J・さいろー



『スィート・スィート・シスター』
 (コアノベルズ
 2001年10月刊)

●まえふり

 大槻ケンヂの、たしか『のほほん雑記帳』だったと思うが、「返事がもらえるかもしれないファンレターの書き方」というのが載っていた。まぁ、半分ジョークの入った書き方講座だったわけだが、なぜこんなものが書かれたのかというと、彼自身がもらうファンレターに、あんまりもらっても嬉しくないようなものが多かったせいじゃないかなあ、と邪推してみる。
 「○○が××になって嬉しかったです」とか「面白いです」とか「うまいですね」みたいなお言葉というのは、単純にそれだけだと、そんなに嬉しくない。読者に喜んでもらうために何かを書くわけでもないし(「喜んでもらう」ことと「楽しんでもらう」ことは別だ)、一応、それでお金もらってるんだから、単にうまいって言われても困る。やっぱり、それがなぜ面白かったか、どんな風にうまいと思ったのか、そこらへんまで教えてほしいな、というのが、ファンレターなどをもらう側の共通した感想じゃなかろうか。
 でまあ、そんな偉そうなことを考えたのは、本書の感想を書くにあたって、他の人の感想をWebでいろいろと調べていたときのことだったりとかした。うーん、なんて言うか、ジュニア系の小説って、作品自体は良くできてても、書評とか感想には徹底して恵まれないよな。

 とか言ってしまったら、今度は自分の感想を力を入れて書くしかない。ちょっと自爆気味だな。
 この作品、結構、人間関係の構造がうまく作られてるので、その辺に注目したいと思っている。

●二組の姉弟

 本書は「BUBKA」で今やすっかり一般的にも有名になったコアマガジンから、コアノベルズレーベルの第1号として、2001年10月に刊行された(実質的な発売は9月らしいけど)。連載は同社の「ホットミルク」2000年2月号から8月号らしいが、それに大幅な加筆は施してあるとの由。
 なんでこんなことをいちいち書いているかというと、帯には「連載時から大幅な加筆を」とか書いてる割に、本書にはどこにも、初出がどこだったか書いてないんである。それはなんていうか、作家にも読者にも仁義を欠くので、コアマガジン社にはぜひ修正をして欲しいところではある。ちなみに、この小説のオフィシャルサイトにもリンクはっとく。

 物語の構造についてあれやこれや書く前に、登場人物と簡単な梗概だけ書いておく。当然ながらネタバレするので、嫌なら読まないように。
■登場人物一覧
 ◆早川可奈子……中2。いじめられっ子で、今時のアニオタ少女。眼鏡っ娘。
 ◆早川悠樹……小5。女性的な顔立ちのサッカー少年。可奈子の弟。
 ◆紺野沙織里……中2。可奈子のアニメ友達だが中学は別。化粧もするしおしゃれもする、という点で、可奈子とは別種のオタク。性格はアクティブ。小学校の時、レイプされかけた経験がある。
 ◆紺野真琴……小6。沙織里の弟。沙織里とは肉体関係があるが、ペッティング止まりでセックスは未体験。
 ◆新藤瑞穂……中1。可奈子の後輩で、やっぱりオタク少女。ちょっとトロい感じ。実家がお金持ち。
 ◆皆本静香……小5。悠樹のクラスの転校生。クラスでは浮いた存在。
 ◆衣谷……中2。可奈子が憧れるサッカー部のエース。
■梗概
 6月、ひょんなことから、可奈子と悠樹の姉弟は性的な関係を持つに至る。当初、可奈子が悠樹の弱みを握る形でスタートした関係は、可奈子による悠樹の陵辱から、紺野姉弟との乱交パーティ、同人誌制作の打ち上げとしての紺野姉弟と新藤瑞穂を交えた乱交、2人だけでの温泉旅行などによって恋愛へと揺れていくが、衣谷と皆本という、姉弟それぞれが心を惹かれる別の存在の登場によって解消の方向へと動き、最終的には姉弟双方の合意のもと、9月に入って解消される。

 てなとこでどうだろうか。一夏の、いささか切なさの漂うラブ&セックスである。もちろん、細かくは付け足したい部分が僕にもあるが、最低限の情報はこれで確保できたと信じて、まずは人物関係について書いていこうと思う。
 主人公は可奈子と悠樹の姉弟2人だと言っていい。視点自体も悠樹寄りになったり可奈子寄りになったりする。ただ、全体として、軸足は悠樹の方に置かれていると言っていい。この理由については後からも述べる。
 2人の関係は、悠樹が可奈子に脅迫される形で始まる。思春期の悠樹が、可奈子のお風呂を覗いたり、部屋に入ってパンティを眺めたりしているのに感づいた可奈子が、悠樹を現場を取り押さえて、半分レイプまがいに悠樹と関係を結んでしまう。で、これが可奈子にとって、自分をいじめる中学校の男子生徒への復讐、の、代替行為であることが暗示される。
 つまり、可奈子は自分をいじめる男子生徒に、体力面でも、あるいは精神的な意味においても勝てない。ということで、同じ男である悠樹をイカせることで、男性を支配下に置いた気分にひたって、ストレス解消している。
 で、この関係というのは、実は紺野姉弟の関係とホモロジーなものだ。紺野姉弟もまた、近親相姦の関係にあり、姉の方が「攻め」である。

