真保裕一 |
『奇跡の人』 (新潮文庫 2000年2月刊 原著刊行1997年) |
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●簡単な感想あ、一応ミステリーだってことになっているようだから、あらかじめ言っておきますが、ネタバレします。ネタバレもなしに本の感想や書評を書ける、という前提がそもそも間違いなので、以下の感想を読む際はそのことを踏まえた上でお読み下さい。さて、何年か前に、山崎まさよし主演でドラマ化もされた本作ですが、どうもテレビドラマの方はいろいろと新しいファクターが加わっていたようなので、まぁ、別物と考えておいた方がいいらしい。 読み終えた時点での正直な印象としては、「この程度のことを書くのに560ページも要るか?」といったところで、退屈するというほどのことはないにしても、やや冗長な印象は受けた。 また、新潮文庫版の背表紙には「静かな感動を生む『自分探し』ミステリー」であると紹介されているのだが…うーん、これで感動できるか? どこに感動すればいいのかさっぱりわからなかったのだが、まぁ、感動する人はするのであろう。 しかし、感動はしないにしても、それなりに退屈せずに読める一作であることは間違いない。真保裕一らしく、構成が丁寧で、読者を引っ張っていく力はある。 ●本人はおめでたいとは思っていない人簡単に、本書の内容を振り返ってみる。主人公の相馬克己は31歳。8年前、交通事故で半植物状態となり、一度は脳死判定をされかかるというところまでいったものの、奇跡的な回復力で、8年に及ぶ入院中、どうにか社会生活が送れるところまでリハビリを進めてきた。ただし、事故以前のいっさいの記憶、それはもう個人的な思い出から、一般的な常識的知識、言葉まで全てを失っている。いわば、赤ん坊の状態へとリセットされたようなもので、リハビリと平行しての再教育で、いま、ようやく中1レベルまでの知識を身につけたところである。 退院の後、事故以前に自分がどんな人間だったのかを知りたいと考えた克己は、それまで、事故以前の自分の姿が、医者や母親によって、巧妙に隠蔽されてきたことに気づく。 手を尽くし、過去の自分の姿に迫ろうとする克己は、しかし、過去の自分が暴力的なチンピラであったこと、そしてその頃つきあっていた聡子という女性の浮気相手に傷害事件を起こし、警察から逃げる途中で事故を起こしたという、残酷な真相に突き当たるのだった。 けっこう、話の構成は複雑なので、うまくまとめられなかったような気がするが、まぁ、それはそれとして。 ネット上で書評に当たってみると、後半、すでに人妻となり、子供ももうけている聡子との再会を果たすべく、それを拒む聡子を公園で待ち伏せたり、何度も電話をかけたりする克己の行動が、ストーカーっぽくってどうも、という意見をよく見かけた。 克己がストーカーっぽいというのは僕も感じていたことだが、作者がストーカーとして描いているのだから、そう感じるのも当然のことだと考えるべきだろう。 日本の小説でストーカーを描いたものとして、武者小路実篤の「お目出たき人」がある。 「お目出たき人」でも「奇跡の人」でも、ストーカー小説として、それが恐怖以外の感情(「おめでたいなぁ」でも「ひたむきだなぁ」でも)を呼び起こすとしたら、それはこの2作品が、ストーカー本人の主観に従って一人称で書かれているからだ。 ストーカー本人が真面目であればあるだけ、「けど、実際にやってることはストーキングやからね」という、客観的・俯瞰的に状況を見たときとのズレが生じる。これが、ストーキングされている側から、あるいは事件の全体を俯瞰的に描こうとすると、たとえばスティーヴン・キングの「ミザリー」や乃南アサの「あなたの匂い」などのように、怖さとか嫌悪感とか気味悪さの方に、焦点が絞られてくることになる。 (余談ながら、「奇跡の人」というタイトルの付け方などから考えて、真保裕一自身、「お目出たき人」をちょっと意識していたような気がする) 「奇跡の人」の場合、克己は過去の自分を捜すために聡子に会おうと、ひたむきにアタックを繰り返す。 