象的なものへと濾過したものであると考えることができるだろう。
 ところが、自分とは全然関係のない、過去に訪れたことさえない廃墟ではどうだろうか。
 もちろんそこに、過去の具体的な出来事は絡んでこないはずだ。かわりに、人によっては映画やドラマによって見た風景との類似性が見いだされる。

 ただそれは「具体的な出来事→(過ぎ去った年月)→感情」という、先ほど述べた感情の生成過程とは、ほぼそっくり逆の過程で導き出されたものであると想定することが可能だろう。つまり、最初に何らかの感情があり、そこから風景というフィルター越しに、映画やドラマの風景との類似性が確認される、という過程だ。
 この場合の構造は、「感情→(目の前の風景)→映画などの風景との類似性」という形になる。ちょっとデジャヴの生成過程と似ている。
 しかし、この後者の場合、そのスタート地点の「感情」は、どこからやってきたのか。人は、いきなり唐突に何かの感情を抱く生き物ではない。この「感情」もまた、目の前の風景から喚起されたものであることは自明だろう。
 だが、「(目の前の風景)→感情→(目の前の風景)→映画などの風景との類似性」という構造を描くなら、ひとつのフィルターがふたつの結果を生むという撞着に何らかの解答を与えなくてはなるまい。
 僕の考えとしては、第1の(目の前の風景)では、ピントがその風景の異界性に漠然と定まっており、第2の(目の前の風景)においてはより細部にピントが合っていき、その結果として風景の類似性を見いだすだけの情報の獲得がなされるのだ、と主張したい。最初に大づかみで目の前の風景がどれだけどんな方向に「日常でないか」を把握し、つづけて、その細部に注目する、という順番をそこに見いだしたいのである。

 さて、このように二種類の感情の構造を整理することが可能ならば、このふたつの例において、その中に登場する「感情」が、たとえ似通ってはいてもまったく別種のものであると主張することもまた可能だろう。
 つまり、一般の廃墟で得られる「ノスタルジー」というのは、「かつてここが使用されていたときにも自分はここにはいなかった」ということを条件とする、カッコ付きの「ノスタルジー」なのではないかと思われる。
 その上で、そこにメディアから得たイメージをリンクさせて「むかしはここであの映画で見たような生活をしてた人がいたんだねえ」とノスタルジーごっこにひたるのも、「未来都市に迷い込んだようだ」と空想してみるのも、「ただただ美しい」とその場に立ちつくすのも、それは個人の自由でもあり、どれにしたって大した違いはない、と言えるんじゃないだろうか。
 共通しているのは「これは日常のあの空間ではない」という「異界性」にもとづいた「異界(異郷)感覚」とも呼ぶべき遊離感である。

●異界フォトグラフ


 本書を読んでから、ふたたび「1」を見ると、小林伸一郎氏がこの企画から離れたのは実は結構な痛手だな、と感じる。
 小林氏の廃墟写真は、実は先に述べた「異界(異郷)感覚」を非常によくつかんで、写真に封じ込めている。軍艦島・摩耶観光ホテル・松尾鉱山と、いずれの写真も、眺めていると吸いこまれそうなほどの魅力を内蔵するのだ。まるで自分がその廃墟を訪れて、その風景を実際に見ているような感覚、と言えばいいだろうか。
 対して、栗原氏の写真(冬月もや氏など、同行のカメラスタッフの撮影かもしれない)は、数が多いこともあると思うが、割に廃墟の中の細々した備品や風景を、ルポ写真的にかちっと切り取っているものが多い。もちろん、見ていて何とも言えない魅力を感じる写真もあるのだが、小林氏の写真と比較すると、どうしても力量の差がある。とくに2冊の表紙写真を比較してしまうと、どうしてもパワーダウンの感は否めない。
 実際の廃墟は小林氏の写真のように綺麗なものではないんだよ、と言う人もいるだろうが、写真というのはある物をあるままに写すだけの道具ではないのだ。  もしも続編が出るのなら(僕自身の希望としては出してほしいのだが)、できれば「異界(異郷)感覚」を切り取ったような写真に、もっと触れたいなと思うのだった。
(2004.6.15)



