村上龍



『コインロッカー・ベイビーズ』
 (講談社文庫
 1984年1月刊
 原著刊行1980年10月)

●1980年の未来


 破壊的な主題の割には、口当たりのいい小説だと思う。
 メタファーの類も割に理解しやすいし、薬物汚染によって閉鎖されたジャンクシティ「薬島」の造形も魅力的だ。福田和也氏は『作家の値うち』で本作を「廃墟としての未来というイメージを成立させただけでも、きわめて大きな意味がある」とし、多くの追随作を生んだと位置づけた。
 追随作を生むことになった「未来の廃墟都市」というイメージが、本作をもって嚆矢とするのかどうかは僕にはわからないが、本作が1981年の作品であり、W・ギブスンの登場が1984年であることを考えれば、相当に早い段階での「汚れた未来」の像であったことは納得できる。ただし、マンガまで考えると、大友克洋氏がすでに70年代から活動しているので(『童夢』も『気分はもう戦争』も80年だ)、ちょっと微妙だ。
 ただ、それを追求することは本稿の目的とするところでない。本稿においては、本作中に登場するさまざまなメタファー群から、なるだけ生身の物語の骨格を、メタファー同士のおりなす構造の上に描き出すことをひとつの目的としたい。

 三浦雅士氏が「解説」で指摘するように、また年譜においても確認できるように、デビュー作『限りなく透明に近いブルー』から『海の向こうで戦争が始まる』を経て、この長編第3作『コインロッカー・ベイビーズ』にたどり着くまで、3年近くの、決して短いとは言えない空白期間が、村上龍氏にはあった。
 主として映画の脚本・監督に携わったその期間が、どのような影響を本作に及ぼしたか、興味ある問題ではあるが、子細に検討するには時間も根気も足りない。やや、映像的に鮮やかな表現が増えたような気がしないではないが、それはただの印象でしかない。読み返してみれば『限りなく透明に近いブルー』も似たようなものかもしれない、という状況で安易に指摘すべきことでもないだろう。
 いずれにせよ、その3年の中から本作は産み落とされた。

●構造的メタファー群・1 − 鳥とコインロッカー −


 本作の主人公は、生まれてすぐに母親に駅のコインロッカーに置き去りにされた2人の少年、キクとハシだ。
 彼らが生まれてすぐに味わったコインロッカーの中の世界は、まさに、本編中でも暗示されるように、社会とか世の中とか言われるものの寓喩に他ならない。『限りなく透明に近いブルー』に言うところの「鳥」に直接的に結びつくイメージだろう。
 本書には他にも、心臓の音、棒高跳び、廃墟になった炭坑の街、アネモネの飼っているワニ、そして神経毒のダチュラなど、さまざまなメタファーが登場する。
 しかしながら、メタファーをただメタファーとして意味を汲むだけでは仕方がないので、おそらく、それらが組み合わさってできるひとつの構造を見いださなくてはならないのだろう。

 物語全体の構造に、『限りなく透明に近いブルー』から近年の『共生虫』などにいたる、他の村上龍氏の作品との類似性を看取することはたやすい。
 破壊すべきものとして、「鳥」や「コインロッカー」に象徴される、社会の限界性のようなもの、普段は決して意識されないけれども常にあまねく人々の頭上を覆い、あるいは閉じこめて不幸にしてしまうものが想定され、最終的には主人公はその破壊を志向する。
 まさしく、その「コインロッカー」の存在に気づくこと、あるいは破壊することが許されているという点において、主人公は主人公たりえる資格を有しているのだと考えていい。
 こうした構造を暗喩や象徴に頼らずにあっけらかんと表現すれば『69(sixty−nine)』になるし、ナンセンスとスラップスティックで味付けをすれば『昭和歌謡大全集』にもなるだろう。そうした意味で、いまあげたような作品は一群のヴァリエーションであると言ってもいい。
 だが、とはいえこれらの作品を十把一絡げに論じることはできない。ヴァリエーションの範囲の中で、それぞれの作品間には明らかに差異がある。
 『限りなく透明に近いブルー』と『コインロッカー・ベイビーズ』のもっとも大きな差異は、前者が、主人公が「鳥」の存在に気づき、「鳥は殺さなきゃだめなんだ、鳥を殺さなきゃ俺は俺のことがわからなくなるんだ」と、狂気の中で叫ぶ場面をクライマックスとして持つのに対し、本作においては主人公の一人キクが、実際にダチュラを都市に投げ込む場面で結末を迎えるということだろう。
 これは、単純に破壊への渇望から実際の破壊行動へとひとつクラスが上がった、ということにとどまらない意味を持っている。それはつまり、キクが破壊すべき対象を明確に見いだし、かつ、破壊の手段をも発見したということに他ならない。

