山口瞳 |
『わが師わが友』 (河出書房新社 2004年5月刊) |
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●説明のうまいひと物事を簡潔にまとめて説明するのがやたらにうまい人、というのがいる。 僕も含めて、たいていの人はそうはいかない。うまく説明ができるのは自分が専門にしている分野とか、常日頃から慣れ親しんだ事象についてだけで、そうでないもののことを説明せよ、といわれたって、あっちで突っかかり、こっちで枝葉末節に入り込み、本筋の説明がまるでできなかったりする。 それは、僕はやむを得ないことだと思う。世界というのはそうそう単純には出来ていないからだ。末節のことであっても、それが曲がりくねって本筋のどこかに重要な影響を与えていたりする。どこにも何の影響も与えていない末節、などというものはあんまり存在していないし、またそうそう存在してもらっていては困る。 山口氏も、このやたら説明のうまい人の範疇にはいる書き手だったろう。本書は、山口氏が生前に執筆したエッセイで単行本未収録のものを編んで、交友録的なエッセイ集に仕立てたものだが、交友相手の人となりを短い文章でスパッと表現するところに妙味がある。 ●「シマッタ、シマッタ」たとえば、ドイツ文学者である高橋義孝氏(この人の論文を僕は卒論で一部引用したのだった。懐かしい)について書かれた「シマッタ、シマッタ」である。 書き出しは「高橋義孝先生から、どれだけ高価なものを戴いたか、ちょっと一度には思いだせないくらいの数になっている。」という一文から始まる。そして、高橋氏が決して裕福なわけではないことを申し添えた後、高橋氏自身の言葉として次のような言葉を引く。 「人に物をあげた瞬間にシマッタと思う。あとあとまで後悔する。惜しかったと思う。しかし、後悔するような品でなければ人様に差しあげるわけにはいかない。きみにあげたものだって後悔しているよ。それが当たりまえじゃないか」 (p.54-55より) この高橋氏の言葉もいい言葉だと思うが、これだけでおよそ、高橋義孝という人の人となりが伝わってくるのがすごい。「それが当たりまえじゃないか」の締めくくりがきいている。 高橋氏と山口氏のつながりは、山口氏がまだサントリーの宣伝部に入る前、河出書房で編集者をしていた頃にさかのぼり、その後も長く続いたそうで、互いによく知った間柄ではあったのだと思う(本書にも高橋氏について書かれた文章は多くおさめられている)が、しかし、端的にその人の性格を表すようなエピソードをポンと抜き出してくるというのがそう簡単なことでないのは、多少文章を書いたことがある人間ならわかることだろう。いや、むしろつきあいが長いだけ難しい部分も出てくるのではあるまいか。 ●その説明を信用するかだが、こうした鮮やかな手並みにもかかわらず、というよりはその故に、僕は山口氏の文章にあまり信をおきたくないような気がするのである。 説明がうまい人にはいくつか種類があるだろう。まずひとつは、物事の本質を見抜くのに長けた人である。次に物事に筋道を立てるのがうまい人である。みっつめに、自分が説明したいところだけを抜き出して悪びれない人である。 山口氏がどれにあたるのかは知らないが、まあおよそふたつめかなという気はする。本質だけを抜き出して説明する人というのは作家には少ないし、以前に読んだ文章でも、たとえば田中角栄を批判した文章では「こうしたことは説明してわかることではないので、この例でわかる人にはわかるしわからない人にはわからないであろう」というようなことが書いてあった。こうした説明のしかたは、本質そのものズバリではないが、そのものズバリよりもより芳醇な意味合いをもつことがある。 みっつめはまあおよそ論外と言っていいようなものだが、世間に一番多いのはこのパターンであることは誰しも知るところであろう。 山口氏がみっつめではないんならいいじゃないかと言われるかもしれないが、そうもいかないのである。人間というのはそう単純ではなくて、みっつのパターンのどれかひとつにだけ長けていてあとはさっぱり、という人はいないものだ。