安斎育郎 |
『科学と非科学の間』 (ちくま文庫 2002年8月刊 原著刊行1995年) |
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●反オカルト・疑似科学…「業界」?著者の安斎育郎氏のことはよく知らなかったのだが、調べてみるとその筋ではけっこう有名な人らしい。その筋というのがどの筋かというと、えー、なんと表現したらいいのかちょっとよくわからないが、反オカルト・疑似科学業界、ということになるのかな。そんな業界があるのかどうかよくわからないけど、まあ、あると言っていいんでしょう。もっとも商売として成立しがたいせいもあってか「業界」って言葉の定義には当てはまらない気もするけど。 実際、商売として(ないしは芸として)疑似科学批判を成立させたのは、大槻義彦氏と、あとはと学会くらいなんじゃないだろうか。それにしたところで、大槻氏の疑似科学批判は反疑似科学の立場に立つ人からも、その安易さや科学的正確性について批判されることが多いし、と学会は批判と言うよりは「おちょくり」だったりもするしで、どちらも正統とはちょっと離れている印象がある。結局、もっとも正統に近いのはまっとうな科学者がボランティア的におこなっている活動ということになるのだろうが、それはなかなか商売ないしは芸として成立しがたい。まあ、この業界自体が一枚岩でないというのは、むしろ健全なのかなという気もしますけど。僕自身はこの反疑似科学というジャンルについて、実際のところそんなに深く興味を持っているわけではない。それはつまりオカルト・占い・疑似科学といったものについて興味をあんまり持ってないから、なのだろう。当たり前だけど、その対象に興味を持ってなければ、肯定するにせよ否定するにせよ、そう熱心にはなれない。 妖怪とかファンタジーは好きだけれども、まあそれは結局、そういうものを生み出した人間というものが面白いということで、本当にそれを信じているというわけではない。もっとも、そういう夢想が心理的に人間を少し救ってくれるものだとは思うけれど。 で、つまるところ何が言いたいのかというと、あんまり真面目に本書を論評するつもりはないよ、ということですな。最近このパターンが多くて申し訳ないけど、前置きばっかり長くなってこんな結論でスマン。 ●洗練と古さが共存している以前に読んだマーティン・ガードナーの反疑似科学の古典『奇妙な論理』なんかと比べると、確かに洗練されている、というのは感じられる一方、やっぱりまだどこかもっさりしている印象もある。 洗練されているというのは、まあ話題がオウム真理教とか最近のものも含みこむから、ということもあるのかもしれないが、ひとつ大きな違いはガードナーの「啓蒙」というスタンスから「オカルトを科学の目で見る」ことへと重心が移っていることだろう。こっくりさんやユリ・ゲラーなど、ほとんど完全にトリックがわかっているようなものも扱う関係上、そこに啓蒙的なニュアンスが混じってくることは避けがたく、そうした箇所に芸としての物足りなさを感じはしたが、しかし基本的には「もしも本当にそうしたことがあるなら積極的に現在の科学を再構築しなくてはならない。でも…」というスタンスが貫かれていて、それは「有識の著者が無知な読者に教えさとす」というスタンスと比べると、格段に洗練されていると見なすべきだろうと思う。一方、古くさいというのはね、まあ、こう言うと申し訳ないんだけど、ユーモアをまじえて書かれておるんだけれども、そのユーモアのセンスが古いというのが最大の原因だわね。 たとえば、サイババの超能力について肯定的に論じているとされた論文が、実は真っ赤な偽物、著者とされている人が書いたおぼえのないものを勝手に「翻訳した」として誰かがでっちあげたものだった、ということを書いた箇所にある、次のような一文。 何のことはない、一番もっともらしいと思っていた文献が、実はでっちあげだったのです。昔はやった山本リンダさんの歌を借りて忠告すれば「ウッワッサーを信じちゃイッケナイヨ〜」ということになるでしょう。 (p.146より)
なんでしょう。もうなんというか、ザッツ80年代中期ですよ。 せめて歌詞の引用部分をひらがなにして促音長音(「ッ」「ー」)をなしにしておいてくれればねえ、こんな大惨事にはならなかったんですけれどもねー。 こういう記述は、実は70〜80年代の「超能力解説本」みたいなやつにもしばしば見かけられた手合いの表現で、詳しいルーツ的なものはよくわからないながら、当時よく見たなあと懐かしい気持ちにはなれる。もっとも、1995年に出た本で懐かしい気持ちにさせられてもいささか困るというか。 古くさいながらもこうしたユーモアで本書が読みやすくなっているのは事実なのだが、「読みやすくするための工夫」の域は出ていないと思う。「空耳アワー」でおなじみの安斎肇氏は甥にあたるそうなので、少しセンスを鍛えてもらってはどうか。 ●オカルトを信じる心性こうしたオカルト・疑似科学の世界というのは、はやりすたりがあるもので、今は少なくともそんなに流行っている時代ではないだろうと思う。 ただその一方で、アンケート調査をしたら「人間は死んでも生き返ると思う」と答えた小中学生が1〜2割もいたとか(このアンケートについては、色々と記事を見ていると設問や調査方法に問題があったような気もする。だって個々の回答例を見ると「科学が発達したら」ってのがあったり「別の世界で生き返る」ってのがあったりで、つまるところ「死んだら」とか「生き返る」っていう意味が回答者によってまちまちなわけでしょ)、あるいは新たな疑似科学と言えるであろう「ゲーム脳」が出てきたりとかいうのを見てると、いささか不安な気もする。 少なくとも「ゲーム脳」の時に香山リカ氏とか斎藤環氏が言ってたような「人間というのは信じたい情報だけを信じる傾向がある」という傾向が強くなってきていて、その一方で実証主義的ないし近代合理精神的な考え方で、そういう性癖を克服していくという力が弱くなってきているんじゃないかというのは感じられる。それは結局、疑似科学がのさばっていくことにもつながりかねない。まあ、信じたい話をしてれば信じてくれるんだから楽な話でね。 それはTV番組でも政治の世界でもいっしょで、特にデータも示さないまま不安をあおって「これさえやれば大丈夫!」って口上で、納豆食わせたりイラクに攻め込んだり憲法改正しようとしたりというのは、個人的には超能力番組と五十歩百歩なんじゃないのと思う。いや、マジでマジで。 (2007.2.7) |
安斎育郎 |