アンソロジー 山田太一編



『-土地の記憶- 浅草』
 (岩波現代文庫
 2000年1月刊)
 先日、この本が都市ガイドであるかのようなことを書いたが、正確にはちょっと違う。本書は、古今の作家や随筆家、詩人などが、浅草を題材にして書いた随筆や詩の類を山田太一が編んだ、いわゆるアンソロジーである。ちなみに、なぜ山田太一かというと、彼が浅草生まれだから、という理由らしい。脚本家としてはともかく、作家としての実力には疑問符のつく山田太一だけに、編者としての能力にもいささか不安な点がないではないが、まぁ、他に類書がないならしょうがない。
 しかし小説の中の浅草と言えば、東京十二階であり、パノラマ館であり、花屋敷であり、そこに漂う猥雑で新しい空気である。具体的には江戸川乱歩であり、「浅草紅団」だ。そんな興味の尽きない土地柄だけに、もっと似たようなコンセプトの本があってもいいんじゃないかな、とは思う。
 もうちょっとズバリ言いたいことを言ってしまうと、本書では遺漏がありそうだから、もっときちっとまとめてくれ、ということだ。章ごとに「幕末〜明治」「明治〜大正」って具合に年代を分けてあるのはいいけど、その章の中では、文章の書かれた年代がバラバラだしさ。

 さて、納められたエッセーや詩の類は34編、従って執筆者も34人にのぼる。
 これだけいると、浅草という町を見る視点も見方も多種多様、と言いたいところだが、おおよそ、彼らの浅草に対する態度は3種類に分けることが出来る。
 その1、浅草の変遷とは無関係に、浅草という町を眺める立場をとる者。巻頭に飾られる鳥居龍蔵の「人文地理上より見たる江戸と浅草」とか、ピエール・ロチの「ラ・サクサ」(浅草のフランス語読みらしい。我流の読みを通すあたりがすげえ)、伊藤左千夫の「浅草詣」などがそうだ。
 その2、浅草の変遷を喜び、大いに楽しんでいる者。代表格と言えるのは江戸川乱歩の「浅草趣味」だろうが、川端康成の「浅草」や、添田唖蝉坊の「六区展望」などもこれに当たると言っていいと思う。
 その3、浅草の変遷を嘆く、あるいは昔の浅草は良かったと懐古する者。久保田万太郎の「『古い浅草』と『新しい浅草』」、横井源之助の「浅草の底辺」、小沢昭一の「浅草と私との間には…」などがこれ。

 健啖なのは乱歩だ。それがいわゆる「いかもの食い」だと認めながら、花屋敷にも出かけ、安来節を楽しみ、深夜、浅草公園に泊まろうとする宿無しの姿を追いかける。こうした趣味は川端にもあったと思うが、本書に収められている「浅草」は「日本地理大系」への原稿として書かれたものなので、あまりそうした暗部まで踏み込んでいくことはしていない。
 反面、久保田万太郎などは、ひたすら昔を懐かしむ。「『古い浅草』と『新しい浅草』」というタイトルに従えば、「古い浅草」の消えていくのを嘆く立場である。関東大震災で塵芥に帰し、そして流れの中に飲み込まれていこうとしている「古い浅草」を、半ば呆然とするようにして見送っている。
 小沢昭一などの文章も、ややこれに近いが、ちょっと比べること自体に無理があるだろう。そもそもの人物がちいさいのである。
 「日本之下層社会」を書いた横井源之助の浅草は、飢え死にするような貧民こそいないが、貧しい「細民」はたくさんいる、というある種不思議な町だ。まぁ、芸風だろうな、これは。
 どっちがいいというものでもないが、町がどんどんと変わっていく、それを受け止め、飲み込めるだけの度量を持った作家というのは、やっぱり面白いものを書くことができるものだという気がする。

 付記。巻末についている編集付記の「一部、著作権者に連絡が取れていないものがあります。お気づきになりましたら、岩波現代文庫編集部までご連絡いただければ幸いです」という表記はなんだかすごい。
 自分的には今まで見たことがない類の注意書だが、果たして、この文言がとれる日は来るのか。そして著作権者に連絡が取れなかった文章というのは、一体どれなのだろう。
(2003.5.27)


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