●構造的メタファー群・2 − 心臓音の両義性 −


 キクとハシは、あらかじめ「コインロッカー」の存在を知っている。それは彼らが一九六九年から一九七五年までにコインロッカーで発見された68人の嬰児の中でたった2人だけ生き残った、まさに選ばれた子どもたちだからだ(上巻p.15・精神科医の台詞より)。そして彼らはその原体験の故に神経症的な欠乏感と破壊衝動をあらかじめ持っている。
 それは彼らがメタファーとしてのコインロッカーを、まさしく「肉体的に」知っているということを意味している。そして、それが肉体的な原体験であるがゆえに、彼らはコインロッカーに象徴される社会や世の中への憎悪とか破壊衝動をも、予め持っているのだ。
 これが肉体的体験であるということは、『限りなく透明に近いブルー』の主人公リュウなどとは大きく異なる箇所である。リュウがリアリティの否定と非現実感への耽溺によって、なかば観念的に得た解答を、キクとハシはあらかじめ肉体に刻印されている。

 しかし、彼らの欠乏感や破壊衝動は、精神科医の治療により、ひとたびは封印される。
 母親の胎内で聞こえる心臓の鼓動音により、彼らの神経症的衝動は眠らされるのである。それは精神科医の言葉を借りるなら「キリストが与えた至福感」を彼らにもたらし、彼らが社会に出て暮らしていけるよう、折り合いをつけさせる。
 心臓音は、この物語の中でふたつの意味合いを持っていると考えるのが妥当だろう。
 それは生きていく上での「居心地よさ」の象徴であり、「死ぬな、死んではいけない」という信号(下巻p.223)でもある。真夏のコインロッカーの内部という環境が彼らを不快にさせ、殺そうとするなら、母親の胎内は、彼らを捨てた母親の人格とは無関係に彼らを守り、居心地よくさせる。
 だが物語の構造の上からいけば、精神科医が聞かせた心臓音に象徴された居心地の良さは、彼らからコインロッカーの不快を隠蔽する、宗教的欺瞞に充ちたオブラートのようなものでもある。
 タネを明かせば、この心臓音の両義性が、この物語に2人の主人公が必要とされた理由でもあるのだろう。
 キクにとってその心臓音は、主に隠蔽と欺瞞の象徴だ。だが、ハシにとっての心臓音は「生きろ」というメッセージとしての意味合いが強い。

 この両義性が生じる理由を問うなら、実際に母親の胎内で聞いた音と、病院の治療室で睡眠誘導剤の影響下で聞いた音とは、音として同じではあってもその意味合いが異なっているから、という回答がただちに提出されるだろう。
 だが問題は、キクとハシにとっては、ふたつの音は区別がつかずまったく同じに聞こえるということである。同じ音がある時は眠れと言い、ある時は起きろ、覚醒せよとささやきかける。少し話を急いで結論を言うなら、だからこそ、キクの怒りもハシの苦悩も生まれてくるのだ。

 なぜ、ハシもキクも、この心臓音(彼ら自身はずっと後になるまで、それが心臓の鼓動音だとは知らないのだが)を成長してからあれほどに追い求めるのか、そう疑問に思ったことはないだろうか?
 それはおそらく、この心臓音の中に、彼らが「世界の中で欠如している」と感じるものが詰まっているからだ。足りないものだからこそ求めなくてはならない。しかし、欠如しているのは「眠れ」というメッセージ、神経症を鎮め、社会の中でうまくやっていくための施療ではおそらくない。彼ら自身は気づいているのだ、ひとたびは「眠れ」とささやいたこの音の背後に、じつはもうひとつの信号が隠されているということに。
 その信号は「死ぬな、死んではいけない」というメッセージだ。だが、彼らはそれを知らず、ただ、「眠れ」というメッセージが欺瞞であることだけを知っている。だからこそ、その欺瞞の向こう側を求めて、彼らは怒り狂い、また発狂せんばかりに苦悩しなくてはならない。

