白洲正子



『私の百人一首』
 (新潮選書
 1976年12月刊)

●白洲正子はドレスである


 この本の前に読んだ福田和也氏の『悪の読書術』には、白洲正子氏の名前が「問答無用の白洲正子」として登場する。
 人前で読んだり話題にしたりして恥ずかしくない作家、ということを考える場合に、どこへどんな形で持ち出しても通用する、一般的に名前の通る作家としてはほぼ無敵に近いような存在で、服装で言うならドレスだと。
 でまあ、興味を引かれて、買ったまま筐底で眠っていた本書を読んでみることにしたわけです。本を読むきっかけなんていうのは、そんなふうなもんでしょう。どこでどんな形で出会うんだかわかったものではない。
 ともあれ、そうした出会いかたをしたので、この人を問答無用の存在とした福田氏の眼鏡を問おう、というような気持ちがなかったと言えば嘘になる。

●ロングセラー


 たしか、ちょっと前にこの本は新潮文庫に入ったんじゃなかったかと思う。
 僕が買って持っていたのはもとになった新潮選書版で、本屋で文庫版を見たときに、また文庫で買えるものを高い金を出して買ったか、と口惜しいような気がした記憶がある。いやしいようでもあり、買ったのを忘れて同じ本をもう1冊買うということがよくある僕としては理屈にも合わないことでもあるけれども、こうした気持ちというのは本読みならたぶん誰でも感じることだろう。
 新潮選書版が出たのは1976年の末のことで、1999年までに13刷を重ねている。ロングセラー、と言っていい。
 爆発的には売れないけれどもロングセラーにはなる。しかもそのあと文庫にもなる、というのは、これがいつの時代にも一定のニーズをもって迎えられるタイプの本であるという事情をものがたっている。
 本書の内容はいわゆる小倉百人一首の個人全評釈といったところだが、と言って学術的なものかというとそうでもない。百人一首という題材のキャッチーさと、学問的な重さのない、たとえばカルチャースクール的な、と言ったらたぶん白洲氏は激怒するのではないかと思うけれども、お手軽な上品さみたいなものを求めて、本書を手に取る人が多いのではなかろうか。
 ちなみに、自分でも買っておいてなんだけれども、そういう層が好きかと問われたら、僕は大嫌いだ。

●危うい高貴さ


 カルチャースクール的、といっても、本書で白洲氏が書いていることというのは、決して万人に理解されうるものではない。
 それはたとえば、現代語訳をしてしまうとかえって歌の妙味が伝わらない、として必要がなければ極力現代語訳を避けるような姿勢などにもあらわれているけれども、要するに、こういうのはわかる人にはわかるしわからない人にはわからないものだ、と割り切って、わかりやすさを二の次に堂々と自分の評を述べようとする態度からくるものではないだろうか。
 自分の評を述べる、と言っても、先行する議論に耳を貸さないわけではなく、逐次的に(論文的に、と言ってもいい)引用をしないだけで、かなりしっかりと、中世の歌論書や契沖らの評釈、現代の論文にいたるまで目を通しているらしいことがうかがえる。その上で、学術的に主流であるか否かと言ったことには頓着せずに自分の意見を述べているわけで、自分の教養によほどの自信があるのだろうが、なかなかできないことである。
 もっとも、学術的に主流であることにはそれなりの理由があることが多いわけで、そこにあまりに頓着せず「私にはこのほうが味わいが深いように思われる」と言ってしまう軽やかさには、ある種のあやうさを感じないわけではない。
 だが、しっかりと自分の足で立っている意見を述べようとする態度というのは危ういと同時に高貴なものでもある。福田和也氏がとりわけそうした高貴さを愛する批評家であることを考えあわせれば、白洲氏がドレスである、という見立てには十分に納得がいくだろう。あとは、その人がどれだけドレスを欲するのか、という問題だ。
(2006.4.3)


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