永江朗 |
『不良のための読書術』 (ちくま文庫 2000年5月刊 原著刊行1997年) |
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●さまよえる読書人不良といっても、徒党を組んで弱い人を脅かして金をまき上げたり、あぶないクスリをたしなんだりする人々のことではない。コンビニの前で大股広げてしゃがんで、タバコを吸いながら通行人を睨みつけ、路上に痰を吐くような人々のことでもない。 不良の反対は「よい子」であり「マジメ」である。不良とは、「悪い子」であり、「フマジメ」のことである。世の中の悲劇や不幸の大半は、マジメなよい子によって作られる。 (p.13「はじめに」より)
ということで、どちらかというと「不良」というよりは「不逞」な読書をしよう、という趣旨の本である。もちろん、それを「不逞者のための読書術」としなかったのは、「不良」の方がとっつきがいいからだろう。判断としてはそれで正しい。 日本で高校までの国語教育を受けると、自由に本を読むというのが難しくなる。それは要するに日本の国語教育が、「本をどう楽しむか」を教えるのではなく、「本の中からいかに大人が喜びそうなことを引っ張り出してくるか」を教えているからに他ならない。ついでに言うとそれはろくすっぽ本を読んでない人間が現場で子どもに教育を施しているからに他ならないだろうし、文部省が本を自由に読むなどということをそもそも重視していないからだろう。一言でいえば馬鹿が集まって馬鹿を再生産するための馬鹿な教育をしているのである。ちなみにこの部分は狩魔冥たんを思い浮かべながら読むこと。命令。 ま、そのへんについては、石原千秋先生の国語教育に関しての本を読めばもっと立体的にわかる。 本書の眼目はハウツーであって理念ではない。 永江氏は「本には毒がある。」と言う。だから「毒は毒をもって制す。いろんな本を読めばいいのである。そうすると、さっきまで真理だと思っていたものが、嘘・偽りに見えてくる。いろんな意見の間を、あっちへフラフラ、こっちへウロウロしているうちに、人はだんだん不良になっていく。肝心なのは、常にフラフラ、ウロウロしていることだ。」 フラフラ、ウロウロする読書のためのハウツーである。 ●読書とスタイルといっても、実は結構、そのハウツーがなぜ必要なのかといったバックグラウンドについて書かれた部分の方が多くて、「読書術」という看板自体には疑問符がつくところもある。まぁ、そのバックグラウンドが面白いからそれはそれで問題ない。 バックグラウンドというのは、出版業界のあれやこれやだ。オモテ事情とウラ事情である。 単行本が現在、1年にどれだけ発売されているか。2000年現在で6万点をオーバーしているそうだ。そのほとんどが1万部も刷られることのない本で、書店で平積みされる期間は1週間あるかなきか。 だから本はタッチ・アンド・バイだ、と永江氏は言う。店頭で手にとって面白そうだと思ったら迷う前に買え。でないとこの先一生、手に入らない可能性だってある。そうだそうだと、普段からタッチ・アンド・バイで本を買って、いまや本の海におぼれそうになっている僕のような人間は頷く。そうだ。俺たちは正しかったのだ! しかし、それでは手に入れた全ての本を読みきることはできない。そこでゴダール式読書法だ。 どんな映画でも20分程度しか見なかったというジャン・リュック・ゴダールに倣って、どんな本でも20〜50ページしか読まない。どうせ本には核になる部分がある。そこだけ読んであとは捨ててしまえばいい。その時間で他の本が読めると思えば惜しくない。 また、読書日記はつけるな、とも言う。読書日記なんてものは「俺はこんなに本を読んだぞ」という自慢のためのものでしかない。そんなものをつけたって読書をつまらなくするだけだ。やめちゃえ、と。 そ、そーかー。耳が痛いぜ、と、こうして読書日記的なものをつけている僕としては一瞬思って、そしてブンブンと首を横に振るのである。 いやいや、「不良のための読書術」やっちゅーとんねん。 不良が人様のいうことを素直にハイハイときいてどーする。そもそも読書なんてものは個人的な体験だ。ハウツーを鵜呑みにしたってしょうがない。参考になりそうなところだけ参考にすればいい。 古本屋ならここがいいとか、専門書店にはこんなところがあるとか、そうした情報だけでもかなり有益なんだから(東京近郊に情報が集中しているのがちょっと痛いが)、そこらへんに適当に付箋でも挟んでおけばいいんじゃないか。 しかし、1997年の本である。amazonにしろbk1にしろ、いわゆるオンライン書店がろくすっぽ取り上げられていないというのが97年的だ。 実際に手に取って見てみることができないとか、たまたま手にとって買ってみるとか、そういう体験がないのがオンライン書店の弱点ではあるが、使い方次第では非常に便利な一面があることも否定できまい。 読書をめぐる状況は刻一刻と変化している。利用できるものは何でも利用して、より豊かな読書ライフをおくれるよう、独自のスタイルを見つけていこう。それが不逞者なりの読書術ってもんである。 (2004.2.21) |
