高村薫



マークスの山(上・下)
 (講談社文庫
  2003年1月刊   原著刊行1993年)

●「マークスの山」と「逆転裁判」


 『マークスの山』である。増田こうすけ氏の『ギャグマンガ日和』っぽく言えばマークス山男(やまお)。あ、なんかマークス寿子みたいでホントにいそうじゃない?
 でも、残念ながらこの小説にはマークス山男は出てこない。出てきたら出てきたでそんな小説は読みたくない気もするけれど、本作はむしろ、そんな冗談の通じにくそうな人たちばかりが登場する物語である。余計なお世話だけど言わせていただくと、主人公の刑事合田はバツイチらしいが、そういう冗談の通じないところも奥さんに愛想を尽かされた原因のひとつではあるまいか。
 いまいち冗談の通じそうにない男たちの物語を何と呼ぶのかと言えば、これはもう世間ではハードボイルドと呼ぶのである。本作の場合、クライムサスペンスという呼び方もありえると思うが、高村氏の資質からすればやはりハードボイルドと呼んでおくのが正しいような気がする。

 にしてもだ。こういう褒め方は嫌いだが、この「ページをめくりはじめたら止まらない」感はただごとではない。高村薫氏には改稿癖があり、しかも改稿すればするほど、文章が端正になるかわりに物語がつまらなくなってしまう傾向がある、と福田和也氏は言うが、大幅な改稿が施されたという文庫版でさえ、この止まらない感である。
 いやあ、なにがページをめくらせるのだろうな。
 筋立てが面白いというのはもちろんある。文章の歯切れがいいというのももちろんだ。だが、一番の要因は、現在起きている事件の底から、常に立ち揺らぐようにしてほの白く顔を覗かせている「過去」を、はっきりと見たいという僕たち読者自身の欲求ではあるまいかと思う。
 読んでいて、ある作品を思いだした。GBAの『逆転裁判』シリーズだ。
 どこがどう似ているのか、と訝しむ向きもあるだろうが、似ているのだよ、これが。特に「1」の4話目と「3」あたりか。

 まず、過去の事件「A」が読者(ユーザー)に提示される。この事件については、一応の決着は着いているものの、全容が明らかになっているわけではなく、真相は明らかとなっていない、と言ってもいい。これが喉にかかった魚の骨のように、ちくちくと読者の意識の底に引っかかり続ける。そのように書かれているのだ。特に『マークスの山』では、そうした過去の事件が何層にも重なって提示されている。
 そして現在に時がいたり事件「B」が起きる。『マークス』ではすでに犯人が示されているが、『逆転裁判』においても、明示こそされないものの、犯人はおよそユーザーにすぐわかるように作られている。
 怨霊のように立ち現れて、現在を生きる当時の事件の関係者に「過去を忘れるな」とささやきかけ、あるいは贖罪を求めて死をもたらす過去の事件「A」、および、その化身としての犯人。
 結果としてもちろん、現在の事件の解決は、過去をすべて白日の下に晒すことと等号で結ばれる。
 『逆転裁判』はゲームなので、そこにカタルシスを設定するため、倒すべき犯人が過去を隠蔽する張本人となっている。犯人の隠蔽を突き崩し、真実を手に入れる爽快感。

 その一方で、小説である『マークスの山』を名作にしたのは、犯人が二重人格的な精神病を病んでいるという設定の妙だ。この設定にすることで、過去の事件の真相を、読者から隠蔽し、同時に犯人からも隠蔽する。一方で過去の事件を知るものは、現在の事件の全容を知らない。
 ただ漠然とした抽象的な「過去」が、「暗い山」という隠喩の姿を借りて亡霊として浮かび上がる。
 『逆転裁判』にはない不気味さのようなものをこの小説に感じた人がいたとしたら、その正体はこの茫漠とした謎の総体が、犯人という依代を伴っていない構造にあるのではないだろうか。
 もっともその一方、福田和也氏が指摘するように犯人が犯人であるための必然性、およびその動機づけについては、あまりに脆弱な部分があることも事実である。強いて言えば、ふとした偶然から真実を「知ってしまった」犯人が、過去の亡霊にとりつかれ、たたられたのだとも言い得ようが、過去の事件を知って、どうしても犯罪に駆り立てられねばならない必然性はこの犯人にはない。

●ヤオイ趣味と女性嫌悪


 蛇足ながら付け加えると、しばしば指摘される高村氏の同性愛趣味、と言うかまあ、ヤオイ好き(実際に肉体関係に及ばないまでもそれっぽい設定にはことかかない)は本作でも健在で、綿密に描写される警視庁のアクの強い刑事たちの関係性は、そういうのが好きな女子ならいくらでも盛り上がれそうである。もっとも美形があんまり出てこないので、意外と盛り上がらないのかもしれないが、互いにライバル心むき出しでありながら、同じチームの一員でもあり、みたいなのは、王道と言えば王道だろう。
 でまあ、それはどうでもいいと言えばどうでもいいんだけれども、犯人の庇護者というか身元引受人というか、そういう役どころの真知子についての描写を読んでいると、この人のヤオイ好きというのは、実は近親憎悪というか、真知子みたいな女性が嫌いだ、という感情に端を発しているのかなと感じられて興味深い。これ、乃南アサ氏とかだったら、絶対にこんな意地の悪い書き方はこのキャラに対してしないだろーな、と確信をもって言える。

