養老孟司 |
『古武術の発見 -日本人にとって「身体」とは何か-』 (甲野善紀との共著) (知恵の森文庫 2003年2月刊 原著刊行1993年) |
|
●ふたつの入口とひとつの正解この本を書店で手に取るには、およそ大別してふたつの入口がある。 ひとつは養老氏への興味、もしくは解剖学的・唯脳論的視点からの身体観と古武術的視点からの身体観の出会いに対する興味から本書を手に取るルート。養老氏の10年来のファンである当方もこちらだ。 もうひとつは、古武術の研究家である甲野氏への興味、もしくは古武術そのものへの興味から本書を手に取るというルートだ。 ただし正解はひとつしかない。後者である。本書では基本的に養老氏が聞き役に回っているため、前者のパターンで本書を手にとっても、当初の読書目的は果たせないことになっている。残念でございました。 とはいえこれは、「だからこの本は古武術に興味がある人しか楽しめない」ということを意味しているわけではない。予期せぬ出会いがあって本書でもって古武術に興味を持ちました、という人がいるなら、それはそれで素晴らしいことだと思う。 古武術家の甲野氏は、巨人の桑田真澄投手が一時スランプから大復活を遂げた際に指導にあたったことで有名になった人物らしい。最近では、直接指導をしたわけではないが、陸上の末続慎吾選手だろうか。末続選手が2003年の世界陸上200mで、古武術の理論を取り入れた走法で銅メダルを取ったのはまだ記憶に新しいところだが、そこで取り入れられた「ナンバ走り」は、甲野氏が広めたものらしい。それを高野進氏が直接読んだのか人に聞いたのか、コーチングに生かしたということだ。 どうもさっきから「らしい」ばかりで申し訳ないが、野球にも古武術にもからっきし興味ないもんでご了承いただきたい。陸上は、むかし自分でもやっていたので、まだしもちょっと興味があるんだけど。 ●唯脳論的身体観と身体の消滅養老氏が聞き役に回るというのは、故なくしてのことではない。一節を引こう。 養老 ちょうどこの武道ができてくる、発達してくるという時代が、日本の文化の中から、どちらかというと、一般的には身体が消えていくという時代です。そういう意味で、武道がもっていた役割というのに、非常に興味があるんです。そういう歴史のなかで武道がどういう位置を占めていたかということですね。 さっき申し上げたのは、その結論だけだったんですが、どこの国だって、どこの文化だってそうだと思うんですけれども、身体がなくなるというのはたいへんにおかしな話で、ほんらいなきゃいけないわけです。 だから、身体に関する考え方なり扱い方なりというのが、ひじょうに洗練された形で、ほとんど武道のなかに集約されていったんだろうと思うんです。武道のなかには、一般の日本文化から抜け落ちていった身体に対するさまざまな感覚であるとか、あるいは思想のようなものが集約されて入っているような気がするんですね。 (p.28〜29 「プロローグ 古伝の”神技”を再現する」より) 養老氏の著作の中には、「我々にとって『身体』とは何か」というテーマで書かれたものが多く存在する。 氏の代表的著作である『唯脳論』にしてからが、テーマとしては近しいものをはらんでいるが、その中から上に引用した「身体性の消滅」に関連する部分を続けて引用する。 社会は暗黙の内に脳化を目指す。そこでは何が起こるか。「身体性」の抑圧である。現代社会の禁忌は、じつは「脳の身体性」である。ゆえに、一章で述べたように、脳は一種の禁忌の匂いを帯びる。禁忌としての「脳」という言葉は、身体性を連想させるものとして捉えられている。「心」であればよろしい。そこには身体性は薄い。性と暴力とはなにか。それは脳に対する身体の明白なる反逆である。これらは、徹底的に抑圧されなければならない。さもなくば「統御」されねばならない。いかなる形であれ、性と暴力とは徹底的に統御されるべきである。それが身体に関する脳化の帰結である。 (養老孟司『唯脳論』(ちくま学芸文庫版)p.249「脳と身体」より) 社会の脳化とは何か。養老氏の著作を読む上ではこれがひとつのキータームになってくるが、とりまとめて言えば、世の中の抽象化・観念化・共同幻想化である。世の中を意識的活動によって御していこう、という動きである。サルがヒトに進化し、家をつくり集落をつくりして身辺を意識的に改造していく。それが脳化の始まりであり、ヒトはやがて国家をつくり制度をつくり、哲学をつくりインターネットをつくったのだ。 その中で、純粋な(脳によって統御されない)身体性は抑圧される。一定の形式の中で統御された暴力として、スポーツが生まれる。武術もここで発生する。 そうした脳化の、日本における歴史的経緯という部分の延長線上に、おそらく養老氏の武術への興味というのはあるのだろう。 日本の場合、戦国の末から江戸期にかけて、それまで戦乱の中でいったん野放しになっていた身体性が、暴力については武術に収斂され、性愛については儒教的道徳の中で抑圧されていき、身体論そのものは、武術とか医術の中に畳み込まれる、といったような歴史的経緯がある。 武術を暴力の脳化された形態として捉えると言うと、武術が好きな人は怒るかもしれないが、それはおそらく、脳とか精神とかで統御されたものが、野放図なものよりも高級だ、という価値観があるからだ。それこそが「暗黙の内に脳化を目指す」という人間の性向だったりするが、まぁ、これは余談。 ●すれ違う消化不良で、えーと、それで何が言いたいかというと、養老氏の武術への興味というのは、実は帰納的なのだということである。 最終的に武術のどういう側面に興味があるのか、というのがはっきりしているので、武術のことなら何でも興味がある、というわけではない。 それに対して、甲野氏は演繹的に武術に向き合っている。武術について本を書いたり考えたりということだけでなしに、実際に古武術を実践して、当時の武術家がどういう身体感覚を持っていたか、ということを探求しておられるわけであるからして、身体論も最終的には実際の動きとか身体感覚とか、そういったところへと向かって広がっていく。 そこらへんに気をつけて読んでいると、「ああ、ここ、甲野さんはノリにノッて話してるけど、養老先生は本域では興味もってないな」というのがかなりあからさまに読みとれて面白い。話し手と聞き手がわりにはっきり分かれるというのも、この武術に対する興味の持ち方の違いというところが大きいはずだ。 ただ、それだけに、どうしても話が甲野氏の興味にそった方向で流れていくという側面がある。だから、古武術における身体観がどういうふうになっているか、という、僕としては最も興味のある部分が、意外にさらっと流されているような印象の1冊であった。 古武術そのものに興味がある人には面白く読めると思うんだけれども、うーん。この対談の組み合わせ自体は非常に面白いものだと思うので、ここでえたものを養老氏自身が発展的に論にすれば、かなり面白いものになると思うが、本書単体では、やや消化不足の気味がある。 (2004.8.4) |
『カミとヒトの解剖学』 (ちくま学芸文庫 2002年1月刊 原著刊行1992年) |
|
以前に読んだ『唯脳論』の認識をベースにして、宗教とか身体観などについての問題を臨床的に腑分けしているといったことになるでしょうか。「唯脳論」よりも、こちらの方が書かれたのが少し後になりますので、養老先生の語り口も、「唯脳論」そのものよりは、かなり整理が行き届いていて、わかりやすくなっています。もしかすると、時代的に逆にはなりますが、こっちを先に読んだ方が、「唯脳論」の内容も理解しやすいかもしれません。 僕自身は、というと、数年前に「唯脳論」を読んだときには、内容に少し反発する部分を感じないでもなかったですが、今回はそういうことはほとんどありませんでした。内容が具体性を持っているがゆえか、それとも人間がまるくなったのか。 人間にとって、あるいは人間の脳にとって「宗教」とは何か。 