マーティン・ガードナー



『奇妙な論理I・II』
 (市場泰男訳
 ハヤカワノンフィクション文庫
 2003年1〜2月刊
 原著刊行1952年)

●名著と名書評


 一応、『I』『II』と通して2冊とも読み終えたわけだが、いやはや、いささか感想を書くのに気が重い。
 元は現代教養文庫に入っていたこの2冊が、ハヤカワ・ノンフィクションとして新たにハヤカワ文庫に入ったのが2003年の1月から2月にかけて。で、その時期、Web上の日記とか書評でもって、この本はさかんに取り上げられているのを目にすることができた。
 それらの感想のほとんどは好意的な感想で占められていて、いわゆる「『トンデモ本』批判本」のルーツとして、この古典が現代でも高く評価されている様子だったと記憶する。
 実際、この本自体は気がきいていて面白いと僕も思うのだが、この本を取り上げた書評の方は、気がきいていて面白かったためしがないんですよぉ、間違いないッ!

 確かに、今さらなにをかいわんやといった本ではある。
 今よりはるかに疑似科学・似非科学が幅をきかせていた(もちろん今でもそういったものはあるし、分不相応に人口に膾炙していることは認める)1950年代、そうした科学の仮面をかぶった迷妄を嘲弄し、かつ一般大衆を啓蒙しようとしたのが本書だ。
 その姿勢は立派というしかないし、それに基づいて疑似科学の論理の誤謬を指摘していくという手間のかかる作業も、またそれを科学的な知識のない読者が気軽に読めるような読み物に仕立てるといった作業も、まさに労作と呼ぶにふさわしい。
 だから結局、何か感想として言うべきことを探そうとしても、似たり寄ったりの賛辞になってしまうのはいたしかたのないところかもしれない。けど、仕方ないからってありきたりの気のきかない賛辞で済ませるってのは芸がないってもんだろうよ。

●科学的な態度で


 さて、あらかじめ自分の首を絞めた上で感想を書かねばならないというのも、よく考えてみればいささかしんどい話だが、まぁいい。逆境が男を成長させるのだ。
 疑似科学というのは、なかなか廃れない。さすがに今、地球は内部が空洞で、とか、未知のエネルギーを利用した永久機関が、などと切り出そうものなら、まあ落ち着けと居酒屋にでも連れていかれるのがオチだろうが、たとえば竹内久美子がよくわからない注目を集め、立花隆が環境ホルモンの害を必要以上に言いたてたのはほんの5年ばかり前の話だ。
 竹内久美子までいくと馬鹿馬鹿しさがわかりやすすぎて薄っぺらいが、例えばゴッドハンドの人の捏造発掘が発覚して、世間が一斉に「自分で埋めて見つけるってどういうことやねん!」と吉本新喜劇ばりにコケた一件など、パッと見でわかりそうなもんなのに、疑似科学がまかりとおってしまうことの恐ろしさというか「そういうことってありえるんだなあ」と感じさせるのに十分だったんじゃなかろうか。
 油断していると、疑似科学は巧みにこちらの虚をついてくる。だからこそ、科学的態度というのが必要となる。

 科学的態度とは何か。
 本書「II」の解説で池内了氏が言うように、「なぜそう言える?」「その根拠は?」と、常に懐疑的であるということというのは、確かに科学的態度の一部ではあるが、単に懐疑的であるだけでは十全に科学的とは言えない、と思う(騙されないための態度としてはそれで十分かもしれないが)。
 重要なのは、実際に起きているものごとが何なのかを多面的に考え、そしてそれを実証的に証明するための方法を考えようとする態度なんじゃないだろうか。
 例えば、巻末の訳補に示されている例で言えば、目の前で「指先で文字を読む少女」が、その能力を実演していたとする。彼女の能力を信じる人は「彼女にはそういう能力があるのだ」と主張し、そうした能力を可能にする未知の磁気や電磁波や放射線といった言説を述べるかもしれない。
 しかしここで、単に「本当か?」と疑うだけでなく、「読んでいる文面を彼女があらかじめ記憶している可能性」「鼻とアイマスクの間から文字が見えている可能性」等々を疑えるならば、騙される確率はさらに下がるだろうし、その可能性を試すにはどのような実験をすればいいかを考えつけるなら、さらにその可能性は下がるだろう。

●科学万能主義とオカルト信奉


 逆に言えば、ガードナー自身も認めているように、従来、科学的には根拠がないとされていたことであっても、実験の精度が上がることで、実は科学的に根拠があったと証明されるケースも出てくる可能性はある。また、はっきりと害があるとか無意味だと認定されるケースも出てくるだろう。
 たとえば、本書ではむしろ疑似科学に近い扱いを受けているハーブやカイロプラクティック、鍼治療などの代替医療。
 現在、アメリカでは、これらの代替医療の受診者が年間のべ6億人に達したのを受けて、「国立補完・代替医療センター(National Center for Complementry and Alternative Medicine)」という組織が設立され、こうした代替医療についての研究がおこなわれている。
 例えばハーブなら、成分分析によって、化学薬品に似た成分がその中に含まれていることがわかり、正式に薬品として認可を受ける、といった成果もあるし、一方で、むしろ有害であるとか、効果があるかもしれないけれども安全性には疑問があるとかいった研究結果も出ている。
 もちろん、従来の化学療法にまさる成果を上げる、とされるものはあまりないし、代替医療にだけ頼って医者にかからないというのはナンセンスだが、そもそも、代替医療研究の主目的は、化学療法に替わるような画期的医療法を再発見しよう、ということではなく、化学療法には化学療法の副作用をはじめとした問題点があるのだから、そうしたリスクを不必要に背負い込むよりも、代替医療の中に効果的なものがあるならそちらを積極的に利用しよう、ということなので、そこは問題ない。
 むしろ代替医療をひとまとめに否定しようというのは、無邪気な科学万能主義に近いのではないか、という問題点も、ここから指摘できるかもしれない。本書がそうだというわけではないが。

●啓蒙主義は古いけど


 ちょっと本来の感想の趣旨からずれてしまった。
 とにかく、疑似科学に騙されないためにも、また疑似科学とされているものが本当は何なのかを考えるためにも、科学的態度というのは重要だ。その意味で、ガードナーの主張は非常に正しい。
 ただし、今のご時世、「啓蒙」という姿勢で読者に語りかけてくる本書は、ちょっと古いというかうっとうしいと思ったのだがどうか。
 結局、と学会(山本弘)がウケたのは、トンデモ本を真っ正面から批判したり、無知な大衆を啓蒙するぞ、という姿勢だったりではなく、あくまでネタとしてトンデモ本を笑ったからだろう。
 個人的には、すでにそういうと学会的なスタンスもちょっとうっとうしくなってきてはいるんだけども、いま、と学会のことは措こう。
 そういった意味で言うと、ガードナーの本書はやっぱりちょっと古いと思うし、古典としては意味があっても、ずっと読み継がれていかなくてはいけないという感じは、僕は受けなかったんだが、どうかなあ。みなさん、まだこういう啓蒙的な姿勢には飽きてませんか?
(2004.3.30)


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マーティン・ガードナー

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