 あいにくマークスはいるさ。この女はそうと気づいているのに、自分に言い聞かせるように嘘をつく。おおよそ医療施設と言われるものの単純な不実や無責任を、心ならずも証明するような顔をして嘘をつく。怯えながら語気を強め、何のために自分自身を騙すのか知らないが、とにかく自分と相手の男の双方に嘘をつき、そのくせ頭では分かっている不安をその目にあらわにして覗き込んでくる。
(上巻p.222より)


 マークスの心理描写ではあるけれども、真知子の内面の真実を仮借なく言い表している。
 これを読んでいるとたとえば、下巻で、刑事がマークスと同棲していた真知子に次のように問う場面での真知子の台詞が生きてくる。

「水沢は、そのデイパックを毎日持ち歩いていたのですか」
「そうです」
「中に何が入っていたか、ご存じですか」
「知りません。いくら一緒に住んでいても、私、人の持物を覗くほど落ちぶれてません」
(下巻p.205より)


 真知子は水沢が犯人だとは思っていなかったかもしれない。でも、彼の中にマークスがいるのかどうかは不安に思っていたわけで、これは真知子が「プライバシーを侵害しない」という立前のもとに、知りたくないことからは目を背けていたことを真知子自身が告白している場面なわけだ、もちろん、真知子自身もなかばその立前に騙されながら。
 この少し後で真知子は、水沢が正常な精神状態になかったのだから彼に責任はなく、彼を入院させなかった自分の責任だ、というようなことを言うけれども、実はそれどころではなく、真知子がマークスの存在についての疑問をそのまま追求していれば、何人かの犠牲者は助かっただろうし、また水沢も助かったであろう、というくらいのことは言われていい。
 解説の秋山駿氏は、なんだか無邪気に「彼女の『愛』が、殺人事件を主題にしたこの作品に、救いをもたらす。いかなる留保もなく、『女は、ありがたいものだ』と感ずる。」と言っているけれども、高村氏の意図は100%そこにはないと思う。
(2005.6.13)


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地を這う虫
 (文春文庫
  1999年5月刊   原著刊行1993年)
 数年前に、たしかNHKでドラマ化されたのをおぼろげに記憶する。「マークスの山」もNHKだったかな。
 妙にNHKが高村作品をドラマ化をしたがるのは、彼女の作品が持つ一種の通俗味による部分がおそらくは大きい。かつて、僕の師の一人は、「ロシア文学なんかを割ときちんと読んでる人じゃないかなと思うね」と評したが、そういう重厚さが文章の端々から匂い立つのはたしかである。が、その一方で福田和也は「社会問題への切り込みは称賛に値するが、その作品世界は存外に平板で、冗長」「作者の人間観が存外に浅い」と『作家の値うち』の彼女に対しての評で述べており、たしかにそう言われると思い当たる節は多い。
 ちなみに福田の『作家の値うち』では、本作は点数をつけられてはいないが、「コラム4:通俗的であるということ」で、一定以上のクオリティを持ちながらまったく類型的な人物描写の例として引用されている。そうしたシーニュと化した結構を、福田は「通俗」としているわけだが、それは一応妥当であるにしても、福田が高村薫という作家自身への評を長く書いていることからもわかるとおり、彼女が現代小説界において重要な人物であることもまた事実である。
 さて、そうした定型的な主人公たちが自らの地味な生活の内側で事件と向き合い、一応の解決とともに悔恨と矜持がほのめかされるという本書に収められた作品群は、非常にNHKがドラマ化するのに都合がよろしい。主人公が描き出す定型は、そのままNHKの想定視聴者像となり、そうした「身近な」主人公が悔恨と矜持を見いだすという結構は、いかにも「ためになりそう」な代物である。
 しかし残念ながら、本書に収められた4つの短編でもっとも面白いのは、ドラマ化されなかった唯一の作品「父が来た道」であり、そのことがNHKのいやったらしいオヤジ受け狙いの姿勢を如実に表していると言える。(もっとも、面白いと思ったのは僕個人だから、如実に表されたのは僕の性格の暗さかもしれない)
 僕が「父が来た道」を面白いと思ったのは他でもない、裏方・日陰者を主人公とし、彼らの生態を道具立てとしてテーマを語っている本書の4短編の中で、その「裏方」というものの本質にもっとも迫っているのがこの作品だからである。
 竹下登か宮沢喜一あたりをモデルにしたとおぼしき「政界の黒幕」の運転手である主人公は、黒幕のための選挙違反で刑務所に入っている父と、政界スキャンダルの中でしたたかに泳ぎ回る黒幕とに対する不信・理解不能にを感じつつ、市井のささやかな生活に一種のあこがれを抱いている。なんやかやの末に、主人公は結局、裏方としての生き方に蠱惑的な誘惑を感じる、という筋立てになっている。
 本作では、他の作品には多少とも存在しているような派手さはないが、しかし、裏方としての生き方が、ある種の矜持をもたらすと同時に敗北でもあるという見方を提出している。
 そこにはたしかに、福田が言うように人間個人に対しての関心は薄いのだが、その代わり、あらゆる人生をいくつかのシーニュで区分けして、それをひとくくりに見たときに浮かび上がってくる問題へ目を注ごうという意志はあるのではないかと思う。もっとも、それが文学ではなく、むしろ政治のあり方であるという点は避難されてしかるべきであるかもしれない。こうした姿勢は、一時、筑紫哲也のニュース番組などで、猟奇事件へのコメンテーターを引き受けたりしていたことと、あまり無関係ではないと思う。
(2001.10.11)


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