村上春樹



『1973年のピンボール』
 (講談社文庫
 1983年9月刊
 原著刊行1980年)
 割に後期の作品から村上春樹を読み始めた(「ねじまき鳥クロニクル」が初体験だった)僕としては、「みずみずしいなぁ」というのがひたすら印象に残る1980年の作品。「風の歌を聴け」から「羊をめぐる冒険」にいたる、いわゆる初期三部作の2作目にあたる。

 初期三部作の位置づけについては、論者によってかなりその位相が異なっているように思える。
 カート・ヴォネガットから受けた影響、といったような、実証的な検証のできる範囲内においては、とりあえず結論を見ることが出来るにしても、初期三部作の持つ「みずからのアイデンティティを恢復する」という主題の受け取り方は、例えば右翼系左翼系の評論家によって、大きく異なってくる。
 かなり極端ではあると思うが、先の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」に関する感想の中でも引き合いに出した、福田和也と笠井潔から、再び引用してみよう。(両者を単純に右翼系左翼系と片づけるのはいささか問題があるけれど、考え方の方向性にはやはり違いがある)

 『風の歌を聴け』から『1973年のピンボール』を経て、『羊をめぐる冒険』に至る長編小説で、村上春樹氏は、個人の自立、それも言葉を通じての確立を試みてきた。おそらく背後に想定されているであろう六〇年代的な、政治と普遍性と観念の、個人を歴史や集団に動員して止まない言説に対して、いかに微少なものであっても個人的な感触をもった言葉を回復するために、氏の小説は「今、僕は語ろうと思う。」と語り出されたのである。
(福田和也「ソフトボールのような死の固まりをメスで切り裂くこと」1995年)


 三部作の底部には、一九七〇年前後の大衆的ラディカリズムの高揚と敗北という記憶が、それほど目立たぬようにであるけれども刻まれている。ここから「羊」という寓喩の意味を解釈していけば、導かれる結論はほとんど必然的であり、その結論はほとんど必然的に凡庸なものである以外ない。(中略)作品はどのように読まれてもいい。だから川本三郎による「羊=革命観念」「鼠=連合赤軍の死者」という〈読み〉も、それ自体として批難される筋合のものではない。(中略)しかしこの三部作において、、〈読む〉にあたいするほどの実質がそこにないこともまた明らかなのだ。(中略)むしろこういうべきだろう。三部作のモチーフは、ドストエフスキイのように観念的累積の「悪」をそのものとして抉り出す点にではなく、観念的累積の必然性がこの高度市民社会の現実においていかに隠蔽されていくのかという問いを問うことにあったのだ、と。
(笠井潔「物語のウロボロス」より、「第九章 都市感覚という隠蔽」1988年)


 両者の意見を並べただけではちょっとわかりづらいかもしれないが、意見が決定的に相違しているのは、「みずからのアイデンティティ」を「何」から恢復するのかという点についての見方だ。
 福田氏の言う「六○年代的な、政治と普遍性と観念の、個人を歴史や集団に動員して止まない言説」は、笠井氏の言う「革命観念」とイコールだと言えるだろうが、笠井氏はそれを否定し、むしろ、「連合赤軍事件(あるいは一九六〇年代)を主題化した作品として『羊をめぐる冒険』を読むのではなく、連合赤軍事件を隠蔽することで延命してきたこのポスト戦後市民社会(あるいは一九七〇年代)こそが、この世界の中心をなしている」とする。

 正直なところ、「六○年代的な、政治と普遍性と観念の、個人を歴史や集団に動員して止まない言説」が、なぜ「個人的な感触を持った言葉」に対置されるべきものとして想定されていると言えるのかを「おそらく」という言葉でしか説明してくれない福田氏の考え方も、三部作をひとくくりに考えて、各作品の独立性をひとまず棚上げしているように見える笠井氏の考え方も、僕個人としてはどちらもそのまますんなりとは採れないかな、と思うのだが、いずれにせよ、「羊」あるいは「鼠」といった暗喩に、60年安保からベトナム戦争、あるいはあさま山荘の影を見て取ることが、当時の読者層には容易であったということは考慮しておくべきだろう。
 僕たちの世代には、それはすでに難しい。それは、例えば本書の場合で言うのなら、1972年という年号と「あさま山荘事件」が脳内でダイレクトに結びついていないからでもあるだろうけれど。
(ちなみに、福田氏の論が「国境の南、太陽の西」以後を主に扱ったものであり、笠井氏の論が「羊をめぐる冒険」を主軸に初期三部作を取り上げたものであるという点は、考慮しなくてはならないと思う。つまり、ここで引き合いに出して文句を言うのはちょっとアンフェアな部分があるということだ)