日本人は、オウムとか創価学会とか、それぞれ具体名を持った「宗教」については何かとものを語りたがりますが、「宗教」全般について、となるとなかなか語るべき言葉を持ちません。というのも、おそらくは多くの日本人が「宗教」(キリスト教でも仏教でもオウムでもよろしい)の中身について、日常の中で具体的に触れ、考える機会を持っていないためでしょう。ほとんどの日本人にとっては、「宗教」は現実感のない概念なのではないかと思います。「携帯電話」という言葉の中で、「携帯」が字義を離れて「ケータイ」になるように、「宗教」もまた、例えば欧米の人がキリスト教に感じるような、あるいはイスラム教圏の人がイスラム教に感じるようなリアリティを、日本人においては失って、いわばカタカナの「シューキョー」になっている気がします。 だから、例えばテロ組織まがいのオウムとか、政界という「現実」へと口を出してくる学会はうさんくさく見られ、「俗界と離れた」宗教である仏教一般・キリスト教一般は、さほど問題にされない、ということも起こってきます。我々は「宗教とは現実の社会から隔離されて存在するものであり、またそうあるべきだ」と考えているのかもしれません。 ですが、「唯脳論」の「現代社会とは脳化社会である」という考え方をここに援用してくると、「宗教と現実社会は別物」とも言っていられなくなります。現代社会が情報や構造の面で、全て人間がこの先を予測可能なように作られた「脳化」されたものであるのと同様、言うまでもなく、宗教も脳の産物であり、両者はその意味において同じだけの重さを持つからです。 宗教の生まれる基盤と、現代人にとって宗教とは何であるのかについて、養老先生は次のような説明を試みます。 死というのは、じつに奇妙なものである。われわれは自分の死を経験できない。生きているうちは死んでいないし、死んでしまうと生きてはいない。ところが、他人の死ぐらい判然としたものはない。(中略)べつな言い方をすれば、死とは具体的かつ抽象的である。 (中略)そう考えると、ヒトの進化の過程で、もし抽象化ということが最初に起こったとすると、それは死を巡ってではないかと思われるのである。抽象化というのは、言い換えればシンボル能力である。(中略)自己の死と他人の死を巡って、ヒトのシンボル能力発現の契機をそのまま素直に発展させたもの。それこそが宗教ではないのか。 もちろんその後、宗教は進化する。したがって最初の契機についての意識は、ほとんど宗教から失われているかもしれないのである。 (中略)それでは信仰とはなにか。それを私は現実感の問題ととらえる。(中略)ネコにとっての魚の臭いは「現実感」である。ではヒトは何に現実を感じるか。アナロジー機能の発生によって、ヒトではそれが、極端にいえば何でもよくなってしまった可能性があろう。だからマルキストにとっては現実である搾取が、資本主義者にとっては存在しないのである。「ない」ものに考慮の余地はない。 (中略)さて宗教に戻って考えると、そこには神の「現実感」の問題がある。宗教体験とは、まさに神の現実感そのものであろう。しかし、神に直接現実感が無い人は宗教という「現実」の方に頼ることがある。そう考えれば、現に宗教や宗教家が存在することは、ともかくわかる。それは科学が存在することと大同小異であろう。 ちょっと引用が長くなりましたが、話はここから、必然的に「では神とは?」という問題に向かいます。 例えばキリスト教での神とは、「神は偏在する」「神は全知全能である」「神は世界の創造主である」という存在です。「私がいいたいのは、神の概念を説明しようとすれば、こうした話になってしまうということである。学問上の問題として考えるなら、神とは『なんだか不思議なもの一般』では話にならない。それには属性を定め規定する必要があろう」と養老先生は説明します。 問題とされるのは、例えば先の引用に出てきた宗教体験のような「なんだか不思議なもの一般」を、「神」という形で規定しようとする脳の働きです。