逆にそういう人は普通、説明が下手だと見なされているのかもしれない。 山口氏にしても、もっとも素養として顕著なのはふたつめだと思うが、本質を見抜く目も備えていなければ、上の高橋氏の紹介のように適当なエピソードを抜き出してくることは難しいし、都合の悪いことにはひとまず目をつぶる、ということもある程度はできないと、枚数の決まった週刊誌の連載など何十年も続けられるものではない、と思うのである。 ●説明という芸山口瞳という書き手を褒めたいのか貶したいのか、と問われるかもしれないのでひとつはっきりさせておくと、この文章は基本的には「褒め」のスタンスで書いているつもりである。ただ、何において褒めるのかをはっきりさせておかないと勘違いを招くと思うのでこういう書き方になっている。 とどのつまり、ある人間を紹介するというのはそうたやすいことではなく、あえてそれをするなら、それは一個の人間をあるキャラクターのもとにおとしこんで描き出すということに他ならないのではないか、と僕は思っている。それはつまり、省いていいような枝葉末節は省いて、できるだけその人の個性の際だった部分を描き出すということだろう。 いささか構造主義的な見方にはなるが、「書き手の目に映った対象人物」というフレームを了解した上での芸が交友録ということになりはしないだろうか。だからそうした芸だと了解した上で、であれば、本書はとても魅力的な読み物だというふうに言うことができる。 ただ、本書に描き出された人物の人となりについて、そのまま彼はこのような人物なのかと了解し、信用するのか、ということであれば、それは否なのだ。うっかり信じると、他の、もしかしたら読んでいる僕自身にとってはもっと重要かもしれない事柄については説明のないままで、わかったつもりになる可能性がある。 「説明がやたらにうまい人」の説明には、いつもそうした危険がつきまとう。それを了解しておくのは、芸を見る側にとって最低限要求されるマナーのひとつでもあろう。 (2006.12.31) |
『巷説 天保水滸伝』 (河出書房新社 2004年1月刊) |
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●「天保水滸伝」と言えばって言われたって「天保水滸伝」と言えば浪曲や講談でおなじみ笹川繁蔵一家と飯岡助五郎一家の大喧嘩、と書き出すつもりでいたが、実際書いてみるとちっともおなじみじゃないので困ってしまった。そもそも浪曲講談を聴かない。聴かない僕でも演目の名前くらいは知っているから、有名な話であろうことはわかるけれども、中身を知らないから笹川飯岡の名前を出されたところでさっぱりだ。多分、僕と同年代では、ほとんどの人は僕と似たり寄ったりなのではないだろうか。 同じように浪曲講談でのおなじみどころというと、たとえば「忠臣蔵」がある。これは僕でもそこそこちゃんと筋がわかる。「頃は元禄十五年…」という語り出しの文句すら知っている。「国定忠治」もわかる。「赤城の山も今宵限りか」である。赤城といえばリツコ博士、という僕でも、その台詞くらいは知っている。 講談の演目としてはおなじみのものだったはずの「天保水滸伝」の、この没落ぶりはいったいなんなのだろう。 ひとつ思いつくのは、「天保水滸伝」はもう長らく、映像化されていないという事実だろう。戦後少しして邦画が隆盛を迎えたころには何本か映画が撮られたようだが、1976年のものを最後に映画化はされていない。テレビドラマだとどうかわからないが、少なくとも僕は見たおぼえがない。今でも3、4年に一度くらいは大晦日近くにテレビで撮り下ろしのドラマが放映される「忠臣蔵」と比べると、この頻度の差は大きい。 そういう意味では「国定忠治」も似たようなものであるはずだが、「国定忠治」の場合は、舞台の真ん中に親分が刀をかざしていて両脇に子分が2人しゃがみ、背景は寂しい山中、頭上に名月、という大衆演劇的な名場面があるせいか、それほど「見たおぼえがない」という気はしない。