「どうしてそこまでぼくを避けるのか」「昔、避けられるようなことをしたのだろうか」「そうでなければ会ってくれてもいい。何も悪いことはしていないし、するつもりもない」と。 しかしながら、そのためにやっていることは、聡子が子どもを連れてくる公園で彼女を待ち伏せたり、公衆電話から何度も何度も電話をかけて、留守電になると「自宅におられるのはわかっています。どうか電話に出てください」と吹き込んだりで、どっから見ても立派なストーキング行為だ。 留守電にしたって、聡子が家にいるというのを、外から確認して電話をかけているから、間違いなく彼女は電話を聞いているのだ、という、克己の主観から見た前提が語られているから、おかしくないように見えるが、それがなかったらどう考えても異常だ。以前、タレントの勝俣州和が、家に帰ると留守電に「いるのはわかってるんで、ドアを開けてください」という、知らない女性からのメッセージが何十件も吹き込まれていて、鍵を壊そうとしたあとがあった、という痛いファンの体験談を話していたのを記憶しているが、克己のしていることも、ほぼそれと同列であると言っていい。 ●ズレを表現する構造で、そんなことを考えていて、ふと思ったのだが、要するに本書が主題としているのは、「自分さがし」と言うよりも、主観的な事実と、外側から見た場合の現実とのズレなのだと言ってしまうことが出来るのではないか。克己自身、中身は中1と変わらないが、見かけは31歳だ、というズレを持っている。お隣の老夫婦が持っている克己への差別的な意識にしても、長期入院から帰ってきた記憶喪失の男性、というイメージと、克己の実際との乖離が原因であるわけだし、東京でのかつての仲間との再会のシーンでも、懐かしさに喜ぶ仲間たちと、彼らのことを何も憶えていない克己の内面とのギャップが浮かび上がる。 かつての克己自身や自己の真実など、隠蔽されていた事柄もまた、「実際はこうだったが克己にはこう教えられていた」というギャップの問題だと読むことが可能だ。 東京での探索行の途中、克己は漱石の「坊っちゃん」の文庫本をずっと読んでいる。ただ「文庫本」と書いても、何かの推理小説ということにしてもよさそうなものを、なぜ「坊っちゃん」なのか。 これはやや牽強付会にあたるかもしれないが、「坊っちゃん」もまた、田舎の学校に赴任してきた坊っちゃんの主観的な把握と、もとから松山にいた山嵐たちの側からの事件の把握が異なっている物語だ。坊っちゃんにしてみれば、たまたま赴任した学校で、赤シャツたちを中心にした陰謀が持ち上がり、それを痛快に懲らしめた、ということになるわけだが、これが実は、元々、赤シャツ派と山嵐派にわかれて勢力争いをしていたところに、東京から坊っちゃんがやってきて、そこにちらっと首をつっこんで帰っていっただけである、というのが、「坊っちゃん」研究の中で言われているという話を聞いたことがある。 同様の構図が克己の周囲にもあることを暗喩するために、ここで「坊っちゃん」が登場するのではなかろうか(そして、そうした構造は、もちろん、「お目出たき人」とも共通する)。 そんなことを考えていくと、なかなか一筋縄でいかないな、という気分になるが、それにしたって、こんな長大な分量が必要な内容であるかというと、それもちょっと疑問ではある。 また、福田和也が指摘するように、真保裕一の小説の登場人物というのは、なんだかどうも、動機が曖昧で、共感がしにくい。本書にしたって、聡子は結局、過去に克己を傷害事件に走らせたのは自分であるという負い目と、過去に抱いていた愛情の残り火のようなものをいまだに抱いているわけだが、なぜそこまで克己にこだわっていたのか、そしてラストで、再び重体となった克己の身柄を引き取るというのはどういった心理であったのか、といったことが、どうにも読んでいて、わかりづらかった。 悪くはないんだけれども、しかし名作と呼ぶにはためらわれるとすれば、そのあたりも大きな原因ではあるのだろう。 (2003.4.12) |
