ウィリアム・バトラー・イェイツ



『ケルト幻想物語』
 (イェイツ【編】
 井村君江【編訳】
 ちくま文庫
 1987年8月刊
 原著刊行1888・92年)

●民俗学者としてのイェイツ


 イェイツの著作ではなくて、これはあれだ、グリム兄弟がそうしたように、イェイツがアイルランドの古老たちからフォークテイルを集めて編んだ民話集だ。
 ちくま文庫にはこの本ともうひとつ『ケルト妖精物語』が入っている。そちらも買って持ってたような気がするのだが、本棚を見回したところ、とりあえず目につくところにはないので、本書とごっちゃになって、買った気になっているだけかもしれない。どの本を買ったか買ってないかなんて、ちゃんと把握しきれていたら同じ本を2冊も3冊も買ってしまうわけがなかろう。いや、さすがに3冊買ってしまったことはまだない…と思うけど。
 まあそれはともかく、20世紀最大の詩人とも言われるイェイツが、祖国アイルランドの民俗学の上でも大きな業績を残していることは有名な話で、バンシーやク・ホリンをはじめ、今日ではファンタジーの世界でも有名な部類に属するアイルランド出身の妖精のほとんどは、イェイツによって初めて広く世間に紹介されたものだ。で、そのへんの話については、訳者である井村君江先生が本書巻末の「文庫版訳者あとがき」で詳しく紹介してくれている。日本における妖精学の権威にしてケルト文化の随一の案内人である井村氏が説明してくれているのだから、そこに僕などがつけくわえることは何もない。詳しいことが知りたいようであれば、本書を手にとってそちらを参考にしてくれればよい。

●来歴


 本書の目次を見てみると、「魔女・妖精学者(フェアリードクター)」「ティル・ナ・ノーグ」「巨人」など、いくつかの部立てに分かれており、それぞれのセクションにあわせた民話がそれぞれ数編ずつ収められているのがわかる。
 部立ての構成のしかたやそこにどんな民話が入るかについては、もとが1888年と92年のもの(この両年に出された2冊の民話集の中から、井村氏によって編まれた選集なので)という古い本でもあるからなのか、いささか恣意的なものになっている。
 たとえば「幽霊」の部と「悪霊」の部はどう違うのか、「王と戦士」の部と「王妃様、王女様、王子様、盗人などの話」の部についてはどうか。(ちなみに後者の疑問については、「王と戦士」という部の題にもあるとおり、アイルランドにおける王が、王族である以前に戦士たちの長であり英雄であったという側面が感じられて面白い。アイルランドではないが、アーサー王なんかもそうだよね)
 そうした部分が全く気にならない、と言ったら嘘になるかもしれないが、しかしそうしたことを事々しく言い立てるのが馬鹿らしくなるような楽しい本である。

●森と泉に囲まれて


 アイルランドは霧の中の国である。なだらかな丘陵と遠くに見える森、そこに薄紫の霧がかかると、どこからが現世でどこからが妖精界なのかわからなくなってくるような感覚に襲われる。異世界であり、黄泉の国でもあるはずの「ティル・ナ・ノグ」(システムソフトから出てた同名のパソコンゲームのファンだったせいか、「ノーグ」と伸ばしたい気がするが)が、海を隔ててはいても地続きの島として構想されたのも、そうした夢と現の境界が曖昧な国ならではのことだと思う。
 出来心で遍歴の騎士を名乗ってしまったがために竜退治の冒険をする羽目になる男の話や、悪魔と詐欺師の騙しあいの話、魔法をかけられて逃げ回るプディングの話など、一貫しているのは、妖精や悪魔、魔法などが、現実世界の生活のすぐ隣に接して、ごくふつうとは言わないまでも身近な存在として暮らしているという奇妙なまでの近さだ。たとえば『遠野物語』などでも明らかなように、日本においては、異界というのは、山の中に入っていったりして迷い込むような場所なのである。現実の生活の場と接してはいても、お互いに普段は領界を侵犯しあわない「ここではない場所」。ところが、アイルランドの異界というのは、わざわざ越境しようと思わなくても越境してしまうほど、現実世界と混然としている。
 ふつうに家でくつろいでいるところに悪魔や幽霊が現れもするし、岬の方に住んでいるおばあさんが実は魔女だったりもする。日本人的な感覚からすると、アイルランドという島自体がすでに妖精たちの住む異界なのではないかと勘ぐりたくなってしまう。
 創作されたものではなく、一般に伝わる民話として、こうした話が多いというのは興味深いことだが、まあ、そんな小理屈よりも、ケルトの世界を肌で感じられる喜びが味わえるということで、これは『遠野物語』と共通した部分かもしれない。
(2006.8.24)


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『幻想録』
 (ちくま学芸文庫
 2001年10月刊
 原著刊行(和)1978年
 原著刊行(原)1969年)

●ブルベン山の麓で


「生も死も、冷たく見流せ
  馬上の男よ、ゆけ!」
(Cast a cold eye
On life, on death,Horseman, pass by!)