 少し整理する。本作の下敷きになるものとして、72年の浅間山荘事件までに至る一連の流れがあったことは、本書のプロローグ「1969−1973」からも読みとることが出来る。土星生まれだという吃音の青年は政治結社に参加して大学紛争に関わっていたし、トロツキーに関する挿話もある。たとえ他にこの時代を語るためのトピックが見あたらなかったにしても、それがひとつのベースになっていることは明らかであると言っていい。
 しかし、それが「入口」であったとして、「だから」個人の言葉は60年代的思潮によって失われ、そして失われ続けたのだ、というのは、やはり短絡的だろう。
 例えきっかけはそうであっても、「鼠」が街を出ること、および「僕」の元から双子の姉妹が去っていくことが「出口」だと言うなら、街、あるいは双子が、暗喩として60年代的思潮とイコールであり続けたことを証明しない限り、個人の恢復が60年代的思潮に対してなされたのだとは言えないはずだ。
 この点においては、「それは大した問題ではない」とする笠井氏の意見に分があるように思える。
 しかし、だからといって、「羊をめぐる冒険」はともかく、本作が、高度経済成長期の社会の「隠蔽」を問うたのだ、と言ってしまえるのかどうか。確かにそう言おうとすれば言えないことはないだろうが、ちょっと判断がつきかねる部分ではある。
 ほとんど常に「過渡期的」「予感に満ちた」といった形容詞のつく本作は、やはり単体で理解しつくそうとするのが難しいのだろうか?
(2003.1.28)


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『蛍・納屋を焼く・その他の短編』
 (新潮文庫
 1987年9月刊
 原著刊行1984年)
 昭和59年刊行の短編集。57年から59年までに発表された5編を収める。
 デビュー作となる『風の歌を聴け』が昭和54年なので、初期の短編集と言って構わない。が、短編集であるので、感想を書くなら、全部の短編について書くのが本当だ。とはいいながら、とてもそこまでの時間的余裕はない。
 ただ、読んでいて、そこまで考えを触発されるものが無かったのも事実だ。

 おそらく、扱う素材が、まだ生っぽさを持っていたということなのだろう。物語の核になってくる要素は、「蛍」での奇矯な同居人、精神の安定を崩していなくなってしまう死んだ友人の彼女、「納屋を焼く」の軽い探偵趣味、「めくらやなぎと眠る女」の聴力に障害を持ったいとこ、とそれなりに後の作品でも馴染みのあるものが多いのだが、後の作品では、それらの題材の暗喩する意味がとても明確に、パズルを組み合わせるようにシャープであるのに対して、この段階の作品群では、それらがもう少し、現実的というか、あいまいだと思う。
 現実に生きている女性が、例えば失踪したからと言って、その女性の意味がその一事をもって決定されるものではない。つまり、例えば「ねじまき鳥クロニクル」での失踪した妻が、物語を一貫する喪失感を意味していくとして、それは作者と、そして主人公(と、読者)によって、小説的な修正作業が施された結果だと考えるべきだろうと思う。これが現実の出来事だったら、失踪した妻は、もっといろいろな意味を持ちうる。人間を含め、ものごとというのは常に多面体として存在しているのであって、それにある一定の意味を付与するのは、作者、あるいはものごとを位置づける主体にのみ許された特権的行為だと言うべきだ。
 上野千鶴子・小倉千加子・河野多恵子の共著になる「男流文学論」は、フェミニズムの立場から、主人公のそうした特権性を指摘し、そして初期の、この『蛍・納屋を焼く・その他の短編』での女性の描き方のほうが自然だと言う(と、今ごろになって気づいている。それをあくまでフェミニズムとしての立場から言おうとするから、話がわかりづらくなるのだ)。