『ホワイト・アウト』 (新潮文庫 1998年9月刊 原著刊行1995年) |
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日本最大の貯水量を誇る冬山のダムを、自動小銃を持ったテロリスト達が占拠し、職員を人質に立てこもる。豪雪に加え、ダムに通じる唯一の陸路は犯人達に爆破されて、警察による解決は期待できない。 数ヶ月前に、雪山で遭難者を助けようとして二次遭難し死亡したダムの運転員、吉岡和志の相棒であった主人公・富樫輝男は、たまたま1人だけ、ダムの運転所の中に監禁されずにすみ、吉岡を自分が助けられなかったことの悔恨もあって、犯人の目論見を阻止するべく、孤独な戦いを開始する。 一方、吉岡の婚約者だった平川千晶は、恋人の仕事場を見ておこうと、ダムの見学に来たところを、犯人達に監禁され、人質となる。 2月の奥遠和ダムを舞台とする、千晶達とダム下流域の住人、それに近隣一帯の電力を人質に取った雪中の籠城戦は、はたして頓挫させることが出来るのか。 …と、ゆーお話です。 えーと、『クリフハンガー』と『ダイ・ハード』を思い出した人は正しいです。『ダイ・ハード』は、梗概を述べ立てただけじゃ、ちょっと想像がつかないかも知れませんが、「たまたま居合わせた運転員がテロに巻き込まれ、テロリストに孤独な戦いを挑む」という風に、富樫の立場から話を簡略化すれば、底に共通点を見いだすことは納得していただけると思います。 もっとも、この2作のアクション映画とはかなりテイストが違っていて、アクションシーンもふんだんに用意されてはいるものの、全体としては雪山との戦い、および心理戦に筆がさかれていて、冒険小説としては割合に厚みのある仕上がりになっています。 ただ、不安な点も無いわけではなくて、例えばダムの中で富樫がテロリストを待ち伏せたりするところとか、それまで散々「こんな可能性もある、あんな可能性もある」と考えあぐねていたのが、テロリストの足音が聞こえて行動する段になると、やけにあっさりと動いてしまったりして、そういうのはちょっと、ご都合主義的かなぁ、と。 あと、テロリストの中に1人、数年前に同じテログループがビルの爆破事件を起こしたときに奥さんと子供を亡くしていて、復讐のためにテログループに潜り込んでいる、という設定の人がいるんですが、どーもこの人が出てくると、話が妙にハードボイルドっぽくなってしまって、ちょっとつまらなくなる。正直、そんな設定は要らないのではないかと思うのですが。この設定がないと話が成立しないというものでもないですし。 テロリストによるビル爆破というと、昭和48年ごろに、三菱重工だったかなんだったかのビルが爆破されるという事件が実際にあって、そのへんが「テロリストという存在にリアリティを持たせる」という意味で念頭に置かれて、二重写しになっているのかとも思うのですが…。 「ハードボイルド」というのは、ロマンチシズムによる人間の描き方なわけです。 ひとつの「理想の人間」像を置いて、その「理想の人間」そのものは登場しなくとも、登場人物を、その理想像との距離から描いていく。「こういうところは理想像に近いが、こういうところは理想からかけ離れている」といった按配です。まぁ、類型的な説明ですが。 ところがこういう描き方というのは、理想像を1つに絞って設計するところから、既に無理が生じているわけで、同じロマンチシズムを共有できない読者にとっては、描写には常に違和感が伴うということになるわけです。 価値観の多様化を今さら謳うつもりはありませんが、今のような時代には、こういうタイプの手法というのはやはりそぐわないと。 で、こういう、ハードボイルドの残滓のようなものが感じられるというのは、この『ホワイトアウト』のひとつの欠点だと思う。 もっとも、そういう欠点はありつつも、近年の冒険小説の中では出色の出来であることは確かです。 (2000.3.24) |
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