高橋敏 |
『江戸村方騒動顛末記』 (ちくま新書 2001年10月刊) |
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高橋氏の著作では、以前に岩波新書の『江戸の訴訟 -御宿村一件顛末-』というやつを読みました。いや、これが面白かった。 何が面白かったか。「村での事件を発端とする訴訟」という、一見すると堅苦しい小さな事件から、歴史の生の姿を取りだし、それが歴史小説に変質する、その一歩手前まで推理力を働かせて、その生の歴史を動かして見せてくれた、という点であります。 その手つきの精妙さと大胆さ、そこから現れる江戸時代の別の一面は、とてつもなくスリリングな論考を可能ならしめていました。 さて、同様に江戸時代の訴訟を取り扱った本書についても、ですから、僕は同様のスリリングさを期待したわけです。 ところが、良くも悪くも、この期待はちょっとばかり当てが外れました。 今度の訴訟は、江戸の近隣、今の世田谷区に位置する宇奈根村という村で、有力な百姓たちが、名主の不正を訴えることから始まります。この宇奈根村は、幕末の安政の大獄で有名な大老・井伊直弼を後に輩出する雄藩、彦根藩の飛び地領に当たるのですが、訴え出た百姓、源右衛門は、この世田谷に赴任してきている代官を飛び越えて、彦根藩江戸屋敷へと越訴しました。 そう書くと、講談などでも有名な義民佐倉惣五郎、子別れの段、といったお話が頭に浮かびそうですが、それはこの源右衛門の時代よりもずっと以前の時代だからこそ成立したストーリーでありまして、文政の世に生きる源右衛門とその一派は、なかなかしたたかでありました。 「この訴えを取り上げなければ、寺社奉行などの公儀や、他の雄藩などにも訴えを出すぞ」という素振りを見せ、彦根藩が訴えを真面目に取り上げざるをえないよう、いわば脅迫まがいの手段を使って訴えを強引に成立させるのです。 というのも、この訴えは、以前に世田谷代官に届け出られ、かつ名主と親類筋に当たる代官によって、うやむやに源右衛門の敗訴という決着がつけられた訴訟のやり直しといういわくつき、いわばリベンジマッチであり、源右衛門としては今度こそ負けられないという事情があった。そこで策を練り、準備万端に越訴へと踏み切ってこれを成立させ、ついには勝訴を勝ち取って名主・代官を失脚させるにいたるのです。 ところが、これはまた、勧善懲悪的な「良い百姓と悪い名主」という物語でもない。 高橋氏は、この文政11年の訴訟について、その顛末を前半1/4程度で片づけたのち、源右衛門ら、主要な登場人物の人となりに始まって、宇奈根村の地勢と歴史、江戸と宇奈根村との関係、この訴訟を可能にした江戸時代のシステムの変容など、訴訟のバックにあるものについて、つぶさに検証していきます。 そもそも、有力ではあるにせよただの百姓に過ぎないはずの源右衛門が、どうしてかくも綿密な計画を立案できたのか。名主の不正とは言いながら、その不正を知るには帳簿上の計算も出来ねばなりません。江戸屋敷へ行って計画を滞りなく実行に移すには、江戸での活動拠点や金子も必要になれば、江戸の地理にもある程度は明るくなくてはならない。 この源右衛門、そうした種々のスキルを持ち、また百姓でありながら、御三家尾張藩の材木を取り扱う商人でもあったようなのです。それどころか、小泉源右衛門政房という名字付きの別名まで持つに至っています。 士農工商の峻烈な身分制度が民衆の一生を支配し、大名行列の前に訴状を掲げた悲壮な覚悟の百姓が飛び出すも越訴の禁を犯したとして切り捨て御免、といった、歴史の授業や時代劇などで覚えた知識とは、ずいぶんと毛色の違う百姓源右衛門の人となりです。 高橋氏は、文化文政期の江戸の身分制度について、61ページ、源右衛門について語った箇所ではありませんが、こう語ります。 「江戸には武家株売買の市場まであったのであるから寅吉が御家人株でも買ってどこからか系図巻物を手に入れてれっきとした徳川様につらなる由緒ある北条頼四郎だと騙ったところで不思議はない。建て前さえ整えれば身分間移動が自由であり、人々の前歴前科まで何でも包み込んでしまう江戸という巨大なブラックホールが控えている近郊の武州の村々ではよくあるケースであったかもしれない」 僕は、歴史そのものについてはいささか疎い方でありますが、これはなかなか斬新でもあり、また面白い見方ではないかと思います。人によっては、こんなのは当たり前だと言う人もおられるかもしれませんが、これはやっぱり僕にとっては面白い。 考えてみれば、あれだけたくさんの住人がいて、いくら宗門人別帳が整備されたとは言っても、全員の来歴を幕府が掌握して揺るぎないということなどありえません。ましてや、戸籍類のシステムが充実した一方で町民文化が花開いたとなれば、庶民の間にも、この手の戸籍類のシステムに通暁した人物がいておかしくない。ということは、ツテと金さえあれば庶民にもシステムの裏を点くことが出来たということを意味します。 こうした、江戸の隠された顔をうかがわせてくれるというのは、やはり秀逸であります。