ちなみに僕の記憶の中での「国定忠治」は、「キテレツ大百科」におけるそれであることも申し添える。つまりまあ、子ども向けアニメで登場しても、それが大衆演劇のシーンだってのがわかるくらい記号化されてるわけだ。 「天保水滸伝」にはそういう、皆が共通して思い浮かべられるようなイメージがない。「利根の川風 袂に入れて 月に棹さす 高瀬舟」と言われると、何となく覚えがあるような気もしなくはないが、本当に聴いたことがあるのかどうか、それは怪しいものである。 そんなわけで、「天保水滸伝」自体の説明を最初にしておく。前フリながっ! ●正義の笹川・悪の飯岡「『天保』水滸伝」と言うくらいで、頃は江戸も末期にさしかかった天保期である。千葉県の東庄地方に2人のヤクザ者がいた。笹川一帯を仕切る笹川繁蔵は、もとは力士崩れという居丈夫。一方港町の飯岡には飯岡助五郎という親分がいて、夜は賭場を仕切る一方で昼は岡っ引きとして十手を預かる身でもあった。 両者の勢力が拮抗するにつれ、衝突が起こる。これが天下分け目になるかと思われた世に名高い大利根河原の大血闘では笹岡繁蔵方が圧勝。しかし飯岡方は岡っ引きの身分を利用してお上を利用し、笹岡方をひとたびは解散させる逆転劇を演じる。 数年後、再び笹岡に戻ってきた繁蔵は、再起をはからんとかつての子分を結集させ、その勢力はかつての勢いを凌ぐものがあった。無論、飯岡もこれを見逃さない。賭場帰りの繁蔵を闇討ちして、後の禍根を絶った。笹川と飯岡の大戦争はここに幕を閉じるのである。 さて、ざっと筋を書き出してみてもわかるとおり、笹川飯岡の大喧嘩、などと呼ばれはするものの、主人公方はどう見たって笹川繁蔵である。飯岡助五郎は、ヤクザでありながら警察権力と癒着し、負けそうになると警察権力を使って笹川を潰し、繁蔵を暗殺まがいの手で殺した憎いあんちくしょう、ということに一般的にはなっている。 まあね、講談浪曲というのは、色々あるけれども詰まるところは人情噺であるから、一方に肩入れした構成になるのは仕方がない。義理と人情にあふれた笹川一家、という感情移入できる対象をつくっておいて、そっちに聴く方は思いっきり感情移入するわけだ。後腐れなし1回ぽっきりでぐわーっと入れこんで、勝負に勝ったのに試合に負けた笹川の悲運に酔うんですね。 結果的に飯岡というのはものすごい悪党になる。ただ悪いというんじゃなくて、まあ、負けそうになるとお上に泣きつくなんていうのはヤクザ渡世としては姑息だ、風上にもおけない、ということにもなるわけです。 でも本当にそうなのか。飯岡助五郎にしたってこの地方で渡世人たちをまとめて取り仕切っていた男なわけで、人望だって厚かったからこそ一門を率いての大喧嘩ができた。飯岡方の事情を汲んだ視点を導入して、新たな天保水滸伝を構築できないか、というのが、山口氏の目論見であるらしい。 ●歴史のなかの「天保水滸伝」作品自体の成功失敗については、今しばらく措きたい。それはしばらく措いて、山口氏の目論見について考えてみたいのである。 まあ、おかなくったって、書き続けられなくなって未完に終わってしまったこの小説が成功作とはとても言えない、というのは誰が見たってあきらかではあるのだが、書かれている部分に関する限り、相当に面白いのもまた自明。したがって、目論見自体には見るべきところがあったのではないか、と思える。 目論見が正当であったかどうか、というのはつまり、飯岡側の事情を汲んで「天保水滸伝」を再構築する、ということが、どのていど実現可能であったか、ということだ。 これは実は、かなり実現性の高い計画だった、と思えるのである。 本作の序章である「飯岡港」から、山口氏の制作意図とおぼしい箇所を抜き出してみる。 どうして助五郎だけが悪人になっているのだろう。講談・浪曲、芝居・活動写真、すべてがそうなっていた。そんなはずはない。子供の時から固くそう信じていた。 (中略)何を見ても何を読んでも、私でさえもが助五郎を憎まねばならぬように描かれていた。二足草鞋。お上の権勢をかさにきる奴。ヤクザ稼業の恥さらし。 そんなことってあるだろうか。同じヤクザ同士の喧嘩じゃないか。