カレル・チャペック



『園芸家12ヶ月』
 (中公文庫
 ****年*月刊)
 至極すらすらと読める、エスプリのきいた、園芸に関しての随筆で、薄い本とは言えさすがに2日はかかるだろうと思って読み始めたら、1日で読み終わってしまったほど面白かった。
 土に差し入れる度に折角ひらいたデルフィニウムの花の根をぶつ切りにするシャベルや、必ずどこかに小さな穴があいて園芸家をずぶぬれにするホースや、傲慢で園芸のこととなると他のことは頭になくなる園芸家という人種自身への、呪詛と皮肉と愛情にあふれた1冊である。
 チャペックと言えば、「ロボット」という言葉を初めて使った作家として有名だけれども、その片側でこのように園芸家として暮らしてもいたとすれば、それはとても愉快なことだと言うべきだろう。訳者である小松太郎氏によれば、これが書かれた当時、チェコは共産党勢力が隆盛を極め、プロレタリア文学が盛んに書かれたらしい。文中にも、時折、プロレタリア文学への軽い皮肉と、一時は自分も関心を持ったということへの、苦笑のようなものがにじむ。
 日本のプロレタリア文学と外国のそれを同一視することはできないが、共産主義というものは、基本原則としてシステマティックに社会を考えるあまり、慈愛の「心」を必然という「構造」に置き換える傾向が、そもそもの欠陥としてある。それはあたかも「ロボット」のように。
 果樹のたぐいが冷遇視されているのも、安直なプロレタリア文学に対する視線が現れたものと見られるだろう。プロレタリア文学にとって、金持ちは敵だ。なぜなら、共産主義は、低所得層が富裕層を革命によって倒すことが、必然的な社会のシステムであると考えるから。
 したがってプロレタリア文学は、イギリス貴族に象徴される庭いじり好きな貴族を、汗にまみれて農作物を育てる農民たちの対極とみなし、道楽で土をいじるのを禁忌として描くことがしばしばある。
 だが、園芸家は許すあたわざる卑劣漢で、庭いじりは倫理上の大罪であるというようなことはもちろんない。そういうところを見落とすあたりに、共産主義の重大な欠陥がある。
 真っ正面から園芸家を描くなら、そういうことがプロレタリア文学への批判として言えるだろう。けれども、チャペックはそういう四角四面の切り口をしなかった。肩肘張って迫ってくるプロレタリア文学を「はいはい、だけどこっちだって大変なのよ」といなすような、軽妙な書き方をした。ジョークとエスプリとアイロニーで行間を埋めつくし、土いじりが本来、楽しいものであることを歌った。
 園芸家の背中は「背骨が痛い!」と文句を言うために存在し、普段、1メートル以上の身長がある園芸家は滅多にいない。ちょっと遠くから見ると、園芸家は尻しか見えない。そういう姿は、いかに背中が痛くなろうと、やっぱり楽しいものなのだと伝わってくる。
(1999.9.28)



『ダーシェンカ 子犬の生活』
 (伴田良輔監訳
 新潮文庫
 2001年2月刊
 原著刊行1933年)
 すさまじくアッという間に終わった。ほのぼのん。
 日本でかつてそうだったように、チェコにもほのぼのんとしていることが抵抗であった時代があったと言うことではありますが。しかし、同じ土壌からルカーチが生まれてくるのが、微妙に納得いかないような気はします。
 どうでもいいけど、チャペック先生の本を2冊読んで、そのうちに「RUR」が入ってないのは問題でしょうかね。
(2001.6.20)



『チャペックの犬と猫のお話』
 (石川達夫訳
 河出文庫
 1998年11月刊
 原著刊行1939年)

●ふたつの『ダーシェンカ 子犬の生活』


 チャペックについては、以前に新潮文庫版の『ダーシェンカ 子犬の生活』の感想を書いたことがある。まあ、簡単なものだったけれども。本書はチャペックの犬や猫に関するエッセーを集めたもので、その「ダーシェンカ 子犬の生活」もまるまる収められている。なんだってー。これでお値段はたったの150円増し。
 ま、新潮文庫版はオール2色刷(イラストが淡緑色になっている)で紙質もいいし、チャペック自身の写真もふんだん。これはこれで高い買い物ではないんだけれども。