 本作品集での短編群から、昭和60年の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」との間には、登場人物や事象の意味づけ、という点で、ひとつの飛躍があるようにも感じられるが、それはあるいは、短編と長編という物語の長さ自体によって、作者が意図的にやっていることであるのかもしれない。いや、後の「神の子どもたちはみな踊る」での短編を見る限り、それは「しれない」レベルではなく、かなり意図的な操作であると確言しても良さそうに思えてくる。
 つまり短編では、その長さゆえに、物語の題材を意味に還元することを、作者自身がある程度まで拒んでいる、と考えるのが自然なのではないか。それをしたら、短編はすでに物語ではなく、意味の固まりになってしまう。
 ただし、たとえば「神の子どもたちはみな踊る」にも、表題作「神の子どもたちはみな踊る」のように、そこに暗喩性を見ることが難しい作品もあれば、「UFOが釧路に降りる」や、さらに「かえるくん、東京を救う」のように意味を積極的に見ていけるものまでが収められていることを考えれば、作者としてはそこまで偏狭な気持ちも持っていないかもしれない。
 そして、2つの短編集を読み比べるなら、そこにはやはり、17年間の村上春樹のたどってきた歩みが、確認できる。
 いずれにせよ、「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」の初期3部作を昭和57年までに経て、新たに「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」へ飛翔するまでの間に、この短編集が位置している以上は、その過渡期の物語作法、そして問題意識というものが、この短編集には宿っていると考えていいだろう。
 それを意識して、その前後の作品を、あるいは本書と「神の子どもたちはみな踊る」とを読み比べてみるのも、興味のあることだと思う。
(2003.1.19)


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『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』
 (新潮文庫
 1988年10月刊
 原著刊行1985年)

●2つの物語を対置させるということ


 「ハードボイルド・ワンダーランド」と「世界の終わり」という2つの物語をひっきりなしに往還しながら、読者はそこに何を読むのだろう。
 解答は言うまでもないかのように見える。本書は従来より、主人公である「僕」の外部世界と内部世界両面における、アイデンティティーの確立の物語として読まれてきた。外部世界である「ハードボイルド・ワンダーランド」と、そのハードボイルド・ワンダーランドの世界で、博士によって仕組まれたロボトミーにより、顕現した内部世界「世界の終わり」。2つの世界で、「僕」がみずからのアイデンティティーを恢復する物語として。
 僕としても、別にひとつのテーマで2つの物語を解釈することに異議を申し立てるつもりはない。1つのタイトルの元に収められた2つの物語の間を行ったり来たりさせられれば、読者としてはそこに、互いを貫く照応関係を見ようとしないわけにはいかないし、2つの物語がそれぞれに持っている主題がともにアイデンティティーの恢復だというなら、読者はそのテーマのもとに、2つの物語をひとつに統合して読まざるを得ない。それが読者としての仁義というものだ。
 しかし、そうした読みは同時にふたつの疑問を残す。ひとつは、「なぜ、作者はひとつの主題にもとづいて2つの物語を、それを互い違いに、それこそ、トランプをシャフリングするように重ねるなどという仕掛けをめぐらさなくてはならなかったのか」という疑問。そしてもうひとつは、「2つの世界を照応させ、そこから『ハードボイルド・ワンダーランド:世界の終わり=外部:内部』という構造を読みとるというこの読みは、果たして妥当なのか」という疑問だ。