●構造的メタファー群・3 − キクとハシの世界 −



 (前略)そうだ何一つ変わっていない、俺達がコインロッカーで叫び声をあげた時から何も変わってはいない、巨大なコインロッカー、中にプールと植物園のある、愛玩用の小動物と裸の人間たちと楽団、美術館や映写幕や精神病院が用意された巨大なコインロッカーに俺達は住んでる、一つ一つ被いを取り払い欲求に従って進むと壁に突き当たる、壁をよじのぼる、跳ぼうとする、壁のてっぺんでニヤニヤ笑っている奴らが俺達を蹴落とす、気を失って目を覚ますとそこは刑務所か精神病院だ、壁はうまい具合に隠されている、かわいらしい子犬の長い毛や観葉植物やプールの水や熱帯魚や映写幕や展覧会の絵や裸の女の柔らかな肌の向こう側に、壁はあり、看守が潜み、目が眩む高さに監視塔がそびえている、鉛色の霧が一瞬切れて壁や監視塔を発見し怒ったり怯えたりしてもどうしようもない、我慢できない怒りや恐怖に突き動かされて事を起こすと、精神病院と刑務所と鉛の骨箱が待っている、方法は一つしかない、目に見えるものすべてを一度粉々に叩き潰し、元に戻すことだ、廃墟にすることだ(後略)
(下巻p.129〜130 第28章より)


 キクによる世界観である。この世界観と、彼が学生時代に熱中した棒高跳びとの関連性を見いだすのはたやすいだろう。壁の向こう側を希求して彼は跳び、そして挫折したのだ。
 キクにとって心臓の鼓動音は、壁を隠すための「鉛色の霧」に他ならない。ただし、彼は上巻のラストで実の母親を誤って撃ち殺してしまい、その時の短い母の「止めなさい」という言葉を足がかりとして、鼓動音のもうひとつの意味、「生きろ」という信号を受け取ってもいる。しかしもとより、キクにとっての最大の課題は「目に見えるものすべてを一度粉々に叩き潰し、元に戻すこと」である。

 一方ハシは、キクのようにまとまった言葉でみずからの世界観を語ろうとしない。しかし、施設で暮らしていた頃、彼が精緻な箱庭を作り、他人がそれに手を加えるのを異様なまでに嫌ったということ、またいかに精緻に作った箱庭であっても、彼がそれに満足できなかったということが、ハシの世界観をよくあらわしている。
 世界はまさに箱庭であり、と同時にそれが実はコインロッカーの中に形成された箱庭であるがゆえに、とてつもない欠如感をともなってハシの前に現れ続ける。
 欠如しているのは母親だ。母の胎内で受け取った「生きろ」という信号は、コインロッカーの中で一度失われ、それゆえにハシに欠如感を焼き付けた。
 母親はまた初めて出会う他者でもある。つまり、ハシの箱庭には他者がリアルな存在としては存在していないのだ、そこにどんなに緻密に生活の痕跡が描かれていようとも。だからこそ、ハシは箱庭に、本来存在しないはずの他者の手が加えられることを嫌うのだし、また、後にキクが「話していると自分が透明人間になったような気がする」(上巻p.52)と思ってしまうのもそれゆえのことだと了解できる。

 キクとハシの世界観は、世界が欺瞞であるという点において、決定的な欠如を抱えているという点において共通している。だが、心臓音の両義性は、この共通したふたつの世界観に、それぞれ異なった解決を志向させたのである。すなわち、破壊するか補完するかだ。
 キクは、廃墟の街に住む男ガゼルからおまじないとして「ダチュラ」という言葉を教わる。「お前には権利があるよ、人を片っぱしからぶっ殺す権利がある」「人を片っぱしから殺したくなったらこのおまじないを唱えるんだ」(上巻・p.54より)とガゼルは言う。梶井基次郎が『檸檬』に描いた、丸善の書棚の上に置かれた檸檬を思いださせる、これはひとつの精神上の爆弾である。
 この生き物を破壊と殺戮の衝動へ駆り立てる神経毒の名前を教わった時、キクがハシと一緒ではなく一人だったのは、決して偶然ではない。補完を志向するハシには、ダチュラは必要ないのだ。