 そもそもなんでこうなったのか。訳者である石川達夫氏の「訳者あとがき」から引こう。

 本書は、チェコの作家カレル・チャペック(一八九〇−一九三八)の『チャペックの犬と猫のお話』(原題Mel jsem psa a kocku『私は犬と猫を飼っていた』)の全訳である。この本は、チャペック死後の一九三九年に出版されている、チャペックの犬と猫に関するエッセイを集めた決定版である。本書のうち、「ダーシェンカ」の部分だけは日本でも今までに何種類かの邦訳で紹介されているが、その他の部分は本邦初訳であり、この翻訳によって、チャペックのまた新しい魅力に触れていただけることと思う。
(p.191「訳者あとがき」より)

 というわけであるらしい。
 「ダーシェンカ」自体ももとから単行本としてチェコで刊行されていたわけだが、そんなに長い話ではないので、犬猫関係エッセイを集成するときにその中に入れられたと。
 ちなみに新潮文庫版は伴田良輔氏の監訳で、もともと単行本になったのが平成9年。で、本書の単行本が平成8年なので、ここで言う「何種類かの邦訳」には新潮文庫版の底本は入っていない。ただし、第2章以降が入っているという新潮文庫版の『ダーシェンカ』(「子犬の生活」と副題がついていないものがある。同じく伴田良輔氏の監訳)はこの「何種類かの邦訳」の範疇に入るかもしれない。
 なんでこんな細かいことを書くかというと、このあと2冊の比較をちょっとやるからだ。

●前後の脈絡


 本書と新潮文庫版はどこが違っているか。大きく分けて2点である。
 まず、本書の方が、他のエッセーが入っているので、ダーシェンカ(という名前の子犬だ)の前に、あるいは後に飼っていた犬や猫についても知ることができる。
 2点目は訳文が違う。具体例は後で述べるが、新潮文庫版は少し子供でも読めるように訳者が配慮したのかなと思わせる節がある。対して河出文庫版の本書は、他のエッセイの色合いも影響しているかもしれないが、やや大人向けの印象である。

 1点目については、河出文庫版の方が見えてくるものが多いぶん良い。
 例えばダーシェンカという名前。ダーシェンカの母親はイリスという名前で、彼女はそれ以前にも子犬を産んでいる。本書にはその子犬たちのことを描いた「ベンとビヨウとブラッキーとビビ」というエッセーも収録されているが、その中にこんな一節がある。

(みなさんはきっと、この四匹の子犬たちの名前がみんなBで始まっていることにお気づきだろう。つまり、この子犬たちは二度目の出産で生まれたのだ。犬の飼い方の規則に従うと、犬の世代には、アルファベット順の名前をつけることになっている。(後略))
(p.65「ベンとビヨウとブラッキーとビビ」より)

 チャペックは多分、この規則にかなり厳格に従っている。というのが「イリス」というエッセイの中で、イリスから生まれたまた別の子犬に「アルファベット順を考えて、Cで始まる「ツェルダ」と「ツィトローネク」という名をつけた。」とあるからだ。
 したがって、ダーシェンカの場合はイリスの4番目の出産で産まれた子犬ということになる。ちなみに、BおよびCで名前の始まる子犬たちはというと、チャペックが知人にわけてあげたとのこと。
 このへんを踏まえると、ダーシェンカを取り巻く状況がどういうものだったのかについても、よりいっそうわかりやすくなると思うがどうだろう。もちろん、「ダーシェンカ 子犬の生活」単体でも、優れた作品であり、またよくまとまっていることにかわりはないが。

●訳文に現れる翻訳態度


 第2に訳文の違い。例えば次のような箇所をあげる。

 (前略)「もしもし、犬のお母さん」と自然の声が命じる。気をつけなさい。あなたのおちびさんが、まだ目も開かず、なんにもできないねんねである間、自分で自分を守れず、隠れたり助けを求めることもできない間は、子供のそばを離れてはいけないよ。これはよく言っておく。子供から目を離さず、自分の体でかばい、もしも怪しい者が近づいて来たら、ウウーとうなって、噛み殺すのだ!」
 母親のイリスは、この命令を全部真に受けて、ある怪しげな弁護士が近づいて来たとき、彼を噛み殺しに走っていって、ズボンを噛みちぎってしまった。また、ある作家(それはヨゼフ・コブタ[チェコの作家・ジャーナリスト。一八九四−一九六二]だったが)が近づいて来たとき、やはり噛み殺そうとして、足に噛みついた。