どっちがいい、どっちが悪いということがあるわけがない。子供でも、ずっとそう思っていた。 (p.14〜15「飯岡港」より) 判官贔屓か、と思っていると、続けて山口氏の4代前の先祖である松坂屋仙造もまた、横須賀で二足の草鞋の親分をしており、当の飯岡助五郎自身が仙造の家にもよく遊びに来ていたらしい、という山口氏の個人的な事情があかされる。笹川飯岡の抗争の時には飯岡方の助っ人として斬り合いに参加したらしい、というから、かなり深いつながりなのだ。 でもそれは単なるきっかけであって、制作意図とはちょっと違う。なんとなれば本作は「飯岡方から見た天保水滸伝」ではなくて、「『どっちがいい、どっちが悪いということがあるわけがない』という視点から見た天保水滸伝」であるからだ。 山口氏の先祖もそうだったというが、当時、ヤクザの親分でありながら岡っ引き、という二足の草鞋の人物は、けっこうたくさんいたらしい。星新一氏も『できそこない博物誌』(…か、もしくは『気まぐれ遊歩道』だったと思う)でそんなことを書いていた。星新一氏はSFショートショートで有名だが、初期の頃には時代物のショートショートも数多い。 時代小説をよく読む人にとっては常識的なことがらなのかもしれないが、岡っ引きというのは、正式に江戸時代の警察機構の中に位置づけられているわけではなく、同心が個人的に雇っている助っ人である。現代の警察ものでしばしば見かける情報屋みたいなものだ。要するに、地域で情報に通じていたり、顔がきく、もめごとに顔を突っ込んでいける人間を、同心が手下として使うわけである。そしてそういう人間というのは、しばしばヤクザの中に多くいた。またヤクザの側にとっても、自分たちでどうにもならないほどもめごとが大きくなったとき、お上の権力をあてにできるという点において、岡っ引きを引き受けることのメリットもあったわけである。まさしく、飯岡と笹川との大喧嘩のような場合がそれだ。 したがって、飯岡助五郎の二足草鞋という身分については、当時のヤクザ社会の常識と照らして、そうあしざまに言えるものではない。喧嘩に負けたのでお上に頼った、というのは、まあ、講談にする際の脚色という部分がありそうである。そのあたりの事情を逆に脚色すれば筋は通るであろう。飯岡と笹川との喧嘩はすでに自分たちで処理できる揉め事の範疇をこえていた、とでもすればよい。 つまり、構想自体には無理なところは見あたらないのである。 そうして飯岡方の言い分を取り入れて山口氏が書こうとしたのが「どっちがいい、どっちが悪いということがあるわけがない」ヤクザ同士の喧嘩であったというのは、重要なポイントであると言っていいだろう。つまりそれは、実際の抗争事件を講談に仕立て直した「天保水滸伝」の世界を、もういちど歴史の中に戻し、一事件として描き直そうという試みだということなのだ。 この試みの意味するところなんていうのは、もう歴史観の問題になってきて、話が大きくなりすぎるので、ここで詳細に論じることはしない。しないけど、「飯岡港」の章でかなり詳細に論じられる日航機「もく星号墜落事件」のくだりなどとも考えあわせると、お仕着せのストーリーに乗っかって歴史上の事件を見るということへの異議申立、というくらいの意識は山口氏にもあったのではないかと思えるのである。 ●未完のライフワーク先にも述べたとおり、本作は未完に終わっている。 サンケイスポーツ紙上に連載された新聞小説なのだが、1966年に途絶して、山口氏が死去する1996年まで続きが書かれなかったということは、結局、手詰まりに陥っていたと見なしていいだろう。 未完に終わった理由として、山口氏は「時の流れを主人公にしようとしたためにテンポが遅くなった。それと、助五郎と繁蔵がどうしてヤクザになったかについて紙数をさきすぎたようだ。しかし、私としてはこう書くより仕方がなかったと言わざるを得ない。そういう意味での心のこりはない。」とあとがきで述べている。お互いの事情をそれぞれに汲むとすれば、紙数が増えるのはやむをえないことであり、お互いの事情というならそもそもヤクザになるまでの経緯についても筆を割かなくてはならないだろうという判断があったものだろう。 