ドナルド・キーン



『果てしなく美しい日本』
 (講談社学術文庫
 2002年9月刊)

●果てしなく美しい日本


 いくらなんでも「果てしなく」はないだろうよ、サンガリアのキャッチコピーかよ、と思ってしまうタイトル。
 ドナルド・キーン氏のことを知っているかいないかは人によってわかれるだろうが(とはいえ日本文学が好きな人間なら知っておくべき名前だけど)、このタイトルの行き過ぎ感は、たぶんこの本を目にした人間のほとんど全員が認めるところだと思う。良くも悪くもインパクトは強い。
 もっとも、インパクトを目指したタイトルではないだろうし、まして皮肉を含んでいるものでもないので、大まじめに行きすぎてしまった感がある。

 本書は大きく3部にわかれていて、第2部は1993年に富山県の夏期講座でおこなった講演の、第3部は1999年にザビエル日本上陸450周年を記念しておこなわれた講演の、それぞれテープ起こししたものと、英文原稿を訳したものとなっている。ただしメインはやっぱり第1部で、これは1958年当時に、アメリカ人向けに日本の実際の暮らしを紹介しよう、という趣旨で書かれた『生きている日本』(本邦初訳は1973年で、そのときに多少の改訂があったらしい)という本がそのまま収録されている。
 もうその『生きている日本』のタイトルで出しちゃえばよかったんじゃないの、という気もしないでもない。「生きた日本」を紹介するというのはあくまで外国人に向けたアピールではあろうけれど、そんなに悪いタイトルではないだろう。
 しかし、まえがきの言葉には「今回、文庫本として刊行するに当たり、この本(『生きている日本』)の他に二つの講演を併せ掲載し、私の日本への思いをこめて、書名を、『果てしなく美しい日本』とした。」とあって、この文章を読むと「果てしない」のは美しさではなくて、キーン氏の日本への思いなのではないか、という気もしてくる。あるいは深読みのしすぎかもしれないが、この本のタイトルは「果てしなく美しい、日本」ではなく「果てしなく、美しい日本」と区切って読むべきなんじゃないだろうか。
 キーン氏の真意はわからないけれども、この行き過ぎ感はいろいろと勘ぐらせるものを含んでいる。

●花見・日本人・孤独

 今もそうなのかどうかはしらないが、僕が受験生だった自分には、国語の評論の設問で「日本論・日本人論」というのは割に定番になっているジャンルだった。受験の設問傾向なんて、そうコロコロかわるものではないから、たぶん今でもそうなのではないだろうか。
 どうしてこれが定番になるのか、というと、それは簡単な話で、論評されているのが受験者を含む日本人一般のことだからだ。人間だれしも、自分と関わりのある話はそれなりに興味深く読む。せっかく設問として評論を掲載するなら、少しでも興味を持って読んでほしい、という設問者の心理である。まあ、定番だから出しておくか、という安易な設問者も中にはいる。
 で、この本も日本論なのだが、論評されている側がこれは当たっているだのは的はずれだのと言ったところで、決してまともな意見ではないことは明らかな話だ。その中にいくぶんかでも「これは当たっていてほしい」「これは的はずれであってほしい」という心情は紛れこむもので、それはしょうがないこととはいえ、まあ少なくとも見た目の綺麗なものではないと僕は思っている。
 ただ、やはり目のつけどころみたいなもののセンスは出るもので、たとえば次のような箇所を読むとそれがよくわかる。

 大都会にも同じような祭はあるが、都会で最大の熱狂を惹き起こすのは花見である。木に実際に桜の花が咲いているかどうかは、実はそれほど重要ではない。祭の核心は、できるかぎり大勢の人々とともに、酔っぱらえるだけ酔っぱらって、自分が花見という観念を重んじていることを示す点にある。
 そうした祭で喜びが高められるのは、祭が−−そして、祭につきものの酒類が−−孤独の原因となる社会的障害物を打ち壊すもっとも理想的な機会を作り出すからである。家の中にプライバシーは存在しなくとも、他人に対しては慣習上遠慮深く振る舞わねばならない日本人は、通常はたとえどれほど寂しくても、自分の孤独を外部者に訴えたりしてはならない。日本人にとって、花見はすべての人々との仲間意識を回復する機会なのである。一茶が述べているように、