(河出文庫版 p.73 第一章より)

「やあ、犬のおかあさん、」と自然が呼びかける。
「貴女のおちびさんが目が見えなくてほとんど何もできず、自分の身を守るどころか、隠れたり助けを求めたりすることさえできないうちは、どんなことがあってもそばを離れてはいけません。そして子供から目を離さず、貴女の身体でかばってやりなさい。もし怪しいやつが近づいてきたら、うなって追っ払うんですよ」
 イリスはこの呼びかけにおそろしいほど忠実で、うさんくさい風体の弁護士がやって来たときは、すっ飛んでいってズボンを喰いちぎったし、ある作家が近づいたときも同じように追い払おうとその足に噛みついた。

(新潮文庫版 p.14−15 第一章より)

 大きな違いとしては、河出文庫版では「噛み殺す」となっていた箇所が、新潮文庫版では「追っ払う」となっている。また、「ある作家」についてのカッコ書きでの説明も省略されている([ ]内は没年が記されているところから、おそらく訳者註。注記がないあたり、河出文庫版の姿勢にも問題がある)。
 原書に当たっていないから(当たってもチェコ語が読めないけどさ)「噛み殺す」と「追っ払う」のどちらが正しいか、また自然の声は「命じ」ているのか「呼びかけ」ているのか、実際には確かめられない。が、「ある作家」の注記は、原書にはあったものが新潮文庫版では省かれているのだと思われる(河出文庫版が訳者による註であれば[ ]で表記するはずなので)。
 訳について石川氏は「訳者あとがき」で「従来の邦訳は、チェコ語原文と比べて、誤訳や原文からのずれが少なからずあった。」として、できる限り原文に忠実に、かつニュアンスを残すよう努めたむねを書いている。
 これを信じて、河出版がより原文に近いとするなら、新潮文庫版は「命じる」という言葉の強さを「呼びかける」へと弱め、かなり強烈な「噛み殺すのだ!」という文言も「追っ払うんですよ」にしたと考えられる。「ダーシェンカ 子犬の生活」は、現在でもチェコの子どもたちによく読まれているそうで、完全に子供向けとまでいかずとも、「子供も読むのだから」といった配慮があったかと邪推できる。
 しかし、ここは、母犬であるイリスの母性が本能的なものであることを述べた箇所で、そしてその本能については、本書所収の他のエッセイのはしばしから、チャペックが犬や猫の本能をかなり強制的なもの、逆らうことが不可能な自然の摂理と見なしていたことがわかるから、「噛み殺すのだ!」の方が、より作家の意図したニュアンスを伝えていることになるのではないかと思う。

 (前略)その時、本能は突然、逸脱することのないメカニズムとしてあらわれるのだ。自然は個体を信用しない。だから、個体が何をすべきか、もっとも微妙な細部に至るまで、あらかじめ定めておくのだ。自然は何事も、個体の創意には任せない。本能の帝国の地図は、不変の決定的な効力をもって描かれているのだ。
(P.181「犬についてもう少し、それから猫について」の「猫の春」より)

 河出文庫版が大人向けであるというのは、訳文のことだけに限らない。
 例えばダーシェンカが生まれるためには、それに先だって必然的にイリスが交尾をする必要がある。人為的に種付けをすることもあれば、いつの間にか妊娠していることもある。また、子犬が産まれすぎれば、誰かに頼んで、子犬の頭を水につけ、溺死させて間引きをしなくてはならない。
 「ダーシェンカ 子犬の生活」には描かれていないが、そうしたことについても他のエッセイでは触れられている。トータルで読んでいくと、犬や猫を飼うということの中から、ペットを飼う楽しさ悲しさの他に、「創意−人間←→犬猫−自然(本能)」といった対立構造もうかがえる。対立構造をはらみながら、よき同居人として人間がペットを飼うのはどういう意味があるのか、という疑問の系も見えてくる。
 このへんが大人向けであるという理由だ。
 ただし、文章自体は、大学教授である石川氏よりも文筆家である伴田氏の方が読みやすい。また確かに子供向けとしてはどうか、といった判断の仕方もあるだろう(僕はそういう本の選び方や作り方は嫌いだけども)。そのへんはお好みで、ということになるだろうか。
(2004.3.13-14)



カレル・チャペック

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