村井康彦 |
『王朝風土記』 (角川選書 2000年4月刊) |
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●貴族たち大地に立つさて、感想を書かねばならないのだが、普段、あんまり歴史関係の本を読んでいないせいか、読んでも何を書いていいのやら、なかなか思い浮かばない。じゃあつまらなかったのかというとそういうわけでもなく、なまじ面白くはあっただけに適当にあしらって終わりにしがたいあたりがまた悩ましい。 うーん、そうだなあ、何から書きはじめようか。 あれは僕が小学5年生くらいのことだったと思う。隣の席で割と仲がよかった女の子と、生まれるなら何時代に生まれたかったか、という話になったことがある。彼女は江戸時代がいいと言い、僕は平安時代がいいと言った。憶測でしかないが、そのとき彼女は町民に生まれることを前提にして話し、僕は貴族に生まれることを前提に話していたと思う。平安時代に生まれるんなら、やっぱり貴族でしょう。 ベタベタの町人が何をほざいていたのかというような気恥ずかしさを感じないわけではないが、僕の夜郎自大な妄想はともかくとしても、平安時代、王朝と言って、一般に思い描かれるのは「源氏物語」的な雅の世界だろう。もちろん、そうした一面は確かにかつてこの国にあったものであることは間違いない。しかし、それと同時に、民草にも生活があったのであり、貴族たちにしても、国衙へ赴任し、今で言う県知事的な業務をする生活が別の一面としてあった。 本書は、国府に赴任した貴族たちについての論文をまとめたものであり、読んでいて、決して雅なばかりではなかった貴族たちの別の一面に出会って驚かされる。それは、美しくはあるが一面的だった絵巻物的な世界が、人間たちのいとなみとして立体的に立ちあがってくることへの驚きである。 ●都鄙論の射程本書の裏表紙では、「日本に顕著な都優越・鄙蔑視の意識・価値観は、なぜ生れ、どのようなものだったのか」を問う「王朝都鄙論」であると謳われているが、個人的にはそこまで都と鄙との対立を主旋律として感じることはなかった。 むしろ、都と鄙とをひとまず分けて考えたとき、地方に赴任する官人としての貴族とは、それを越境する存在である、という認識があるように思われる。その越境にともなって発生した事件、あるいは越境する貴族たち自身を考えるとき、それは中央政府と国府というシステムのあり方を問う論考とならざるをえない。 それは、射程としては都と鄙という二項のあり方に対する問いをも内包するだろうが、本書ではそこまで射程をのばしていない。おそらくそこまで射程をとってしまうと、歴史学の枠を越えて社会構造論にたどりついてしまうためだろうと思うが、あるいは著者自身の中では、そうした長距離の射程にある問題にも目が向けられているものなのだろう。 本書には序章と結章を含めて8本の論文が収められている。どこかの学術雑誌や紀要に発表したものをまとめたものではないのか、初出が記されていないので、とりあえずすべて本書のための書き下ろしであると認識している。 面白かったのは第3章「因幡殺人事件 −橘行平はなにをしたのか」、第4章「印鎰を奪う −日常化された反乱」、第6章「境に入れば風を問え −峠の政治力学」あたり。 特に「因幡殺人事件」は、受領の地位にありながら赴任先で部下を殺害したとして、悪徳受領として扱われることの多い橘行平、および彼の起こしたとされる殺人事件について、丁寧な史料の解釈から別の相貌を甦らせるスリリングな論考である。推理小説でもないので、本稿での「推理」について内容を書いてしまってもネタバレとして非難されるには当たらないのではないか、ということで、本書の面白さを伝えるためという大義名分のもと、以下にその推理の道筋を紹介する。 ●因幡殺人事件ことの発端は、橘行平が国司として任地へ赴き、前任の藤原惟憲からの引き継ぎを受ける段に始まる。 行平が赴任したところ、租税の蓄えのうち、地震などの災害時の復興資金に当てるための備蓄米に、8千石の不足が見られた。そこで行平はこの不足分について中央に上奏する。ところが中央が詮議して実物と帳簿を照らしてみると、今度はちゃんと帳尻が合っている。 どうやら、これは前任の惟憲が私的に着服してしまっていた公用米を、行平の指摘にあって慌てて元に戻したのではないか、というのが本稿での推理である。ところが、その推理が正しかったのかどうかは、歴史の上ではわからない。この一件についてはこれ以上の追求がなされず、うやむやのうちに沙汰止みとなったのである。 もちろん、この一件が深く追及されなかったのには理由がある。というのも、惟憲というのは藤原道長に長く仕えた忠臣であり、どうやらここでは道長が政治的なもみ消しをはかったらしいのだ。詮議にあたっても道長は一貫して惟憲を弁護しているのである。 帳簿との照らし合わせで齟齬がなかったのだから、もうよいではないか、ということになったのだろうが、もちろんこれは詭弁であり、本来であれば事実関係をはっきりさせるのが中央政府としての筋というものだろう。 ともあれ、うやむやのうちに解決がはかられたこの一件は、現地でも尾を引くことになる。それが行平による現地の官人の殺害につながったのではないか、と本稿は説く。 行平によって殺害されたのは因幡千兼。現地では国司の副官として実務全般をサポートする要職にあった人物である。 在庁官人である彼は、国司のように中央から派遣されてきているわけではない。現地の人間であり、国司が変わっても多くの場合はそのまま現地の官人として引き続き任に当たる。つまり千兼は行平の副官でもあったのだが、それより以前には惟憲の副官でもあったのだ。 惟憲の素性がどうあれ、大量の公用米の横領などということがたった一人でできるわけではない。惟憲は現地で、現地の官人たち、ひいては現地の農民たちとも友好的な関係を築いており、公用米の横領は、それらの官人、とりわけ因幡千兼と結託しておこなったことであった、と推測できるふしがある。 当然、行平・千兼の両者とも、互いの素性は推量がついていただろう。行平にしてみれば前任者の悪行に手を貸した不届き者であり、一方の千兼にしてみれば、このたくらみを指弾して潰した行平には恨みを抱いているわけで、両者のぶつかり合いが殺人事件に発展したことは想像に難くない…。 この殺人事件については、中央での詮議がおこなわれたものの、その詳細については、事件の重要性とは裏腹につまびらかでない。というよりも、政権の忠臣であった他の公達が、この事件から距離をとって、あまり関わりたがらなかった様子がみてとれる。 これは、この事件を追及していくと、千里から惟憲へ、そして最終的には道長にまで詮議の芋蔓がつながっていくことを皆が承知しており、それゆえに中途半端な形で詮議を終わらせざるをえなかった、ということの裏返しではないだろうか…というのである。 こうした推理を本稿の中で読むとき、その推理の面白さはもちろんのことながら、地方政治のなかでの貴族たちのいとなみが、中央での政治としっかりと繋がっていたことが肉体的に実感できるような気分にさせられる。 それこそが歴史学関係の本を読む面白さでもあろうと思うのだが、いかがだろうか。 (2006.4.26) |
村井康彦 |