高田衛 |
『新編 江戸幻想文学誌』 (ちくま学芸文庫 2000年6月刊 原著刊行1987年) |
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ちくま学芸文庫の中の一冊で、上田秋成、建部綾足、山東京伝らの近世文学、それも怪談あるいは幻想文学についての研究書です。 …面白くはあったけど、これはやはり研究書だよなぁ。ということは、こちらもそれなりに態度を改めて、取り上げられている問題について述べるべきところなのですが、残念なことに、近世文学についてはおっそろしく素養となる知識が乏しいので、なかなか的確なことが言えないとは思います。一応、前置きということで。 研究書としてのスタンスということで言いますと、割に主観が勝ったというか、傍証として他の先行論文を引っ張ってくるという手続きを最小限にとどめて、解説の高山宏氏の言葉を借りるなら「表現者に自ら限りなく同化しようと決意した」ところに特徴があると言えるでしょう。 それがどういうことかというと、全体を通しての基調であるためになかなか適当なところを引っ張ってくるのが難しいのですが、例えば次のような箇所。 「よみの巻」の、夢語りの趣向というのは、ほぼ以上のようなものであった。私の紹介の真意は、過剰解釈ぎりぎりの線までいっても、この夢の論理を、白昼の光のもとにさらすことにあった。(p.122「物語の再生と夢語り」) すでにこの筆者の言葉自体が、論のスタンスを明快に物語っているように思えますが、綾足の「西山物語」について、その後半部分を「夢」というキーワードから読み解き、そこに貫かれた「夢の論理」を導き出そうという試みについて語った部分であります。 江戸期のことなので、同時代評や作者の随筆などの資料には乏しい。その中で、作品を貫いている、時代的な影響をもその背景に持つロジックをレントゲン撮影をするように引っ張り出してみようというのは、もちろん、必要な研究でもあるし、相応の手順はあるとしても、これはやっぱり手を出すのが怖いものがある。僕なんかからすれば。 「自由」を得たとたんに、その声はもはや現実界に疎通し得ないという凄惨な事実が、ここに語られているように思えてならないのである。(p.140「狂蕩の夢」) 怖いというのは、そこにおのずと、どこまで己の裁量で解釈を押し進めるか、という問題が深く関わってくるためで、この「思えてならない」といったような研究者の解釈こそが、X線を照射した結果として見えてくるからに他ならない。そして、どこまで研究者個人の推量を頼りにしていくか、というのは、学問的な厳密さとどこまで離れていくことを許すのか、ということとイコールだからに他なりません。つまり、高田氏自身も言うように、過剰解釈ぎりぎりの線なのだろうと思うんですね、この本に書かれているあたりが。 「ここに語られているのは、これこれの資料から、こうだと措定して間違いない」とは決して言えない。「こうした資料もあり、こうした資料もある。そこから敷衍すれば、ここに語られていることもこうだと思われる」としか言うことのできない領域というのは、扱う側からすればなかなか怖い。 実際、読んでいて、「そこまで攻め込んで解釈するのか!」と驚くことは決して少なくありません。下調べ自体は十分になされているであろうにもかかわらず、そうして得られた地平から、さらにものすごい距離を跳躍して、ひとつの推論を引きずり出してくる。 本書に限らず、良い論文の面白さというのは、知のアクロバットとも称される、この種の跳躍の部分にこそあるのですが、それにしても、本書の跳躍は大きい。 僕が、例えば、近世文学について論文を書くにしても、本書に収められている論文をひとつの下敷きとして使うのは、なかなか勇気がいるだろうなと思います。 実際、解説などでも述べられていますが、こうした手法は、現代の文学研究の主流からは外れていると言えるのではないでしょうか。少なくとも、近現代であれば、うーん、論自体がかなり精緻なので、相手にされないとまではいかなくとも、実証不足の声は、もしかするとあるかな、と思います。 そう思って読んでいくと、高田氏もちゃんと予防線を念入りに張っていて、そういったある種メタな読み方も面白いのですが。 内容として読み応えがあったのは、上田秋成や建部綾足の、「幻語」あるいは「夢語り」の構造を解き明かそうと試みた部分でしたが、もうちょっと下世話に面白かったのは、「八犬伝」などの大男と美少年のコンビに、江戸期の市民達が衆道的なエロスを感じていたようだとする指摘ですか。 本書の論自体はもうちょっと深いところまで突っ込んでいますが、まぁ、こういうのは今も昔も変わらないというか何というか。 江戸期の幻想文学・怪談の流行について、というのが、ひとつ深いテーマで流れていると思うんですけども、ここらへんを、養老孟司氏なら、「脳化社会とそれへの身体性の反発」といった形で、上手く説明してくれそうにも思います。さきの衆道的エロスにしても、どうもその裏には、日本の衆道の伝統というだけでなくて、何か江戸市民たちを妄想の方向に駆り立てるベクトルがあったのではないかと思うんですね。それを単に脳化とその反発という形で説明しきることができるのかは、今は問わないことにしますが。 少し話がそれました。しかし、江戸期の怪談から、創作理論や作家論まで話を突き詰めていけるというのは、今見るとなかなか新鮮でもあり、また、熱い部分でもあります。 (2002.12.4) |
高田衛 |