「不思議なもの」を「不思議なもの」のままで措いておくのは、どうも脳(精神)にとってはあまりよくない。これは何となく、自分でも想像がつきます。そこで、多くの宗教では「神」というものを作った。 大事なのは、そうやって「神」を作ることで、不可知なものをシンボルとして可知的な外装を施した脳そのものもまた、やがて「死」を迎えることになる不可知的な身体の一部であるということです。 さて、宗教というのも、確かに本書の大きなテーマのひとつですが、本書におけるもうひとつのテーマは、「人工的な物を考え出す脳自体が、実は自然な物体である人間の身体の一部である」というジレンマです。むしろ問題の系としてはこちらの方が大きいとも言えるでしょう。 「唯脳論」でも語られた、近代化、都市化の脳にとっての意味合いは、つまるところ、人間の周囲を何が起きるか常に予測可能なように改造していく、という、養老先生の言葉を借りれば「脳化」のプロセスとしてのそれであります。 「何が起きるか予測可能な世界」とは、予測をする主体が脳である以上、脳内の世界を現実の世界へと拡張していったものに他ならない。だからここで「脳化」という用語が用いられるわけですが、そうやって、例えば道路を造り、気象衛星を浮かべ、居住空間を人工物で固めていったとき、実はその中で、人間の肉体だけが純粋で加工のされていない自然物である、という矛盾した事態が生じます。 そうなったとき、脳化された社会とは、すなわち人間の身体を疎外する社会に他ならない。 身体を疎外する、とは、つまり死体とか性行為・性器をタブー視することでもある、というあたりで、話は宗教の方と再び関わってくることになりますが、どうやら文脈から察するに、養老先生としては、そうした脳化された社会を、あまり人間にとっていい物だとは見なしていない節があります。 「唯脳論」の感想を書いた際に僕が使った「アンチ脳」というのは、つまりそういう意味合いなのですが、こうした考え方、問題点というのは、まさに脳の内部装置(特に記憶を司る海馬等の部分)の拡張に他ならないインターネットが普及した今、さらに有効性を増すものではないのかと思います。 インターネットの有用性については、ここで改めて問い直す必要もないでしょうが、問題になるのは、例えば、そのメディアとしての性格。メール、とりわけ携帯電話のショートメールなどと比較して、ブラウザで誰かのサイトを閲覧するという行為は、どこか静的である、とよく言われます。 それは例えば時間の共有性とか、インタラクティブ性とかいう部分から論じられることが多いように感じるのですが、むしろ、メールの文章やサイトのHTMLを打ち込むというナマの人間の行為が、どれだけ自分と隔たっているか、という、その距離感によるものではないのか、という論じ方も可能でしょう。 そこから敷衍すれば、インターネット、というメディアの中で、ややもすれば感情が先走った思想が流行しがちであること、インターネット上の潮流と現実の世界での潮流のずれが生じるのはなぜか、といったことにも、考えを広げていくことも出来ると思います。 養老先生のとっている立場は、「アンチ脳」といっても、単に脳化を悪いと断じているわけではなくて、むしろ、脳がそれを良いと判断しているからといって、それを安易に信じない、まずは疑う、というものではないかと感じられます。(このあたりは、「唯脳論」を初めて読んだときとは、少し感じ方が違いますが、今はこちらの方が正解ではないかと思っています) 注目すべきなのは、喜怒哀楽の感情も、論理的思考も、感動も、全ては脳の機能の一部なのであり、それを不必要に神聖視するのではなく、それはそれとして、改めて自分の脳で、「脳がそうとらえた」ということの意味合いを思考しなおすことの重要性を、養老先生が提唱しているということでしょう。 思想の構造としては、解釈学に連なってくる考え方なのかなと思うんですが、養老先生は、元々が解剖学の人なので、基盤を常に人間の脳や肉体に置く。このへんが、養老先生の思考の特徴であり、切り口の鮮やかさの原点でもあろうと思います。しばらくこの人の書いた本からは離れていましたが、改めて、興味の持てる考え方をされる人だなと思いました。 (2002.9.8-11) |