前半で大きな動きがひとまず片づいてしまうこともあり、「江戸の訴訟」にあったような、歴史の生の姿を探偵となって追いかけるといった推理小説のようなスリリングさこそありませんが、歴史の実情を構造の面から検証していくことによる、別種の興奮は味わえるのではないでしょうか。 ひとまず、源右衛門らの勝訴として一件落着したかに見えた名主の追い落とし訴訟は、その後、本書のラスト1/4で再びくすぶりはじめ、新たないさかいの火種を宇奈根村にもたらします。 これには、源右衛門と名主との元からの確執や源右衛門家の事情といった様々な要因が絡んでくることになるのですが、そのへんの経緯については、ここで語るのは蛇足というかネタバレというものでしょう。 いずれにせよ、これはいわゆる郷土史といういささか危ういジャンルの上に立脚しつつも、化成期の江戸というシステムの一面をうかがわせてくれるという意味で、オススメの一冊ではあります。 (2002.8.19) |
『江戸の訴訟 -御宿村一件顛末-』 (岩波新書 1996年11月刊) |
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さて、この本、紀伊国屋で手に取ったときには「ああ、ひょっとすると、あんまし面白くないかも」という危惧も無いではなかったことを記憶しています。 なんせ「江戸の訴訟」ですから。タイトルが。 一見して、もしかすると、おかたーい、歴史考証一本やりの内容かなー。とか、思うじゃないっすかっ! でも、違いました。歴史学が歴史文学になる一歩手前の、生な歴史の姿を見せてくれる、刺激的な内容で、「カンを信じて買って正解!」の面白い本です。 事件は、御宿村という小さな村の百姓、源右衛門宅に、突如として20人ばかりの凶賊が押し入り、この家に居候していた1人の無宿者を殺して逃げ去ったことに端を発します。 無宿者、というくらいで、要は、彼らは、御上の定めた戸籍から外れてぶらぶらしているアウトローです。小学校・中学校で習ったとおり、江戸時代というのは法の整備が進んだ社会ですから、そういう連中については、家に泊めてやることも禁止されている。 そんなのが、どうして一介の百姓の家に居候していたのか。そしてさらに、どうして命を狙われたのか。 ともあれ、事件が御上にばれると、無宿者を家に泊めた源右衛門一家は勿論のこと、五人組、名主と、連帯責任で処罰されます。村では源右衛門を出奔させ、居候の無宿者を住職のいない寺に埋めてもみ消しをはかりました。 が、やくざ(ナントカ一家、ってやつです)同士の抗争が激化し、そのやくざを御上が鎮圧していく中で、源右衛門宅に押し入った連中もとらえられたのでしょう。 村に、御上からの召喚状が届きます。刑事裁判の始まりです。 名主である吟右衛門は、村のもう1人の名主甚平や源右衛門の父親、その五人組仲間らと共に江戸に出かけ、時にじっくりと呼び出しを待ち、時にツテを辿って幕府内で顔の利く人間に賄賂を贈ったりなどして、とにかく一刻も早く裁判の決着をつけてもらうよう、動き回ります。 なにしろ、彼らが江戸に泊まっている間の費用は、村で出さねばなりません。この1件でも、最終的には241両、今の金額に直せば2500万円あまりの滞在費がかかっていることになります。 無宿者を泊めた源右衛門は出奔していて行方が判らないのでお咎めなし、その周囲の連中なら重罪にはなりませんから、罪は罪として認める。そのかわり、とにかく早く村に帰してくれ、というところです。 働き手が江戸に出たままでは田畑の手入れもままならないですし、1日江戸にとどまれば、それだけ滞在費はかかりますから。 で、この間の吟右衛門さんの奮闘が、とにかく面白いです。 はじめはおとなしく宿で待っていたり、江戸見物なんかもしてるんですが、次第に、裏側での賄賂工作というか、まぁ、もうちょっと悪意のない、いわば働きかけですね、そういうのが頻繁に、大がかりになっていく。 それだけ顔の利く知り合いが、どうしてただの村名主の吟右衛門さんにいたのか。どういう風に働きかけが行われているのか。 そういう、いろんな疑問だとか、吟右衛門さんの足取りだとかを、著者である高橋氏は歴史学の専門家らしく、各種資料に当たり、かつ、想像力で資料の記述にない部分や、記述に矛盾がある部分を補いながら、丁寧に辿っていくわけです。 こういうのをスリリングって言うんですよ。 歴史小説を書く時というのは、まず史的資料を当たって資料的な事実を確認して、その後、資料だけでは補えない部分を推理し、そこから小説としての再構成を行うという、3つの段階を踏まえるのが正当なやり方です。 (単純に歴史の時代背景を借りただけの小説、例えば鞍馬天狗であったり、机龍之介であったりとかってのは、「歴史小説」とは呼ばずに「時代小説」とか言うでしょ。このへんのカテゴライズは、ちょっと曖昧な部分もあるんだけど) つまり、この「江戸の訴訟」から、もう一歩進むと、歴史小説になる。そのギリギリのところで筆を止めているところが、鴎外の史伝と共通する面白さを持ってると思うんですわ。 推理小説が好きな人なら、資料から真実を推理する面白さって言えばわかってくれるんじゃないですかね。 とにかく、知的作業の持つスリルを、たっぷり味わえます。 お奨め。てゆーか、強く推奨。 (1998.8.20) |
高橋敏 |