佐々木守 |
『戦後ヒーローの肖像 -『鐘の鳴る丘』から『ウルトラマン』へ-』 (岩波書店 2003年9月刊) |
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●体験的戦後子ども番組史もう捨てちゃったのだが、たしか帯には「体験的戦後子ども番組史」みたいなことが書いてあったと思う。 まあズバリ、そういう本だ。佐々木守氏の名を、「ウルトラマン」でジャミラやシーボーズを登場させた脚本家としてしか把握していなかった僕などは、どうしてもウルトラマンの番組制作現場のエピソードを期待してしまったのだったが、ウルトラマンについて書かれた部分は、そう多くはない。 しかし、それもあるいは当然のことなので、本書は「ウルトラマン」回顧本ではなく、「体験的戦後子ども番組史」なのである。だからこそ、佐々木氏がまだ小学生だった頃のラジオ番組「鐘の鳴る丘」から話が始まらなくてはならない。 そして、ウルトラマンを過ぎても「アルプスの少女ハイジ」の脚本や「男どアホウ甲子園」の原作で活躍した佐々木氏としては、「その後」のことも書いてこそ子ども番組史となるのだろう。 とは言っても、1章を割いて書かれている「ウルトラマン」当時の述懐は、非常に興味深い証言だったりはするのだが。 ●脚本家の誕生「鐘の鳴る丘」といきなり言われても、ピンと来る者の方が僕たちの年代では少ないだろう。ヘタすりゃ50歳代くらいでもピンとこないかもしれない。 したがって、当時のことを佐々木氏が熱心に話してくれても、それは所詮、個人的な思い出話あるいは無味乾燥な当時の子ども番組史の総括でしかないという側面がある。話が面白くなってくるのは、やはり佐々木氏が明治大の児童文学研究会に入り、そして自分でもラジオドラマの脚本を書きはじめてからのことだ。そこまでいくと、脚本家佐々木守の体験と作品が徐々に結びついてくる。 当時のインテリ学生の例に漏れず、と言ってしまっていいのだと思うが、佐々木氏も左翼系の思想に少なからぬ影響を受けている。佐々木氏もまた、砂川闘争をはじめ、60年安保の時分にデモ隊に加わっていた1人であったのだ。 そうした方向へいった端緒について佐々木氏は、「ぼくの友人たちにはなぜかそういった(望月註:左翼系の)クラブの部員が多く」、それゆえにデモに誘われたと控えめに語っているが、まあ、類友というやつではないかという気はする。 児童文学者協会、教育映画作家協会などに関わるうち、佐々木氏は教育映画作家協会の機関誌『記録映画』の編集に携わることになる。ここでつちかった人脈が元で、佐々木氏は映画監督の大島渚氏と出会ったり、また先輩のうしろにくっついて放送局へも出入りすることになる。 いわばそういう、丁稚君のような立場でうろちょろしているうち、人材不足の現場から声がかかって脚本を書くようになる、という、割によくある業界への飛び込みかたをしたわけだ。 そして、児童文学サークルの出身ということもあり、子ども番組を手がけることが多かった佐々木氏は、大島渚氏の紹介で1人の人物と出会う。少し話をするうち、その人物とは意気投合したそうだ。 その人物とは当時まだTBSに在籍していた実相寺昭雄氏。言うまでもなく、「ウルトラマン」などで佐々木氏と組んで数々の名作を送り出した監督だ。 ●「遊星より愛をこめて」で、ようやく話は「ウルトラマン」にたどり着く。 みどころは、やはり「ウルトラセブン」の永久欠番第12話「遊星より愛をこめて」を書いた佐々木氏が、制作から30年を経て、公式な場ではもしかすると初めて語るのではないかと思われる釈明というか抗議声明だろう。 この話にはスペル星人という宇宙人が登場するのだが、某出版社が出していた雑誌の付録で、この宇宙人に「ひばく星人」という肩書きがつけられているのを当時中学生だった少女が見つけ、原爆被害者団体の役員だった父親に相談。その団体からの抗議を受けて、円谷プロではこの回を永久欠番としたわけだ。 ただし、「遊星より愛をこめて」というタイトルで検索してみるとわかるが、この問題に特化したサイトなんかもたくさんあるくらい、この回については名作とする声が圧倒的に多い。また、「ひばく星人」というのは、この雑誌付録か、あるいはそれ以前の怪獣図鑑への収録の際に初めてつけられた(つまり佐々木氏とは無関係の、どこかの出版者側のライターがつけた)肩書きで、番組本編自体には何の問題もないと言われている。 この欠番となる経緯について、佐々木氏は2001年8月3日の朝日新聞の記事を引用しつつこう語る。、 この記事からもわかるように抗議した人も団体も誰ひとり放送を見ていないのである。放送は一九六七年の一二月一七日である。騒がれて封印されたのが七〇年、この間には再放送も再々放送も行われている。