三谷幸喜



『仕事、三谷幸喜の』
 (角川文庫
  ****年*月刊)
 水曜日の23時からフジテレビ系でやってる「HR」は、皆さん、どのくらいご覧になられてるでしょうか。三谷幸喜が脚本と演出をしている、定時制高校を舞台にしたシチュエーションコメディで、舞台劇を強く意識した見せ方をしている番組です。実際にスタジオにお客さんを入れて収録をしているらしく、舞台を見に行けば聞こえるような笑い声も、演技を見るのに邪魔にならない程度に聞こえるという…なんだかこれだけ効けば「ドリフの大爆笑」のようですが、とてもテンポのいいコメディであることに違いはありません。10人近い登場人物が入り乱れつつすれ違いの笑いを織り上げていく様子には、三谷幸喜の構成力の高さを感じて唸らされる30分であります。というかそもそも群衆劇には構成力が不可欠なのですが。
 さて、本書はその三谷幸喜が、みずからの書いた作品について、「これはこんな作品だった、こんな状況で書いた」と注釈を入れつつ総まくりに振り返っているという一冊です。
 いわば三谷幸喜ガイドブックでして、中学校のお楽しみ会で劇をしたときの脚本から、大学時代、素人劇団での脚本、放送作家のバイトをしたときのこと、さらにサンシャインボーイズ時代、昨今の売れっ子脚本家になってからの作品と、本当に多種多様な作品ガイドがなされています。
 結構驚くのが放送作家として手がけた作品についてで、「アイアイゲーム」「えっ、うそーホント!?」といったわかる人には懐かしいバラエティから、「お笑いマンガ道場」「欽ドン」といったメジャー級、さらに「サザエさん」でも何本か脚本をやっていたらしい。
 バラエティ番組の放送作家というのは、コーナーが分かれていたり、脚本よりも出演者のアドリブが重視されることもあって、ドラマなんかよりも楽に放送作家の一角に名前を連ねられる、というのはよく聞く話ですが、大学生時代から卒業直後にかけて、こういう番組に脚本を提供していたというのはなかなか驚きます。楽になれるとは言っても、そこは素人劇団をやっているうちに見つけたコネがあればこそ。そう考えると、当時から、三谷の才能に目をつける人は目をつけていたんだろうと思いますね。
 「サザエさん」では、タラちゃんが夢の中で大人になって、筋肉ムキムキの水泳選手になる、という話を書いて、それがプロデューサーの逆鱗に触れて首になった、と書かれてるんですが、この話、僕の高校時代の友人がよく憶えてて、僕に「こんな話があって…」と、かつて聴かせてくれたことがあります。その時は思いもよりませんでしたが、それが三谷さんの脚本だったとは。インパクトのある話だったんでしょうな。
 この人、中学生時代の作品なんかについての解説をめくってても、割にタイトルのつけかたが上手いんですよね。「聖徳太子が帰ってくる時」とか「ハッシャバイベイビーを返せ」とか、印象的な言葉の選び方をしてる。
 作品の内容にしてもタイトルにしても、インパクトがあるというのは、やっぱり大事なことで、そういうとっかかりが、作品を人の心に残していくんだなと、そんなことを思いました。
(2002.10.25)