『廃墟の歩き方 探索篇』
 (監修として参加
 イーストプレス
 2002年5月刊)
 廃墟系のホームページとしては有名らしい「廃墟Explorer」の管理人である栗原氏が監修にあたった、廃墟の楽しみ方実践編、といった感じの本。写真も多数収録されてはいるが、大半が白黒であることも含めて考えると、やはり写真集というよりもガイドブック的な意味合いが強いと思う。
 谷川渥氏『廃墟の美学』の「私的文献案内」にも取り上げられたりしている本書、単純にのへーっと眺めていても楽しいのだが、『廃墟の美学』の中でも述べられていたような廃墟論を下敷きにしつつ、中身を見ていくと、さらに興味深い。読んでいて、現代日本における廃墟趣味の受容の仕方というのが、おぼろげに見えてくるのである。
 日本の廃墟ということで言えば、谷川氏が文献としてあげている『廃墟大全』の中の日野啓三、飯島洋一、椹木野衣、四方田犬彦ら各氏の論考についてもリファレンスしたいところだが、いま、『廃墟大全』自体が手元にないので、そこまではしない。怠惰のそしりは甘受する。

 さて本書は、廃墟を実際に探索する上でどのような心配りが必要かを説いた第1、2章と、「全日本廃墟ガイド」として、日本全国の廃墟を短い解説と写真で紹介した第3章の、全3章からなる。
 とはいえ、「廃墟Explorer」内の文章を手直しして掲載した第1、2章と、新たに個別の廃墟について解説を書き加えている第3章とでは、そもそもページ数からしても、格段に第3章にウエイトが置かれていることは自明だ。その第3章を通観すると、取り上げられている50件以上にのぼる廃墟が、おおむね3つの類型に分けられることに気づく。
 まず、鉱山や造船所などもその中に含む「工場系」。大規模な錆びついた機械群や、広大な構内が特徴的であるように思う。
 次に、ほとんどこれだけでも1冊編めてしまうのではないかと思うほど数がある「病院系」。場所が場所だけに心霊スポットになっていることも多いようだが、独特の白っぽい内装が特徴的。
 さらに、レストランや遊園地、旅館やホテルなどの「レジャー施設系」。客を楽しませるための施設だけに、内部の構造にバリエーションがあって、見ていて美しいというよりも面白いものが多い。というのはつまり、それだけ生活臭が残っているということでもある。バブルの遺産みたいなのが多いのも特徴だろう。
 無論、これらが複合的に組み合わさったものもある。「ゲットバッカーズ」でも戦いの舞台となった有名廃墟、軍艦島など、元が鉱山でありながら、島という立地のために、労働者の家族の住居から、彼らの娯楽施設などまでその中に含まれている、複合型の廃墟の代表例と言える。

 類型的に3種類に大別してみただけでは芸がないが、収められている写真を見ていると、これらがそれぞれに違った楽しみ方をされているというのがみえてくる。
 廃墟の愛好者でもない僕がいきなり断定してしまうのもいささか問題はあるだろうが、これらの廃墟の魅力は、一言でいって、その異界性にあると思う。
 廃墟という存在が濃密な死の隠喩であるという意味においてもそうなのだが、その風景自体が、何か日本でない感じ、現在でない感じ、現実でない感じを、強く訴えかけてくるのだ。この「〜でない感じ」こそが、異界性の強度であり、またベクトルである。
 例えば「工場系」の廃墟の多くは、その何に使うのかも定かでないような機械群と無機的なコンクリートが、巨大な墓標のような、あるいは古代機械のような幻想性で、見る者を魅了する。そこにはファンタジックな物語性が満ちているようだ。谷川氏が四方田氏の論考について説明しながら言うように「たしかに『廃墟の半分は廃墟をめぐる物語』なの」である。ただし、四方田氏や谷川氏が言わんとしているのは、幕末期に勤王派の志士たちの間に、歴代の天皇の奥つ城や楠木正成らをまつった石碑などの一種の廃墟を訪れることが流行した、といった事例で示されるような、その廃墟に「実際に」まつわる物語のことで、こうした工場系の廃墟から喚起されるイメージとは、やや趣を異にする。
 おそらく、見る者によってもその受け取り方は違うと思うのだが、僕などは、収められている工場の写真から、その工場で働いていた人々を想起するよりも、もっと幻想的な、例えば、地球ではない星の誰ともつかない先住者たちが遺した遺跡であるかのような、非常に強い強度の異界性を、物語として受け取ってしまう。

