サミュエル・R・ディレイニー |
『アインシュタイン交点』 (ハヤカワ文庫 1996年6月刊 原著刊行1967年) |
|
●先生、わかりません。旅行先へと持参していき、いちおう、読み終えてみたはいいものの、どっからどう考えても、旅先に持っていって気軽に読むような本じゃあなかった。ハヤカワSFというエンターテイメントを期待させるブランド名に騙されたというか、いや、あれはあれで立派にSFというものに取り組んでいる出版社だとは思うけど、しかしこれはちょっと不意打ちだろ、というか。 ともかく、SFであり、人類が消え去った遠い未来の地球で、人類とは別の生物が演じる神話的復讐譚だ、というのはわかる。これが一番、表面的な部分だから。 ただ、この作品についてはそれだけわかってもどうしようもないのだ。とにかく難しくて複雑で、正直なところ何が起きていてその深層に何があるのか、わけがわかんない。 と言って、構成がグダグダなのかというとそういうわけでもない。 なんかこう、キリスト教だとかギリシャ神話だとかハリウッド映画だとかビートルズだとかジョイスだとかが、隠喩の形でぐにょんぐにょんになって絡まりあっている。それがひとつの迷宮になって読者を迷わせるわけだけども、ただラビリンスを作ってみましたというだけじゃなくて、その奥になんかあるんだろうな、というのは、まあ、うすうすわかるわけだ。 ついでにこれが、小説と言うよりはむしろ散文詩に近い性質のものであることもうすうす見えてくる。 しかしそれにしてもキリスト教でギリシャ神話でハリウッド映画でビートルズでジョイス。もう、よりにもよって僕が興味がなかったりまだ手が出せずにいるものばっかりだよ。どうすりゃいいのかさっぱりだ。 ●デコードを要求する小説さっぱりなので、他の人の批評とか感想とかをリファレンスする。 文芸評論家の加藤弘一氏のHP「ほら貝」に、訳者である伊藤典夫氏にインタビューした際の文章が載っていて、伊藤氏の理解によると、この小説はひとつには「小説を書くこと、そして読むこと」についての小説らしい。またもうひとつには、「黒人作家がなぜ白人社会の神話にこだわるか」という小説でもあるという。 また、ゲイでもあるディレイニーの性的嗜好を隠喩的に織り込んでいるという読み方もあるらしい。 いずれも、そう言われりゃそうか、という気がするのだが、僕としては「ここがこうなっているからこうだ」というところまでしっかり考えていないので、こういう読み方もあるらしいですよ、という紹介にとどめておいて責任は持たない(ひでえ)。 ただどういう解釈をとるにせよ、問題はそこに織り込まれているテーマが何であるかではなくて、どうしてディレイニーがこういうややっこしい作法をとっているのか、というところになってくるんじゃないかという気がする。だって、実際に一般の読者が読んで、1回でこれをちゃんと理解できるかと言ったらほとんど絶対に無理なんだから。 それなりの理由があって、こういう作風になっているのでないとおかしいだろうと。 たとえばそれが、スタイルとか、あるいはパズル的な興味とかいったようなことであっても、それはぜんぜん問題ないんだけども、なんらかの意図なり理由なりといったものがここにはたしかに介在している。 伊藤氏の「小説を書き、読むことについての小説」だという読みあたりから推し進めていくと、これが単純な「read」ではなく、隠喩や多義的言葉遣いから別の意味を探り出す「decode」の作業を読者に強いる作品であるという、そのこと自体に大きな意味があるのかなあという気もする。小説が本来もっている多義性とか多様性、それに「読解」という形で一定のコードを用いることで読者が果たすことができる役割とか、そういったようなもの。そういう理想郷的な「作家−読者」の関係を、ジオラマでも作るように小説の中で再構築して…。 メタメタやね、しかし。 とにかく色々と深いので、それなりの手順を踏みつつ、きちっと読みこんでいけば面白そうだとは思う。ひとつの言葉の多義性なんかも言葉遊び的に使われているので、まず話の構造を整理するだけでも一苦労だとは思うけど。 ただ、旅先にもっていくのだけはオススメしない。旅行が台無しになるか、読書が十分に楽しめないか、どっちかになること請け合い。軽く半泣きになれます。 (2004.8.17) |
サミュエル・R・ディレイニー |