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『オンリー・ミー 私だけを』
 (幻冬舎文庫
 1997年4月刊
 原著刊行1993年)
 例によっての軽めのコラム集。「古畑」の第1期が始まる前という、かなり昔に書かれたもので、小林聡美との結婚もしてないし、まだサンシャインボーイズが活動していた頃のことが主だから舞台演劇人としてのにおいがそこはかとなく漂ってるし。
 三谷コメディの基本は、人間は変化しないという、諦観にも似た認識による。ええと、このへんは古畑・王様のレストラン・ラヂオの時間、等々、テレビで見たことがあるような作品群にも共通するところですね。一定のキャラクター造形があったとすると、そのキャラクターから外れようとする人物が、決してそこから逃れられないというところにおかしさを見いだす。
 「文庫版 あとがき」で「刊行から4年経ったけれども、見返してみると自分は全然進化していない。年を取っている分、むしろ退化じゃないか」というようなことが書いてあるわけですが、結局このあたりの認識が鍵なんだと思います。
 つまり、三谷さんにとっては、人間が「変わる」というのは、基本的には「進化」と等号なんですよ。そこを等号で結んでしまうと、「変わろうとして変われない」というのは「進化しようとして出来ない」ということだと理解できる。そうなると、そこに笑いを見いだすのはさして不自然なことじゃないですね。
 ところで、この本のもととなった「とらばーゆ」での連載は、かの細川護煕政権が誕生した時期のことであったりする。その折に書かれた「政局」というコラムには「新井将敬と小泉純一郎は似ている」という指摘が出てくる。「常にどっしり構えて、一瞬林隆三かと思わせるほどの、ふてぶてしさを醸し出しているのが、新井氏。手足が微妙に長く、背広姿が今ひとつ決まらないのが、小泉氏である」と、見分け方が書いてあります。新井氏は故人になってしまったわけですが、片や現職総理大臣。今いち、時限立法化や限定のつけかたなどの細かい部分が煮詰まらない状態でテロ対策法案を成立させてしまうという、力技を見せつけている最中です。
 「髪型もおひょいさんみたいで、どうも政治家という感じがしない。線の細さは、どっちかというと、衆院議員というよりもダンス教師だ」というこの当時の外見評は、今でもさして変わってはないんだけれども、小泉さんはやっぱり、昔と比べてずいぶんと顔つきが厳しくなったよな、と思いますね。ま、いっか、この本についての評で語るにはあまり適当な話でもない。
 とにかく、読んでいてけたけたと笑い転げられる1冊ではあるのですが、1カ所、ツッコミ。47ページで「ドンキーコング」の後にカッコ書きで説明がしてあります。読んでいる人が「ドンキーコング」を知らない、あるいは名前だけではすぐに画像が出てこないといけないという配慮でしょう。親切なことです。しかし、その説明が「ドンキーコング(ゴリラがビルを上る、あれ)」。
 それは確実に、ドンキーコングの説明ではない。多分、ドンキーコングの1面・キングコング・クレイジークライマー、という3つのイメージがごっちゃになっているんだろうと思いますけどね。
(2001.10.28)


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『気まずい二人』
 (角川文庫
 2000年2月刊
 原著刊行1997年)
 対談集なんだけれども、三谷さんが、なんというか、ああいう芸風の人じゃないですか、根っから。だもので、会話がブツ切れになって、ものすごく気まずい状態になってしまうのです。三谷さんはそこで焦ったり落ち込んだりするんだけれども、話し下手の人が焦ったり落ち込んだりすると、状況はさらに悪化するわけでして。
 その気まずい状況を表現するために、この対談集は、戯曲の体裁を部分的に導入しています。「三谷、どうしていいか分からなくなって、窓の外を見つめる」「一瞬、西田の顔が曇る/焦りまくる三谷」といったト書きが挿入されるのです。
 この方式を採用した理由として、「あとがきにかえて」で三谷さんは「台詞でものを表現する仕事をしている人間にしてみると、雑誌でよく見かける対談というものは、あまりに会話にリアリティがないので、読んでいて、とてももどかしい気持ちになってしまうのです。」と説明します。
 実際、リアリティあるのです。こっちも話し下手の人間ですから、状況が痛いくらいにわかる。下手なアクション映画よりもハラハラドキドキです。
 しかしですね、これを計算づくで書ける三谷さんだけに、疑いは提示しておかねばなりません。
 会話がうまくなりたい、としきりに三谷さんは訴えます。ですが、たしかに頭ではそう考えているでしょうけども(あの気まずさは、かなり厳しい代物であるので)、心のどこかで、「別にそれはそれでよい」と考えているような節が見え隠れします。
 だって、あの気まずい状況は、他人の目から見ればとても笑えるものだというのを、三谷さんはよく知っているわけで、しかもそれを特色のひとつにして脚本を書いてもいるわけで。
 三谷さんというのは、そういう人でしょう。
(2000.3.13)


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三谷幸喜

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