途絶のままに終わった事情としても、このペースで書き進めていくと、かなりの大作になってしまう、ということが見えていたために、書きはじめられなかった、という事情がありはしないか。 そういった点については、山口氏に戦略の失敗があったと見なくてはならないだろう。しかしながら前述したとおり、目論見自体が必ずしも失敗でなかったという証拠に、途絶した部分まででいうなら、本作は立派にエンターテイメントとして高い水準を示している。 かえすがえすも戦略面での失敗が惜しまれるが、山口氏が作家生活にはいって間もない頃の作品でもあり、もしかすると気負いみたいなものもあったのだろうか。 (2006.5.16) |
『旦那の意見』 (中公文庫 2004年7月刊 原著刊行1977年) |
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●文士の肖像表紙の折り返しに著者の写真が載っている。多分、40〜50歳くらいのころだと思うけれども、この人、ちょっと三島に似てるのな。 この人の写真を見るのは初めてだったなと思うとともに、そんな感想を持った。イメージ的には武者小路実篤みたいな、ちょっと小太りな好々爺然とした人を漠然と想像してしまっていたのだが、書いてる人の顔なんてのは読者の想像とおおむねかけはなれてるもんです。 ちなみに、この人はサントリーの角瓶のコマーシャルなんかにも出ていたことがあるらしいのだけど、それは多分見たことがないか、記憶に残っていない。まあ、僕くらいの年代だとそんなもんでしょう。 しかし余談はさておくにしても、こっちがそういう、好々爺を著者像として想像してしまうのには理由があるはずだ。 この人の文章をあんまりよく読んでいる方ではないどころかこれで2冊目をよんだところだから、あんまり大きなことは言えないんだけれども、この人、文章に毒がない。まあ、だからサントリーの宣伝部に長く籍を置いてたんでしょうが、何というか、読んでいて世間とか人間とかに対するルサンチマン的なものがあんまり感じられない。 でも、骨がないわけではないんだ。これが不思議と言えば不思議。 お顔の似ているような気のする三島は、もうルサンチマンというか、文学の毒が服着て歩いてるような人なので、顔は似ていても書くものは似かよらないのだなと、言わずもがなのことを思ったりもする。 僕は毒のない文章というのは、つまらないというか食い足りないと思ってしまう性質だけど、この人のはなんか面白いんだよねえ。 ちょっと余裕のある距離の取り方をしているのがいいんだろうと思う。高踏というわけでもないけど、あんまり真っ正面からがっぷりよつに対象と組むことはしていない。多分、そういうのを毒を持たずにやると品が悪くなるというふうに思っていたんじゃないだろうか。そういう上品さがどっかにある気がします。当人は、子どもの頃のあだ名が「冷血動物」だったと述懐しているそうだけど、上品さと冷徹さとはやっぱりちょっと違うもので、この人のは上品なんだきっと。 それがよく出ているのが、かなり長文の田中角栄論「下駄と背広」。読みごたえがあってこれは面白い。 ●品のある怒りちょうど僕の生まれた年である1976年に書かれたらしい「下駄と背広」には、「私小説的田中角栄論」というサブタイトルが付けられている。ちょうどロッキード事件のさなかでもあり、田中角栄氏への憤りがあふれてもいるのだが、これも正面きって怒っているという感じがしない。 サブタイトルの「私小説的」というのは、その怒りが私的なものであることを示唆している。私憤を公憤と履き違えない、というのもまた品のある立派な態度だと思うけれども、まぁ、そこらへんは末節だ。 田中角栄はうさんくさい奴だ、と山口氏は言う。それは、「くつろぐ田中角栄氏」といったキャプションで週刊誌などに掲載される写真が、背広に靴下のままで下駄を履き、屋敷の庭の池のそばなどに立っているといったものだからで、背広で下駄を履くような人間というのはうさんくさいのだ、と。 