関川夏央 |
『本よみの虫干し -日本の近代文学再読-』 (岩波新書 2001年10月刊) |
|
朝日新聞朝刊と岩波の雑誌「図書」に連載していた同名のコラムをまとめたもの。大学時代は朝日新聞をとっていたので、たまにそのタイトルを目にする機会はあったが、実際に中身まで目を通したことはあまりなかった。なぜ、と問われても困る。当時はあんまり新聞の中身まで読んでいなかったということだ。 かなり長い間連載していたような印象があったが、新聞版が1998年9月始め〜1999年8月末で、1年しか連載していなかったようだ。記憶というのはあてにならない。その後、少し間をおいて、連載の舞台を「図書」に移すことになる。 全部で59作品、日本文学再読と言いながら、外国文学も日本への影響度という部分を焦点としながら数作品とりあげて、「愛と懐旧」「異文化との接触」「家族」など一定のトピックの上から読み直しを図っている。 新聞では週一連載というインターバルの短い形式だったこともあってか、回ごとの差は激しい。数週間を費やしたのかそれともメディアが雑誌に移ってからのものなのか、いつもよりたくさんのページを費やしてそれなりに深く読み込み、新たな解釈と評価、問題点を提示している回もあり、著者の来歴と作品の内容を紹介しておしまいになってしまっている回もある。 武者小路実篤『友情』、レイモン・ラディゲ『肉体の悪魔』、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』、山田太一『岸辺のアルバム』、阿佐田哲也『麻雀放浪記』、片岡義男『給料日』、石原慎太郎『太陽の季節』を扱った回が前者だろうか。後者はいま、特にあげない。 とりわけ、ラディゲ、片岡義男の2回は白眉と言うべきで、作家自体、小説自体の抱えた先鋭性と問題、そしてそれを受け止めた時代との関わりについて、手際よくまとめられていると思う。 人によっては、明治末期、日露戦争後の価値喪失期に人間の醜さとその告白という「正直さ」で勃興した私小説のなれの果てが、現在のワイドショーやWeb日記だという指摘を面白いと感じるかもしれない。また、明治人を賛美し、現代人を退化したと見なす姿勢に反感を覚える人も多いだろう。もちろん、その逆もあるに相違ない。 が、それは関川氏自身の考え方や個性といった立脚点を示すものであって、それへの共感や反発は、おそらく、個々の考え方の相違というだけにとどまる。 むしろ、先に挙げたような数作品への言及を除くと、関川氏の読解が、かなり常識的な線の枠内にとどまってしまう、ということの方が問題が多いかもしれない。それはつまり、関川氏がどれだけ自分の言葉で作品を語っているか、という問題へとつながっていくからだ。 例えば、先の例にも挙げた私小説ということで言えば、現在、その正直さの多くが、あらかじめそれを書いても大丈夫なように予防線を張って書かれていたことが明らかとなっている。私小説の嚆矢とされている田山花袋の「蒲団」にしてからがそうであって、作中で花袋を元にした竹中時雄が横恋慕した芳子のモデルになったとされている女弟子とは、花袋は「蒲団」執筆・発表後も、師匠と弟子としてほぼ以前と変わりなく交流を保っていたとされる。ということは、別段、花袋の「告白」がウソだったことを意味するわけではないが、その「告白」が、それまでの関係を破壊しつくすほどのある一線を越えてはいなかったことはうかがえるわけだ。 関川氏は、そこのところで、私小説の「告白」をあまりに真っ正直に、言ってみればこれまでの常識的なとらえ方の枠内で受け取っているきらいがある。 読解を常識の枠内からおこなっていこうという傾向は、この例にとどまらない。そしてそれが関川氏自身の傾向でもあるのではないかという疑問は、「新潮文庫の百年」のカバー裏に書かれた紹介文を見ていても感じられることだ。 のべ2年に渡って連載したものをひとつにまとめた、という性質上、力の入り具合に振幅があるのはしょうがないことではある。 ただ、この読解が、いささか旧来の常識の枠内にとどまりがちであるということは踏まえなくてはならない。 一般向けブックガイドとしての、この本の価値は、そのへんをさっぴいても十分にあると思う。この本によって教えられることもたくさんあった。 (2002.12.28) |
関川夏央 |