 ハシはプロデューサーのDと出会い、彼からマスコミやファンのあしらい方を学ぶ。
 ハシの芸能活動については、あまりうまく描けているという気はしないが、出来はさておき、Dの教唆は、ハシをさらなる孤立と狂気へ追いやることになる。なぜか。マスコミやファンにどう対処すれば、彼らがハシのことを追いかけてくるのか、というこの助言は、つまり、他者を自我を持つ個人としてでなく、箱庭の中の人形と見なすという方向性を持っているからだ。精神科医の治療室で聞いた心臓音は、ここで再びリフレインされ、ハシに「うまくやっていく」ようなやり方を教えるのである。

●構造的メタファー群・4 − 欠如の様態 −


 キクとハシは、このコインロッカーの中のごとき社会を、何か決定的な物が欠如した、そしてその欠如を欺瞞によって隠蔽する世界だと認識している。
 ならば、欠如している「決定的な物」とは何なのか。
 その答えは、ハシが最終的に心臓音の「生きろ」という信号をつかみとるという結末部分から、およそ推し量ることができる。ただし、「『生きろ』という信号」では、国語の解答としては十分だろうが、何かしっくりと来ない感じが残るだろう。というのも、同じ欠如の恢復のために、キクの方は、すべてを破壊しようとダチュラを散布するのだからだ。
 キクの側からすれば、それは「野生」であると解答することも可能だろう。廃墟の街のガゼル、あるいは野犬の群、またアネモネの飼っていたワニ、これらはすべて「野生」という意味を背負っていると言える。
 残念ながらガゼルもワニも死んでしまうが、しかしそうやって彼らの生を許容しない社会だからこそ、キクにすれば破壊せねばならない。
 ということはつまり、欠如しているのは、あらゆる「生」を許容し、肯定することなのだ。薬物に汚染された「薬島」がフェンスで隔離されるのは、その中に住む人々の生が、外では許容されないからだ。

 ということで、もうひとつ別の疑問も解決する
 キクが生き物を破壊衝動に駆り立てるダチュラを使用するのはなぜなのか。何を破壊しようとしたのか。
 それは、その欠如が他ならぬ人々の心の中に由来するからだ。いや、由来する、という言い方が本当に正しいのかはわからないのだが、ともかく、幼い頃、心臓音によって神経症的な破壊衝動を封印されたキクやハシと同じように、すべての人々は「何か」によって、そうした破壊的な衝動、あるいは野生を封印されている。
 だから、キクが使うのは、たとえばただの爆弾ではダメなのであり、心の中のくびきを破壊するかのようなダチュラでなくてはならないのだ。

●まとめにかえて


 以上、僕なりの読み解きを試みてみた。
 ここまで未整理なままに述べてきた読解が正しかったとひとまず仮定した上で、本作の価値と意味を問い直すなら、『限りなく透明に近いブルー』で「発見」された「鳥」がいったい何なのか、という点にひとつの解答を与え、それをメタファーの体系の中に位置づけつつ物語を構築した点にある、ということになるだろうか。
 言うまでもなく、緻密であり、かつ力業でもある。それでいて小説としての破綻が目につかない。何より、最初にも言ったとおり、口当たりが良く、かつ魅力的だ。
 「鳥」の正体を人々の心の中だけに求めることが正しいのかどうかについては、後の著作を見る限り、村上龍氏の中でも揺れがあるようだが、しかし1980年の時点において示しうる非常に高い到達点であったことには間違いがないと思う。
(2004.7.24)


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『共生虫』
 (講談社
 2000年3月刊)
 2000年3月に発行されて、割とすぐに買ったおぼえがあるから、実に2年半、本棚にあったハードカバーの1冊です。村上龍小説の単行本としては、この本の後で『希望の国のエクソダス』『タナトス』『THE MASK CLUB』『最後の家族』が出ているとのことで、『希望の国のエクソダス』がすでに文庫になっている昨今、ひょっとしたらこれもすでに…、という恐怖を禁じ得ません。少なくともハードカバーはもうちょっと早く読まないと、と大学の同級生の一人と、昔、話したことがありましたが、悪癖未だ治らず。多分これはこの先も治りません。