 紺野姉弟の方は、姉である沙織里があっけらかんと乱交やら弟の女装プレイやらを楽しんでしまうのだが、実はこちらの方が根が深い。
 沙織里は小5の時、いわゆる変なおじさんにレイプされかけたことがある。その時は結局、最後まではいかず、クンニされてフェラさせられて、そこでおじさんが自分で射精して終了となり、沙織里は解放された。
 沙織里はおおよそ、これへの復讐の代替行為として、弟の真琴と、あるいは悠樹と性的な関係におよんでいる。沙織里は、これで自分もかなり楽しんでしまってはいるのだが、そういった場に及んでも、フェラはほとんどしたことがないし、セックスはしたことがない。また、沙織里は弟たちを女装させてプレイすることを好む。
 つまり、レイプ未遂によって自分が経験したこと、経験させられそうになったことは完全に拒絶した上での肉体関係なわけで、これはとりもなおさず、沙織里にとって、セックスとレイプ未遂体験が不可分であるということを意味する。
 可奈子が悠樹とセックスするのに対して、沙織はしない。これは、復讐の動機となった仕打ちが、沙織里の場合、それだけ深刻だったことを意味している。ここで注意したいのは、その仕打ちの苛烈さと、そして弟である真琴が、悠樹より1つ年上の6年生であるということだ。
 後に可奈子はいじめっ子の男子(に、女子の一部もからむ)からレイプ未遂という目に合わされてしまうのだが、それはまさしく、紺野沙織里がかつて体験したことの焼き直しであったと言える。つまり、可奈子は沙織里が辿ったコースを、数年遅れで体験しているという構造になっている。
 沙織里の弟である真琴が、可奈子の弟である悠樹より年上であるというのは、それを暗示するために作者が仕掛けた構造だと考えていいだろう。
 これらのことから考えて、構造上、類似の形ではありながら、紺野姉弟の姿は、早川姉弟がこのまま関係を継続していった場合の、未来の形である、とみなして良いと思う。

●時計仕掛けの肉体関係

 ここまでで、早川姉弟と紺野姉弟との関係の相似性を指摘してみた。本書がどういう物語であったのかを考える際、早川姉弟のことだけを考えると、少し見えづらくなる部分が、紺野姉弟を対置させながら考えていくと、割に素直に見えてくると思うからだ。

 姉による弟のレイプまがいのセックスから始まった早川姉弟の関係は、それが近親相姦であるということをさっ引いても、いささかいびつな物である、と定義されている。物語のラスト近く、2人がどちらからともなく、関係の解消を決めたとき、「あっけないほど簡単にそれは決まった」(p.391)のだった。
 つまり2人とも、この時点に至っては、それが期限つきの関係であったことに気づいているということだ。すぐその後には、悠樹の側に視点の置かれた描写の中で、「きっと可奈子は、悠樹よりも真剣に自分たちの関係を考えていたのだろう。姉弟の不自由な恋愛を割り切るために、可奈子は『普通の』恋愛をしたがっていた」(p.395)といった一文も出てくる。
 すなわちこの物語は、「早川姉弟が、極度にいびつな形からスタートさせた自分たちの関係を、やがてノーマルな関係へと戻していく物語」であると、とらえることが出来る。このとき、紺野姉弟の関係は、それと対極にある、いびつなままの関係として、早川姉弟を逆照射する。
 瑞穂、静香、衣谷といった面々も、それぞれに重要な役割を持ってはいるが、構造上は、紺野姉弟の占めるウエイトがもっとも重いと言っていいだろう。というのも、関係が始まった、その最初の段階でセックスまでを経験してしまった早川姉弟が、互いに恋慕の情を募らせ、「セックス付きアブノーマル→セックス付きノーマル→セックスなしのノーマル」というルートの軌道上に乗っているのに対し、紺野姉弟、特に沙織里は、これをアブノーマルな関係に戻そうとするような役割を果たすからだ。ただしこのとき、沙織里自身にそのような意図があるわけではないのだが。
 沙織里は、悠樹に自分を「沙織里お姉ちゃん」と呼ばせようとする。これは、可奈子から悠樹を奪おうという企てとも解釈できるが、紺野姉弟の関係と同じ系列上に、悠樹を位置づけてしまおうという企てであるとも考えられるだろう。
 考えてもみてほしい、悠樹が沙織里を「お姉ちゃん」と呼んだところで、別に可奈子と悠樹が姉弟でなくなるというわけではない。では、そのフィクショナルな「沙織里−悠樹」の姉弟関係が、悠樹が沙織里を「お姉ちゃん」と呼ぶことで成立した場合、何が起きるのか。これは、沙織里にとって「沙織里−真琴」という関係の「真琴」の項が「悠樹」で代用可能になるということを意味する。
 手マンやクンニはあっても、フェラとかセックスのない紺野姉弟の関係というのは、姉の側が一方的に、弟に対して優位に立つ、いびつな関係だ。その関係の中に悠樹が取り込まれた時、可奈子と悠樹の関係は、一歩アブノーマルなものへと引き戻される。
 可奈子が、悠樹が沙織里を「お姉ちゃん」と呼ぶのに抵抗するとき、そこでは熾烈な綱引きが演じられていると考えていい。
 沙織里の企ての中で言えば、悠樹に女装をさせたり、真琴×悠樹のヤオイを企てたり、といったことも、これと同種の意味合いを持っていると考えて問題ないだろう。
 これに対し、同人誌制作の終わった後の、打ち上げ乱交パーティの中で早川姉弟は、真琴に沙織里のバージンを奪わせることで、逆に紺野姉弟を、早川姉弟の関係に同化させる。相当な荒技ではあるが、関係性の綱引きということだけで言えば、逆転勝利という風に言ってもいいだろう。