ぼくはもちろん「ひばく星人」などと書いた覚えはないし、のちに念のためビデオで確かめたがもちろん作品中にはそんな文字も言葉も出てこない。 (中略)スペル星人のあらすじはこうだ。遠いはるかな星で核実験が繰り返され、住民はすべて重い原爆症に犯される。その住民を救うため、地球人の美しい血液を求めてスペル星人がやって来る……。こういうストーリーから「○○怪獣」「○○星人」というように体裁を整えたくて、脚本にも作品にも存在しない「ひばく星人」などという名称を勝手にでっち上げたものに相違ない。もちろん僕には一言の相談もなかった。 (中略)こう書いたからといって僕は円谷プロを批判しているのではない。このあとも『ウルトラセブン』のキャラクターたちは他の番組の怪獣たちとともに、さまざまなメディアに登場し、一覧化され、別冊付録になり、マンガ化もされている。もし「封印」してなければ、とりあげるたびにそれぞれのメディアで問題にされ、載せる載せないで混乱したと思う。こうしたことで読者や視聴者から抗議が来ることは、放送、出版、新聞、その他を問わずほとんどのマスメディアがもっとも恐れることである。いささか言葉が過ぎると思うが、そうしたメディア側の弱気な態度がかいま見えるからこそ、読者や視聴者の方はカサにかかって抗議の投書や電話をするのである。もしその後放送したり、出版、図鑑などに掲載されれば、まだ懲りないのか、といった罵声が必ず寄せられただろう。第四章でふれたように制作側や編集者がもっとも恐れるのは視聴者、読者の声である。その意味で『ウルトラセブン』第一二話を封印したことは、円谷プロの的確な判断だったと思う。 (中略)それにしても放送作品が、放送を見てもいない人物によって批判され、騒ぎ立てられ、あげくが二度と陽の目を見ることができなくなったとは、まことに奇怪な現象である。 (p.176−178 第五章「ウルトラマン・怪獣退治の専門家」より) けっこう厳しいトーンであるが、要約すれば、最後の一文に尽きるのだろう。 切通理作氏が『怪獣使いと少年』で記したところでは、佐々木氏は「差別されてきた人間の抗議はすべて正しい」と「思うことにしている」として、さしてわだかまりを持っていないようすだったが、それがスタンス的にやや変化しているのは、『怪獣使いと少年』出版後の朝日新聞の記事によって、放送作品自体の問題ではないということがはっきりしたためだろうか。 いずれにしても、ここで佐々木氏が言っているのは、抗議の内容(被爆者を怪獣扱いにするとはなにごとか)自体の正当性ではなく、抗議が発生し、それが広まっていくプロセスを「制作サイド」と「視聴者」の関係に大きく敷衍した上での、相互の関係のいびつさであり、そのプロセスのおかしさだ。 こうした発言は、すでに70歳近くになり、子ども番組の脚本からは退いたと言っていいだろう立場だから出たものともとれるが、現在から見ると、割にスレスレだと思えるテーマを積極的に取り込むことでシナリオに幅を持たせていた佐々木氏が、ずっと思い続けていたことでもあるのかもしれない。 ちなみに、佐々木氏は「ウルトラセブン」で、この12話とメトロン星人が登場する「勇気ある戦い」(夕日が赤く差し込む安アパートの一室でちゃぶ台を挟んであぐらをかいて向き合うセブンとメトロン星人、というシュールながらも美しいシーンに見覚えがある人も多かろう)を書いてのち、ウルトラシリーズから離れることになる(後に映画版「ウルトラQ」の脚本を執筆)。 ●他にも見所はあるのですがその後、佐々木氏は「ハイジ」のパリ篇や「柔道一直線」の脚本、「男どアホウ甲子園」の原作などを手がける一方、永山則夫事件を彼の歩いた土地の風景のみを撮ることで扱った「略称・連続射殺魔」や、大島渚監督による「日本春歌考」などへの脚本参加により、日本ヌーベルバーグと近いところでの仕事も続けている。意外なところでは日本赤軍のリーダーであった重信房子にインタビューをしにレバノンへ行ったりする一方、「知ってるつもり!?」の構成などもしている。 騎馬民族征服王朝説への接近や、「アイアンキング」などにもあらわれる日本原住民という概念への興味など、一部時系列に沿っていなかったりして資料としてはまとまりに欠ける面はあるが、佐々木守という脚本家を考える上では外せないトピックについても、短いながらご自身で語ってくれていて、語ろうとすれば言葉は尽きない。 あとがきで本人も語っているように、途中から「戦後子ども番組史」というよりも佐々木氏の個人史に近いものになっているが、むしろそれで面白くなったと考えるべきだろう。体験的戦後子ども番組史としては十分に読みごたえがある。 (2004.12.26) |
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