 僕にとってイェイツの名前は、常にこの詩の一節とともに記憶されている。
 イェイツの墓碑銘にも刻まれている「ブルベン山の麓で」の一節だそうだが、この一節を僕が最初に目にしたのは、多分、井村君江氏の著作か、あるいはキャサリン・ブリッグズ氏の著作を井村氏が訳した本だったかのどちらかにおいてだ。その本が何だったのか思い出せないくらいなので、詩にしても正確に記憶しているかは怪しいものだが、そうかけ離れてはいないと思う。
 一般に流通しているらしい「冷たい目を向けよ、生に、死に。馬上の者よ、行け!」という訳とは、確かちょっと違っていたはずで、井村氏が独自に訳したのではないかと、無責任に思ったりしている。

 アイルランドの霧に包まれた草原の丘、1本の枯れた木の元に、静かにたたずむ苔むした墓標。
 馬上の男は蒼い顔をしたダーナの妖精で、ふと通りがかった墓標のたもとで、ゆっくりと手綱を引いて馬を止める。兜の中から覗く冷厳な眸。その視線に、墓碑銘は力強く語る。
 生も死も、冷たく見流せ、ゆけ、と。
 表情を毫も動かすことなく、馬上の男は力強く手綱を引き、大きく前足を浮かせた馬はたちまち、彼らの住む常若の国へと駆け去っていく。

 イェイツの真意はともかく、僕の方では勝手にそんなイメージを思い描き、勝手に「くぅ〜、かっこいいぜ!」と感動したのであった。名曲「哀・戦士」の「荒野を走る 死神の列」というあの一節と相通じるかっこよさ。
 この詩で人生が変わった、ということは流石にないのだが、でもかれこれ10年近く前に読んだ本の一節をいまだに憶えているのだから、それなりに僕の受けた衝撃は大きかったのだと察して欲しい。

●霊媒師の語る真理


 で、そんなこんなで、肝心のイェイツの他の詩や著作については読むこともなく、アイルランドの生んだ偉大なる詩人にして、ケルト神話のよき理解者、てなイメージが先行している状態で、初めて読んだのがこの『幻想録』だった。
 いやあ、こりゃまずかったね。
 少なくとも、初手でこの1冊というのはちょっと拙劣と言うほかない。
 イェイツはオカルティストでもあるのだが、この本は、霊媒でもある彼の妻が自動筆記した「霊界からの真理の言葉」を、イェイツが体系化してまとめたという、まあ由来からしてアレな代物なのだ。

 「まえがき」で小川二郎氏も強調しているが、そのことは、実は本書の価値を損なわない。
 重要なのは、イェイツが偉大な詩人であり、20世紀を代表するとも言われる詩群を遺したということだ。
 そして、それらの詩を作る基盤になる思想は、仮にスタート地点が霊媒の自動筆記によるものであっても、イェイツがそれを体系化してまとめる作業の中で醸成され、イェイツの思想として本書に結実した。そしてそこから「ブルベン山の麓で」をはじめいくつもの、人間を揺さぶる詩が生まれたのだ。

 本書で述べられている「真理」とはどんなものか。
 人間は「大車輪」と呼ばれる28の相を輪廻を繰り返しながら生きており、それぞれの相のもとで新たに生まれては、その相の宿命のもとに生きているというものだが、この説明はものすごく簡略化してしまっているので真実を伝えきれていないだろう。実際のところはもっとはるかに複雑なものだ。
 どう考えてもカギカッコ抜きでの真実とは言いがたい論理なのに、到底理解しきれないほど複雑。脳裏を「徒労」という言葉がかすめずにはおかない。
 たしかに、冒頭であげた「生も死も冷たく見ながせ」という言葉に、輪廻思想の影響を見たりすることはできる。というか、人生は一回生起のものだと考えている人と、輪廻思想を信じている人とでは、「生も死も冷たく見ながせ」という言葉の意味合いもちょっと違ってくる気がするし。
 ただ、やっぱり本書の内容は、逐次、イェイツの詩に照らして還元的に影響を確かめるという意味合いにおいて価値を持つものだろう。そういった意味で、イェイツの詩にあるていど以上親しんでおいた方が、本書を読む上ではいい。いや、むしろそれが必須だと言ってもいい。初手でこの1冊というのが拙劣だと書いたのはそういう意味だ。
 本書は確かに無価値ではない。しかし本書のみを読むことで楽しもうと、あるいは何かを得ようとするのは、きっとやめておいた方がいいのではないかと、そんなことを思うのだった。
(2004.9.26)


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