 いずれにせよ、早川姉弟の関係は、沙織里との綱引きを続けている中で、あるいはその綱引きに勝利した後も、セックスを通じて、徐々に恋愛関係へと移行していく。その中で、可奈子は夏休みでいじめが無くなったことも手伝って明るくなってもいく。
 可奈子は夏休み前から、少し明るい性格になり、クラスの中でいじめに遭うことも減っていったようなのだが、そのあたりは、可奈子の後輩である瑞穂を通じて悠樹に情報が提供される、という形でしか、読者にも情報が提供されない。
 こういったところにも端的に表れているのが、この物語が、時に可奈子の視点から描かれることもありながら、実はその軸足は、一貫して悠樹の側に置かれているという事実だ。まぁ、男性向けなんだから、ある程度、当然といえば当然なのだが。
 沙織里の扱いの重さに比べての真琴の扱いの軽さ、衣谷の扱いの軽さ(結局、遠くからその姿を見るシーンがあるだけで、台詞はない)に比べての静香の扱いの重さ、といった点でも、このことは明確になってくる。
 可奈子が衣谷に憧れるシーンなど書かれても、読んでいる側としてはつまらないだろうが、真琴の場合にはちょこちょこと登場しながらも、ほとんどアイデンティティが存在するかすら怪しい程度の自主性のなさを誇る。これはもう単純に、悠樹にとっての重要性の低さの表れだと考えてしまっていいのではないか。
 軸足が悠樹に置かれているということは、本書が「悠樹を弟として描く」ことではなく「可奈子を姉として描く」ことに主眼を置いている、というのと同じ意味合いを持っている。つまり、軸足が悠樹に置かれていながらも、描かれる主体は、軸足が置かれていない、さして内面が描かれることのない可奈子であるわけだ。
 もちろん、そうでなかったら男性向けのエロ小説として成立しない、というのは理由としてあるにしても。
 それだからこそ、弟からはすべてをうかがい知ることの出来ない、2つ年上の姉であり恋人である可奈子が、魅力を増して描かれていくことになるのだ。
 ライバルである沙織里、協力者である瑞穂や、やがて悠樹が姉と別れた後の恋人となっていく静香と比べて、可奈子の魅力というのはちょっとずば抜けたものがある。
 そしてそのことが、終局の切なさへと、我々読者をいざなっていく。可奈子のような存在になろうとする静香は、非常にいじらしいものを感じさせるが、しかしそれでも、可奈子は可奈子であって、静香で代理がつとまるというものではない。ついでにいえば、岬くんばりに転校を繰り返している静香が、いずれ悠樹とも転校で離ればなれになるであろうことを予感させるわけで、これもまた切ない。
 おそらく可奈子との関係が始まったときから予定されていた「別れ」、「期限付きの関係」を、静香との関係の中にも織り込みながら、物語は幕を閉じる。それはある種、女性の持っている、男にとっての不思議さみたいなものが、ついには知悉しえないことを暗示するかのようでもある。
 書きたいことはまだあるが、ひとまずここで感想の筆を置くことにしよう。
(2003.3.29-4.1)


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