「こういうことは、わかる人にはわかるし、わからない人にはいくら説明してもわからないと思う。いや、これは、感覚的なものであり直感的なものであるのだから、自分でも、うまく説明することができない。ただし、一国の宰相がそれをやってはいけない。せいぜい、県会議員どまりであってもらいたい。」(p.307)と当人は言う。そう言われると「わからない」と言いづらくなってしまうのが人情で、僕もわかったフリをしてしたり顔をしたくなってしまうが、実際のところ、これは山口氏自身の個人的な直感である。そこらへんもまた私小説的だと言うことだ。 もっとも、本書を読んでいるときにはこの山口氏の個人的な直感が何となくわかった気になる。というのは、前段として冒頭に、大岡昇平氏の『俘虜記』が引き合いに出され、これからの世の中では(というのはつまり戦後のことだ)「あの狂人共がもういない日本ではすべてが合理的に、望めれば民主的に行われるだろうが、我々は何事につけ、小さく小さくなるであろう。偉大、豪壮、崇高等の形容詞は我々とは縁がなくなるであろう。」という一節に、山口氏が深い共感を覚えたことが記されているからである。 つまり、この一節を下駄で背広はうさんくさいというくだりに引き合わせたとき、背広で下駄を履くような人間というのは、「偉大、豪壮、崇高」ではありえないのだ、という了解がここで成立しているわけだ。その了解に対して同意するかしないかは読者の自由である。ちなみに僕はする方。 もうちょっと言葉にしてしまうと、「背広に下駄」が記号として表現するものは「この人は庶民的だ」ということだ。まだ家庭に下駄があって、作務衣とか浴衣にそれを突っかけるというスタイルが庶民的なお父さんのスタイルだったころのお話だけど。 下駄を履くなら和服に着替えればいいのにそれはしない。革靴が窮屈ならサンダルでもいいと思うが、それもしない。せめて靴下を脱げばいいのに、それさえしない。そこに山口氏は、その「庶民的」なイメージが、作為的に演出されている匂いをどうも感じているらしい。 ●許し難きは少しはしょりますと、田中角栄という政治家は、つまるところ戦後になって出てきた、抜群に頭が良く抜け目のない、しかし成功のために他人を足蹴にすることを悪いことだと思っていない、確信犯的一旗組であり、立花隆氏のことばを借りれば「土建屋の感覚で政治をする人」であると、山口氏は定義しているらしい。 一旗「組」というくらいで、そういう人は戦中から戦後にかけては少なくなかった。自分の父親と実によくイメージが重なると山口氏は言う。どこかしら憎めない庶民派であることは認める。その頭の良さも疑いない。 しかしそういう人に国会議員はやってもらいたくない。 こういうのはまさに「感覚的なもの」で、そう思わない人もいると思うけども、小泉さんが首相をやってる現状では、同意する人も多いかもしれません。あれはあれで問題がありすぎると個人的には思うけど。 しかし、要するに山口氏が許しがたいと思ったのは、その政治家としてはあまりに庶民的土建屋的すぎるというところよりも、その品のなさではなかったかとも思える。 政治というのは品のないものだというのが常識になってしまっている昨今ではあるけれども、まあ、山口氏が思っていたであろう「政治家たる者はこうあってほしい」みたいな部分は共感できる人が多いのではないかな。せめて国会議員には、品格とビジョンを持ち合わせた人物になってほしいというのは。それを偉大とか豪壮とか呼ぶかどうかはまた好みの問題でしょうが。 問題は、それを今の社会のシステムのなかでやろうとすると、小泉さんみたいなのになっちゃうということなのかば。どっか無理しないとそう高潔でいられないみたいなところなのかもしれませんが。 しかし話を山口氏の文章に戻すなら、「これはこうあって欲しい」というのを持っているのというのが、品のある、骨のあるところなのではないかと思えます。自分のなかに規範意識がある。その規範意識が現実には決して満足させられていないにもかかわらず、それが毒にならないのは、やっぱり不思議なわけだけども。 (2005.5.9) |