『アダルト系』 (ちくま文庫 2001年9月刊 原著刊行1998年) |
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花村萬月の解説によると、本書がアスペクト社より単行本として刊行された際には、目にまぶしいようなショッキングピンクの装丁だったらしい。今回読んだのはちくま文庫版だが、こちらの表紙は古屋兎丸。左側に立っているキュートな女子高生のセーラー服のスカートを、右側にいる研究者風の人々が、ピンセットでつまんでめくりあげたりしつつ、しかつめらしく観察している、という、かわいいながらも本書の本質をとらえたカバーイラストである。 永江朗については、『批評の事情』のヒット後、今さら解説するまでもないかなー、という感じになっているが、そのフィールドの広さも相まって「こういう人!」という決定的な定義には、いまだお目にかかったことがない。自身で標榜しているという「哲学からアダルトビデオまで」のキャッチフレーズは、確かに的確にそのフィールドを捉えてはいるんだろうが、それだけでは全体像をつかむには遠すぎる。 いとうせいこうや泉麻人など、エディター出身のフリーライターには割に共通する交通整理の行き届いた文章で、「哲学からアダルトビデオまで」いろいろな分野についての記事を書く。 特徴としては、たとえばSMたちの世界について書くにしても、その世界を俯瞰でとらえるのではなく、その中にどっぷりと身を置いている2、3の人への取材による人物ルポを通して、一人称に近い視点から、その世界で人々がどんな風に暮らしているのかをとらえるという手法が多用されることがあげられると思う。 本書は、カメラ小僧にはじまって、刺青、SM、アダルトビデオ、盗聴と、さまざまな「不健全な」業界について書かれた本なのだが、それぞれの文章は、別冊宝島シリーズを中心に、いくつかの雑誌にまたがって発表されたものなので、各業界の内部の人物にまで視点を引き下げていってその世界を覗くという傾向は、この人が本来的に持っているものなんだろうなと思う。 俗流社会学のように、何人かの人物に取材するにしても、その中から共通項を引っ張り出してきてひとつの傾向を抽出するのではなく、それぞれ個別の体験を通じて、それぞれの世界を肉体で感じられるように、その人物が属している世界のしきたりとか空気を描き出していくこと。それが永江のスタイルだと言ったら、ロクに彼の本を読んでない人間としては言葉が過ぎるか。 「アダルト系」の名に恥じず、アダルトビデオやエロ劇画、風俗雑誌など、エロ方面のことを取り扱った文章も多いが、本書でいう「アダルト系」とは、単にエロメディアのことのみを指すのではない。 永江の言葉を借りるなら「オトナじゃないとわからないことでありながら、いま一つオトナになりきれない人々の愛好すること」一般が、「アダルト系」として取り扱われている。 先ほどもあげたカメラ小僧の世界なんていうのは典型だが、ブルセラとか女装趣味とか盗聴とか、まぁ、ニュアンス自体はわかっていただけると思う。パチプロ・スロプロの世界なんていうのもおおよそそうだし、基本的にはオタク業界なんてのはもうその最たるものだと言ってもいいだろう。ただ、オタク的なあり方には、永江はそのひねくれた自己肯定性があまりお気に召さないようで、あまり好きじゃないということを「批評の事情」の中でも公言しているわけだが。 ある意味、本書の意趣は「しかし、世の中が『健全』『健康』『清潔』だらけになったら、さぞ息苦しくて住みにくくなるだろう。オレはそんなのごめんだね。ふんッ! 不健全、不健康、不潔、ヤッホー!」という「まえがき」文中のアオリ文句によく表れている。 もっとも、オタク嫌いのくだりで軽く触れたように、「だから不健全ばっかでいいんだ!」というのではなく、「もちろん健全なものもないと困るんだけど、不健全なものもないとね」というスタンスをつらぬいているのは、考え詰めていくとやや複雑になっていく部分だ。それはなんか「悪いと知りつつやってるオレ」への事故憐憫というか、言い方を変えれば「悪いのはわかってるのよ」という一種の免罪符になってんじゃないかというような問題点もないわけじゃない。 けど、今、ポストモダニズム批判に端を発するこうした姿勢をことごとしく言い立てるのは、本書にはそぐわないだろう。不健全な世界をのぞき見つつ、そこに生きる人々の生き方を、「こういう生き方もあるのか」と思いつつ読む。そういう本だ。 そんなことを思っているうちに、読者自身の生き方そのものが相対化されて浮かび上がってきたりもするかもしれない。 (2003.7.31) |
永江朗 |