 さて、引きこもりを題材にしたということで、世間的な注目度は割に高かったような気がする本作ですが、話の筋立てとしては、主人公が引きこもらなくなってからの方がメインになってくる構成なので、あんまし「引きこもりの話だ」という先入観で読まない方がいいと思います。
 純粋に引きこもりの話、ということだったら、今なら滝本竜彦の『NHKへようこそ!』の方がいいんじゃないかなと思います。と、実は読んでないのに人に本を勧める俺。
 あらすじは、というと、「自分の中には、死にかけた祖父から這い出てきて自分の体に入ってきた、細長い虫が棲んでいる」という妄想を抱えた引きこもりの人が、そのことをインターネットの掲示板に書き込む、というところから、次第にその妄想が共同幻想化し、いろいろあった末に、最後はその掲示板でレスを返してきた別の引きこもりの人たちと殺し合いをしてどんちゃんどんちゃん、って感じの話。
 全然ネタバレにはなっておりませんので未読の方もご安心を。
 で、主人公は、途中で父親を金属バットで殴り殺して、活動拠点を森林公園に移すことになるんですが、そうなってからの話の展開は、おたくとおばさんの殺し合いを描いた傑作『昭和歌謡大全集』を彷彿とさせます。逆に言うと、またぞろ、同じ手口の俎上に「引きこもり」という新しい素材を乗っけてきただけなのではないか、という疑念はあります。
 というのも、結局、村上龍の興味の対象というのは、おそらく「引きこもり」というスタイル自体ではないと思うんです。引きこもりというライフスタイルというのは、つまるところ、部屋の中で、少なくとも外見的には何ら変化のない1日1日を積み重ねていくということであるわけで、そうしたスタイル自体と言うよりはむしろ、そんな「日常」への敵意とそこからの脱出、という、『限りなく透明に近いブルー』以来の一貫した村上龍のテーマが、やっぱり基盤にある。
 例えば、主人公のウエハラが、森林公園へ向かう途中の、次のような一文を見てもそのことはわかります。

 道路の左側を川が流れている。ウエハラのアパートの近くの川よりも川幅が広い。ビルが密集している場所では川の表面はコンクリートに被われて隠れている。今日は何曜日だろうか。曜日や時間の感覚が薄くなっている。一週間前まで、一人では病院にもコンビニにも行けなかったが、時間や曜日の感覚ははっきりしていた。母親が買っておいたシュークリームやショートケーキや果物の缶詰やカップ麺を食べ、ゲームをしたりテレビを見ながら一日を終えていた。時間に支配されるように、長い午後や夜が終わるのを待った。精神安定剤のせいで意識やからだが常にだるかったが、その日が何曜日か、今が何時か、そういったことはわかっていた。テレビの番組を見ればすぐにわかったし、昨日が何月何日で何曜日だったかも憶えていたからだ。そういったことだけは、なぜか鮮明に憶えていた。

 引きこもりを続けていたときのウエハラに時間や曜日の感覚が鮮明なのは、引きこもりという生活スタイルが、基本的には「待つ」ものだからです。ウエハラはひたすら朝が終わるのを待ち、夜が終わるのを待っていたわけですが、それは彼がすでに22歳(中2で引きこもりをはじめて、今が8年目であるということからの推定です)であるからで、元々は彼とて、学校に行かなくてもいいように、学校が終わる時間帯になるのを待ち、学校に行かなくてもいい年齢になるのを待っていたはずです。待つためには、いつまで待てばよいのか、タイムリミットへの認識が鋭敏になるのは自然な成り行きでしょう。
 少なくとも、おそらく、村上龍はそう認識していたのであろうと思います。
 「何かが必要だということは、感覚がその細部を把握することだ」という言葉が巻末近くになって出てきますが、だとすれば、ウエハラが時間に鋭敏だったのは、彼にとって時間の経過が必要であったからに他ならない。
 あとがきで「この作品の最終章を書いているとき、希望について考えた。(中略)引きこもりの人々は、偽の社会的希望を拒否しているのかも知れない」と書くとき、引きこもりの人が求めているものとして、村上龍は「社会的希望」と対になる「個人的希望」を念頭に置いていたはずです。精神安定剤によって意識がぼやけている状態でも、ウエハラが時間に敏感であり、時間に支配されていたということは、彼にとっての「個人的な希望」が、そもそも時間の経過によってもたらされるべきものであったということでもあります。
 そうして引きこもっている過程で、あるいは精神安定剤の影響で、自分の父親や母親、自分の名前といったもののリアリティが薄れていき(自殺未遂をした父親に会わせられるために、ウエハラが実家につれてこられたシーンの描写が、「限りなく透明に近いブルー」巻末の、リリーの顔の描写と通じていることは誰の目にも明らかであると思います)、そして永遠にもたらされることのない「個人的希望」の代用品として、ネット上のやりとりから「共生虫」という幻想が急速にリアリティを獲得していく。
 そうしたリアリティ(希望)の獲得によって行き着いた先が、「昭和歌謡大全集」を思い出させる化学兵器戦であるというのは、なんだか安直な気がしなくもありませんが、確かに物語としての、ひとつの終着点であることは疑いないでしょう。
 ただ、そこに「昭和歌謡大全集」で感じられたようなカタルシスが今ひとつ欠けるのは、やはり、この希望が妄想を起点とし、最後まで妄想の中を這い進んでいく類のものである、という、この小説の弱点を示すものなのかもしれません。
(2002.9.14)