  花の陰あかの他人はなかりけり

なのである。
(p.39 「第一部 生きている日本/第一章 島国とその人々」より)


 鮮やかであると思う。前段で田舎の祭について述べているのだが、それに続けて、都会ではその祭の役割を花見が代行している、という。
 花見という題材自体は、割にありきたりではあるだろう。しかし、花見において重要なのは、「自分が花見という観念を重んじていることを示す」ことだというのはひとつの発見であり、これ自体、なかなか興味深い指摘だ。
 こうした傾向は花見だけではなく、日本におけるセレモニー全般に見受けられる、と話を広げることもできるだろう。「あーあ卒業式で泣かないと 冷たい人と言われそう」(斉藤由貴『卒業』)なのである。ああ日本人って全体主義的で嫌よね、なんつって。
 しかし、キーン氏はそうはしない。かわりにさらに論を進めて、そうした祭で浮かれ騒ぐ日本人を異国の特異な風習とは見なさず、日本人たちの中に、欧米人と共通の「孤独」とその回復を見いだす。
 エキゾティックな対象物としてではなく、社会的な慣習・風習によって表面への現出のしかたは異なるにしても、同じ人間としての基底は共通していることを発見する文学者としての視点がここにある。同じ花見を扱うにしても、たとえば「桜。桜は美しい。しかし、その下に集まって騒ぐ人たちはこのうえなく醜い。」というリリー・フランキー氏の言葉よりも深い、と言って悪ければ、そのよしあしを問題にしたリリー・フランキー氏とは、違うものを問題にしている。美醜という価値判断ではなく、その奥に何があるのか、ということが問題とされている。
 これはたとえば、明治期に日本が西洋文学を吸収した際のことを語った箇所で、「ヴェルテルのような主人公が自分は愛人の『奴隷』であるといったり、あるいは他の主人公が自然を『征服』する意思を表明したりするとき、日本人の読者はそうした感情表現がかつて馴染みのなかったものであることを知った。たとえ日本人がその感情を完全には共有し得なかったとしても、こうした小説の多くは、伝統的な日本文学とは異質な感動で彼らを揺さぶった。」(p.74より)という指摘と共通する。異質ではあっても、なにも特殊ではなく、感動を共有しあうことのできる人々として、日本人は見られている。
 1958年という、日米間の渡航が決して日常ではなく、日本が文字通り「FAR EAST」だった時代に書かれた文章として、この視点は素晴らしいと思うし、評論されている日本人の一人として言うならば、これはありがたいことだと感じないわけにはいかない。

●お山の大将、乃木大将

 まあ、本書を読んでいるとそうした素晴らしいと思える箇所ばかりではなくて、なかには、50年近く経って時代が変わったのか、あるいはまだキーン氏の理解が足りていなかったのか、ちょっと極端だなあと感じるような記述もあるが、先にも述べたようにその妥当性を評論されている側として云々することはまっとうなことではないと思うので、ここではその指摘は控える。
 しかし、第二部「世界の中の日本文化」でも言われていることだが、「神秘の国・日本」として、そのエキゾティックさが外国で喧伝され、そしてそのことが日本人にも知れるにつれて、外国人ばかりか日本人までもが「日本は特殊な文化を持った国で、それは外国人には理解できない」と信じ込むようになってしまったという指摘は、滑稽を通り越してなんだか恥ずかしくなってくる。

 しかし、まだ外国人は魚のおいしさを理解できないだろうと思ってか、あるいは私を試そうとしてか、「刺し身を食べられますか?」と聞きます。「喜んで食べます」と言うと、日本人はだいたいがっかりします。「塩辛は?」「納豆は?」外国人が味を理解できそうもないような食べ物を次から次へと並べてみるんです。
「全部食べられる」という返事をすれば、がっかりされるので、あまりにも気の毒ですから、私は「いやそれは食べられない」というと、日本人は軽い優越感を覚えるようです。
 そういうふうに日本人は、日本文化を不可解なもの、外国人には理解できないものと、信じたいのではないかと思います。それはまことに残念だと思います。
(p.291 「第二部 世界のなかの日本文化」より)


 日本人の、お山の大将でいたいんだなあという心性が透けて見えるような気がするのは僕だけだろうか。
(2007.7.9)


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ドナルド・キーン

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