田中充子 |
『プラハを歩く』 (岩波新書 2001年11月刊) |
|
中学から高校にかけて、幾何というのがどうにも苦手だった。いや、思い返せば、小学生の頃から苦手だったような気がする。 何が苦手かというと、頭の中で図形とか立体が思い浮かばないんである。底辺これこれでどこそこの切片がこれこれの円錐などと言われたって(そんなものが存在しうるのかには責任を持たない。だって切片っていったい何よ。さっぱりわかんねーよ)、浮かんでくるのは、不定冠詞の「a」がくっついた凡庸な円錐ばかりで、与えられた条件に当てはまるような「The」のつく円錐などどこをどうしたって出てこない。解答が出てきてさえわからないものが、解答が出てくる前にわかるわけがない。 あんなものが得意なやつは人間じゃない。きっと図形が思い浮かぶかわりに哲学は理解できないんだ、と、絶対にそんなことはないであろう理屈をこねて、酸っぱいブドウを川の流れの向こうに見送るばかりの学生時代だった。 と、そんなことを読みながら思い出した本書は、チェコの首都プラハを、建築史家の目で見ながら逍遥してつづられる都市ガイドである。 都市ガイド、という本のジャンルがあるわけではないが、それに分類される本というのは、庶民が活字を読むようになってさえいれば、いつの時代も存在する。古くは十返舎一九の「東海道中膝栗毛」であり、明治に入れば長谷川如是閑の「倫敦?倫敦!」、僕が割に最近に読んだ中では堀純一の「ケルトの島 アイルランド」や池内紀の「ザルツブルグ」などがある。 それは見知らぬ都市への憧憬をかき立てるが、それの読者は実際にその地に足をのばすことはあまり無い。それがかき立てられたところで、実際にその地にすっ飛んでいくわけにもいかない小市民たちの、せめてもの慰めとして、それらの本は機能することが多い。実際にその地に旅行できる物は、普通は旅行ガイドブックを読むのであって、都市ガイドというのはそれとは別のものだと思う。 歴史から、文学から、音楽から、建築から、それぞれの著者がそれぞれの得意分野を窓口にしながら、その都市について、ただ観光に行っただけでは味わえないような裏話を教えてくれる、それが都市ガイドというものだ。 本書の著者、田中充子さんは、建築を窓口にしながら、ロマネスクから現代建築まで、様々な様式の建築が立ち並ぶ「建築の森」プラハのことを紹介してくれる。 僕もこの手の都市ガイドは、たまーに読む。別になりたかったわけではないし、今でもそこから脱出しようともがいちゃいるが、小市民になっちゃったんだからしょうがないのである。そしてこのとき、出来れば文学を窓口にした都市ガイドは望ましくない。自分の専門分野に近いところが窓口になっていると、ついいろいろなところに気を回しすぎる。 その点、建築はいい。専門分野からはぐぐっと離れているし、僕も最近ようやく、グッゲンハイム美術館のビルバオ分館など、現代建築についてはその面白さがわかりはじめたところでもある。 ところがそう思っていられたのは、終盤、キュビズム建築についての説明に突入するあたりまでのことだった。いやあ、どう言葉で説明されても、さーっぱり、それがどんな建築物だかわかりゃしない。図版も新書にしてはがんばって掲載してくれているのだが、図版を見たってよくわからないのである。 ということは、図版がなかったらもっとわからないということだ。 建築に関して、その理念とか思想、発想は面白いと思えても、その物理的な構造についてはさっぱりわからないのである。 そんなわけで、著者の田中充子先生にとっては心外かもしれないが、そういうところはわからないままで読み飛ばした。別に建築について勉強するのが目的じゃないのだから、それでいいと思う。物語がどのようにでも読まれうるように、たとえばハッブル天文台からの写真を集めた本を、天文学の本としてもただの星の写真集としても眺めうるように、どんな本であっても、読者によって多様に読まれていいはずだ。 そして、そんな半可通な読み方でも、なにがしかわかったようなつもりになれて、プラハの町に思いをはせることが出来、少しのリラックスを得られたわけだから、やっぱりそれで良かったんだと思う。 で、何冊かその手の都市ガイドがたまっていたので、次は上田浩二氏の『ウィーン』を読むことにするのだった。 (2003.5.1) |
田中充子 |