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『限りなく透明に近いブルー』
 (講談社文庫
 1978年12月刊)
 静かな物悲しさに裏打ちされた怒りが素晴らしい。しかし、巻末の年譜を見ると、村上龍も、もう47歳なんですね。なんて若々しい47歳。

 今井裕康さんは、解説でこの小説の魅力を、「すべての行為が現実的な行為としての意味を剥奪され」る文体による「どこか奇妙な静けさが感じられる」「徹底して没主体の文学」であることに見ています。
 たとえ、語り手のリュウが乱交パーティに出たりドラッグをきめたりして、そこでのおこないがいかに精緻に描写されようとも、全ての行為に対して均質なウエイトと距離をもって「見ること見つづけることへの異様に醒めた情熱」でもって文章が紡がれるため、「主人公の眼と主人公の行為が密着していないから」「描き出された映像にはどこか奇妙な静けさが感じられる」という現象が起こるのだという説明です。
 「〜するために」(あるいは「〜なので」)「〜する」という主体的な行動意志を抜きにしてアクションが描かれる以上、主人公や他の登場人物がどんなことをしていても、それらは冒頭で、丸めた新聞紙によってキッチンで圧し潰されるゴキブリと等しい距離感でしか描かれないことになる。
 それは現実を非現実的に描き出し、ドラッグでバッドトリップした時の非現実の光景を現実的に描き出すという、距離感の転倒をもたらし、そこにおいて現代社会の本質をえぐり出すのだ、というのが今井さんの説明です。

 この説明は、たしかにその通りで、「見ること見つづけることへの異様に醒めた情熱」、すなわち感覚器によってのみ使用する言語を獲得するという姿勢は、たとえばクライマックスでリリーの顔を「あのフサフサしたものは何だろう、その下でクルクル回る光る球は何だろう、その下の二個の穴を持つ隆起は何だろう、柔かそうな二枚の肉で縁取られた暗い穴は何だろう、その中の白い小さな骨は何だろう、ヌルヌルした赤い薄い肉は何だろう。」と「生まれて初めて目を開いた赤ん坊のように」見つめるシーンで特に顕著ですが、他の場面であっても、注意していればそれはしっかりと読みとることが出来ます。
 こうした文体によって、村上龍は、現実の世界を構成する既成の言語概念からスルリと抜け出るわけですが、そこで見えてきた現代社会の暗喩たる「黒い鳥」は、「鳥を殺さなきゃ俺が殺されるよ」という、絶対的な敵でしかありません。
 巨大すぎるために常人の目では見ることの出来ない敵に包み込まれたまま生きるリュウが、ドラッグやセックスの後でしきりとゲロを吐くのは、陶酔の後の沈み込みというのに加えて、現代社会への拒絶反応でもあるのだろうと思うのですが、この小説が書かれてから24年、今、僕たちの拒絶反応は、ゲップ程度に弱くなってきているという気がします。
 さて、そうした点に若干の古さを感じるのは避けられないとして、実際のところ、村上龍に対する文学の面からの研究は、文体論以外には、まだあんまり進んでいないのが実状です。
 いや、今現在生きている作家の中では、大江健三郎とか安岡章太郎あたりに次ぐくらいの割合で、研究が進んでるんですけど。でも、映画とかもあるし、全集も刊行されてないし、なによりアグレッシブに創作活動しておられるから、せっかく研究しても、後からそれを覆すような作品を書かれると、一発で研究成果が瓦解するんで。
(2000.3.26)


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村上龍

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