 では「病院系」の廃墟はどうか。
 病院系の廃墟の異界性は、その無機質さ、清潔さによって保証されているといって良いと思う。そもそもが病院なので、まず外観からして白い、四角いビルであることが多い。そして、かつては厳密に保たれていたであろう清潔さは、外部との遮蔽性によって確保されている。それは、レジャー施設系とは対極にある密閉、隔絶といった属性を帯び、猥雑な都市の日常から遠く離れたところにある孤独さを見る者に印象づける。
 収められている写真には、ばらまかれているカルテやうち捨てられたままの医療廃棄物といったものも映っているが、こうしたものが、むしろ非常に人間的に見えてホッとしてしまうのも事実である。
 こうした無機質性が、人によってはオカルト的な挿話を想像させ、いつしか心霊スポットに押し上げられてしまうのではないか。マンションなどはともかく、レジャー施設や工場跡に、心霊スポットはあまり多くない気がする。

 最後にレジャーランド系である。これらの廃墟写真の面白みは、なんと言っても、ケレン味にあふれた遺留物だろう。結婚式場跡に残ったウェディングケーキ、子どもたちの目を引くように描かれたのであろうへたくそなペンキ絵、調味料やビールなどの瓶、民家にあっては家具類や雑誌などの類。
 そもそも、お客に来てもらうための施設だからだろう、施設自体にも開放感のあるものが多い。それにともない、別世界という感じはあまり受けないのだが、むしろ、これらの小道具ともあいまった、ノスタルジックな雰囲気が、時代的な懸隔を、工場や病院と比べても強く感じさせる。それは、バブル期のペーソス漂うしょうもなさだったり、高度成長期のモノクロームな世界が突如として現代に甦ってきたかのような驚きだったり、昭和初期以前の失われてしまった優美、あるいはのどかさだったりする。
 正確な意味で「廃墟の半分は廃墟をめぐる物語」であるというのは、こういうことなのだろう。ただし、そこには、四方田氏の引用するような滅んだものを悼む気持ちから発展するようなイデオローグ的ナショナリズムの影は、あまりないように思える。というのも、日本に遺されている廃墟には、せいぜい数十年のスパンしかないからなのだろうが。

 無論、いま僕が述べたような受容のされ方というのが、ただの印象批評による憶測であるということは否定しない。
 また、仮にそうした受容のされ方があるにせよ、例えば鉱山の廃墟にかつて第2次産業さかんなりしころの日本の面影をノスタルジックに感じたりといった形で、人によってさまざまに受容がなされているのであろうことはほとんど自明である。
 だが、総じて異界性の強度によって、これらの廃墟が愛されるのであろうことは、僕はほとんど確信している。それを裏側から立証しているように思えるのが、廃墟系のホームページ管理人が一様に口にする、ヤンキー系のスプレー落書きへの呪詛だ。こうした落書きは、もちろん、美観を破壊するという意味でも嫌われているが、同時に廃墟の異界性の中に、突如として持ち込まれる現実感という意味合いでも忌み嫌われている。廃墟の中でそうした落書きを見ると、「なんだか醒めてしまう」という趣旨の言葉を数カ所で見かけたが、これは要するに、そこに異界性のほころびを見てしまうからではないのだろうか。
 本書にも収録されている写真家、小林伸一郎氏や冬月もや氏(三五繭夢氏)の美しい廃墟写真は、そこに収められた死の隠喩が、同時に非常に現実感と結びつきがたいことをも雄弁に語っているように、僕には思えた。
(2003.12.9)



栗原亨

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