『唯脳論』 (ちくま学術文庫 1998年10月刊 原著刊行1989年) |
|
要諦は、「脳によって自分の『脳』という臓器と、その機能としての『心』を意識し、脳の支配から一段階解放されよう」というところにあると見るが、どうか。違うかな。 整理すると、以下のようになりそうに思う。 心とか意識と呼ばれるものは、脳の機能である。そして世界とは、我々の心を通してしか、我々には認識されえない。よって、世界とか現実は厳然とそこに存在するけれど、我々が世界を認識するとき、つまり世界と向き合うとき、ということはすなわち生きている限り、そこには必ず脳というフィルターの影響があり、脳という器官にとって都合のいい解釈がなされる。 解説を書いている澤口俊之氏は、もう少し大胆に、よって「世界とは脳の産物」なのだと論を拡張する。 が、しかしそれは脳にとって都合のいい解釈であるような気が、僕にはする。外部世界を脳の産物と言い切ったとき、世界は脳の統轄下におかれるものと認識される。脳の機能的な目的とは、終章の「脳と身体」でも述べられるとおり、「脳は身体を統御し支配する器官」なのであり、感覚を通じた身体の延長としての世界を脳の管轄下に位置させることは、この脳の器官的な目的に合致している。つまり、脳にとって都合がよろしい。 ここで澤口氏の脳研究者という立脚点を意識してしまうのは、氏自身が「本書を読んだ当初、まったくもって不明にも、『世界は脳だ!』と主張していると誤解をしてしまっていた」のは「脳科学者としての観点・バックグラウンドから本書を読んでしまったせいだと思う。」と述べているのから見ても、うがちすぎた見方とばかりは言えないだろう。つまり、「脳シンパ」としての解釈である。 最初に要諦として書いたとおり、僕はこの本が「脳の支配からの解放」を意図した「アンチ脳」の立場にあると考え、むしろそちらに同意したい気持ちがするので、「世界は脳の産物」と言い切るのには反対である。 ただし、「アンチ脳」の思考を展開するのが、結局は自分の脳であって、脳の支配から解放された後の世界が、結局は脳によって生じた世界である。よって結局「世界は脳だ」と言い切れるという可能性は否定しない。しかし、これは脳自身を対象化できる、つまり脳で脳のことを考えられるという、脳という器官の特徴を考えあわせれば、どうにか解決できるように思う。 つまり、脳によって脳に反逆する、ということは可能であり(端的な例が自殺だ。本書では脳に対置するものとして身体があげられる。「脳と身体」という終章のタイトルはそのことを示している。その中では身体性のかたまり、もっとも純粋な「身体」として死体があげられている。脳は身体性を嫌う。死体を忌むのはそのためだ、というのである。つまり、自分の意志、イコール脳によって、自分の肉体を死体に変える自殺は、脳による脳への反逆の端的な例、そういう反逆が可能なのだという例として適当であるように思う)、反逆したあとの世界というのが、結局は反逆前と少し変わっただけの、やっぱり脳のフィルターを通した世界であったにせよ、少なくとも「解放の瞬間」つまり認識が変わる時間的な一定の枠の中では、現に解放は行われていると考えてよいように思う。 ただし、さらにつけたすなら、僕が澤口氏と違って文学畑の人間であり、よってもともと「アンチ脳」に惹かれやすい立場の持ち主であることは言っておかなくてはいけない。要するに、僕の言うことを鵜呑みにしてもいけない。自分で考えてね、ということだ。 本題に戻る。本題っていうか、僕なりのまとめか。 で、このフィルターを徹底して無意識の領域から意識化の世界へ引きずり出してみることで、脳の言いなりである現状を打破し、新しい認識を得ることができないだろうか。