『江分利満氏の優雅な生活』 (新潮文庫 1968年2月刊 原著刊行1963年) |
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先日、サントリーのトリスが復活したとかで、トリスおじさんがひっさしぶりにバーに訪ねてくる、というCMを目にしたばかり。だから、というわけじゃないけど、「トリスを飲んでハワイへ行こう」のキャッチコピーの生みの親、山口瞳の代表作『江分利満氏の優雅な生活』など読んでみました。 いやあ、トリス、懐かしいですね。 …ごめんなさい、嘘です、生まれてないっつーの。 しかし、そんな僕でも知っている「トリスを飲んでハワイへ行こう」。ちょっとキャッチコピーばかりが一人歩きしている感はありますが、ある種、その年代を代表する商品であり、CMであり、キャッチコピーではあります。それを作ったというのは、やっぱりこの人は、いい意味で時代に添い寝するのがうまかった人なんだろうなと思うのです。 終戦の年である1945年から鎌倉で川端康成の家の隣に住んでたとか、サントリーの宣伝部で、開高健といっしょにトリスのCMを作ってたとか、文学的に恵まれた環境だったんだろうなというのをうかがわせるいろいろな逸話はありますが、この人の場合、そういうのをあんまり作品の上に出してこないですね。前になんだかの随筆で、川端に「のんびりしすぎている」とか言われてたという話を読んだことがありますが、たとえば、まだ20歳の頃の川端との交流は浅いものだったかもしれないけれども、同僚だった開高健との間には、いろいろな会話もあったはずで、そういうところからいろいろと影響を受けていてもおかしくないんだけど、あんまりそういう形跡が見つからない。 高度成長期を迎え、終戦後の焼跡から日本を復興させたと言いつつ、実際のところは別に高邁な理想があるわけでもなく、働かないと食べていけないからとにかく働いていたという、この時期のサラリーマンの姿をペーソスを込めて描いたとされる、この「優雅な生活」からして、それまでの文学の伝統とか、あるいは思想とか、そういうものからはかなり遠いところに軸足を置いているように読みとれます。 そして、その方が、時代の気分にマッチしていたということは言えるのかもしれません。 少し前に読んだ、石川達三の『人間の壁』とは、5年程度しか遅れていないわけですが、「人間の壁」の、佐賀の貧乏な先生達と比べると、江分利さんの暮らしぶりはずいぶんと明るい。 地方と都会という差はあるにせよ、あんまり余裕のある暮らしじゃないのは江分利さんだって同じことで、もっと惨めったらしさがあったっておかしくないんだけど、そうはならない。この明るさは、枯淡と言うべき性質の物かと思います。どっかで諦めているというか、書かれたのとだいたい同じくらいの時期に安保闘争とかが起きているわけですけど(厳密に言うと少し後ですが)、そういう、なんとか物事を変えていこう、とかいう空気は共有してないんですね。 世代の差なのか、それとも立場の差なのか。そのあたりはよくわかりませんが。 それぞれに歴史もあれば苦労もある、悩みもある。それでも、そういう重いものとは自分をいったん切り離して、満員電車で会社に向かい、会社の中での苦労とか悩みの中で、がんばってなんとかやってる。そういうサラリーマンの姿が、ある意味、やはり重い性質の思想とか文学とかとは、ちょっと離れた場所で描かれている。そこがいいんでしょう。 山口氏自身の職業をそのまま持ってきてるだけだけど、江分利さんの職業が、東西電機の宣伝部の人間だというのも、ちょっと示唆的です。実際の製品という重たいものがなければ意味をなさないんだけど、それとは全く別ルートでコマーシャルを作ってサラリーをもらってる宣伝部員というわけで、ちょっと暗喩的な部分もあるのかな、と。 いずれにしても、そんなに難しいことを考えずに読める本だし、それでいて、ちょっと心にしみるような部分もあるしで、そういうところが、割に万人にお勧めできるところなんでしょう。 (2003.4.15) |
山口瞳 |