よりリアルな、器官としての脳を意識することで、脳化社会である現代社会に突破口を見出せないか。 「社会は脳の上に成立し、個人は身体の上に成立する」が、日本では江戸時代以後、純粋なる身体である死体を禁忌の、社会の外の領域へ押しやってきた。よって、「社会が個人の集合によって成立するというのは、この国では『お題目』に他ならない。個人が身体性によって成立する以上、この国には神風特別攻撃隊ならあるが、『個人主義はない』。」のである。 ここで、おもむろに神風特攻隊が登場することに、僕は戸惑う。この直後に、そうした社会のありかたの結果として「後には、農薬まみれで『自然には』決して保たれることのない芝生で覆われた、ゴルフ場が存在するばかりである」と書かれることからしても、養老氏は明らかに、そうしたありかたに不満を持っているのだ。 それは「個人主義たるべきだ」という不満では、おそらくない。「個人主義さえ成立しない」社会のいびつさへの不満である。 死体を自然の一部と見なしたとき、必然的に我々自身の中にも自然が存在するということになる。脳に反逆するための足がかりとなる自然である。それは、「人間も自然の一部」という自然保護運動のキャッチフレーズとは似て非なる思考だ。自然とは世界であり、よって我々の身体自体に、脳社会からの脱出口が存在するということになる。そこから、解放は開始されるだろう。 と、いうふうに、僕はこの本を解釈し、そして全面的にとは言わないまでも、かなりの部分、同意できる考え方だな、と思ったのでした。 (1999.9.24) |
『ヒトの見方』 (ちくま文庫 ****年*月刊) |
|
養老さんの本が面白いなーと思うのは、解剖学という理系の土台がしっかりしていて、そこから物事にアプローチしている点。つまり、同じものを見ても、僕なんかが考えないことを考えている。 例えば、この本の中でも、鴎外の「伊沢蘭軒」についてちょろっと触れた文章があるんだけども、やっぱり、医者として、自然科学者としての鴎外という目で見てるんだよなー。 もちろん、文学の方でも、医者としての鴎外、という視点は設定されてるけども、養老さんほどシンパシーを持って眺められないのが普通だと思いますね。国文学研究室に死体は置いてないし、演習で解剖をしたりもしないもの。 とりわけ、史伝について、「一定のやり方さえ規定すれば、バカでも一定の結論にたどり着く、という自然科学の長所を、歴史に応用してみたのではないか」という指摘は、僕にとっては示唆するところが大きい。 人間は、気道と食道が未分離な生物だ。だから、モチを喉に詰まらせて死んだりする。しかし、こういう生物は、生き物全体から見るとむしろ稀らしい。 ヘビが自分の胴回りよりも大きい小動物を食べる際、丸飲みにしてから数時間かけてゆっくりと消化する。「星の王子さま」に示されるとおりである。人間がそんな真似をしたら、5分経たない間に窒息死する。 気道が食道と分かれて確保されているというのは、つまりそういうことなのだが、こういう特徴は、馬や豚のような哺乳類の中でも珍しいらしい。いつ危険にさらされるかわからない他の動物には、モチを喉に詰まらせて咳き込んでいる時間は無いのだ。 で、僕にしてみれば思いっきり盲点だったのだが、気道が食道とは別になっているということは、当然、息を吐き出すのは主に、気道が直通している鼻であるわけで(口と鼻はつながってはいるが、口蓋(フタね、要するに)で仕切られていて、人間のように無防備なわけではない)、つまり、牛や馬の鳴き声というのは、口から出ているわけじゃなく、鼻を鳴らしているのだとのことである。 言われてみれば「なるほど」なのだが、普段そんなことは言われないから、馬が鳴いているときの声は、喉を使ってくちで鳴らしているのだと思っていた。 ということは、犬や猫のように、口で声を出す哺乳類の場合は、つまり、気道と食道が未分離な生物と言うことになるのかな。ふーむ。 (1998.10.27) |
養老孟司 |