 福田和也は本書と『ノルウェイの森』・『ダンス・ダンス・ダンス』をひとくくりにして、『風の歌を聴け』から『羊をめぐる冒険』のいわゆる初期三部作によって獲得した、歴史とかイデオロギーにコミットしない「個人」というアイデンティティーが、「他者とつきあい、絆を結ぶための倫理」(「ソフトボールのような死の固まりをメスで切り裂くこと」より)を扱った作品として見なし、その新たな一歩が本書によって切りひらかれたと見なした。
 おそらく、この読みは妥当な物を含んでいるだろう、と僕も思う。
 少なくとも、この作品のエンディングを見る限りにおいて、本書の主題がアイデンティティの確立、あるいは恢復であると見なされうることは否定できない。また、特にピンクのスーツを着た博士の娘との関わりにおいて顕著な、他者との関わり方を扱う際の、作者の慎重な手つきは印象的だ。
 問題は、そうした主題を扱うにしたところで、なぜ、このような込み入った手法がとられなくてはならなかったか、である。
 「ハードボイルド・ワンダーランド」では、「計算士」と「記号士」というふたつの組織の確執と、その確執の間隙を突こうとする2人組、というまさしくハードボイルドタッチの構図が一度は描かれながら、やがてそれらは背景となり、オルフェウスの冥界下りを彷彿とさせる地下探検行を経て霧消する。
 ファンタジーにおいて、地底や冥界への冒険は死と再生を意味するから、一度、地下探検を経た後では、それ以前に展開されていた世界が無意味化するというのは、これはわからなくもない。
 一方に、笠井潔による、『羊をめぐる冒険』までの三部作が、「ドストエフスキイのように観念的累積の『悪』をそのものとして抉り出す点にではなく、観念的累積の必然性がこの高度市民社会の現実においていかに隠蔽されていくのかという問いを問うこと」に、そのモチーフを置いているという読みがあることを考慮すれば(「物語のウロボロス」第9章)、この地底探検は、組織の確執云々といった、「隠蔽するもの」を取り除くための、ひとつの禊ぎであると見なすこともできる。

 だが、「ハードボイルド・ワンダーランド」に、「世界の終わり」というもうひとつの物語を対置する時、「組織」「地下探検」といったものの持つ意味合いはおのずと、「ハードボイルド・ワンダーランド」を単独で読んでいるのとは違ってくるはずなのだ。
 ひとつの物語の中では絶対であったそれらの意味合いや位相は、もうひとつの物語を対置させることで相対的なものに変化せざるを得ない。
 そしてこの場合、対置することによって、従来、「ハードボイルド・ワンダーランド」の主人公の内面世界として、いわば「ハードボイルド・ワンダーランド」の下部に位置する存在、あるいは「ハードボイルド・ワンダーランド」の抽象化されたものとして認識されてきた「世界の終わり」の位置もまた、微妙なものになってくる。

●「僕」=「記号士」


 さて、この2つの物語の連環の中で、「世界の終わり」について考えるためには、まず、「ハードボイルド・ワンダーランド」での、地下探検行について考えなくてはならない。
 先に述べたように、オルフェウスの(あるいはイザナギでもゲド戦記でも構わないが)冥界下りを思わせるこの長いエピソードだが、このエピソードは「ハードボイルド・ワンダーランド」の中で、「それ以前」と「それ以後」を画することになる。「僕」は、案内人役であるピンクの服の娘に導かれ、東京の地下に広がる「やみくろ」たちの巣へ赴き、博士を見つけ出して、彼から真実を教えてもらうことになる。
 以後の物語で言えば、たとえば「ねじまき鳥クロニクル」の井戸とも共通するモチーフのこの地下探検は、自分の意識下の世界へと沈潜していくことを暗喩していると読んでいいだろう。
 だからこそ、「僕」は地底で、少年時代にニュース映画で見たひとつの村がダムの底へ沈む映像の中で、自分の影もまとめて水底に巻き込まれていったことを思い出す(意識の底からすくいだす)ことができるのだ。地下の暗闇は、「僕」の意識の底、博士の言うところの第2回路・第3回路と空間を共有している。
 ところで、そうだとしたら、「ハードボイルド・ワンダーランド」はその物語自体の中に無意識下の世界を保持していることになる。そして、その世界こそが「世界の終わり」で言うところの町だとするなら、「世界の終わり」が、別のひとつの物語として叙述されねばならなかった理由はどこにあるのだろうか。それを別の物語として著述せずとも、「ハードボイルド・ワンダーランド」の中だけで片が付く問題ではないのか。

 「世界の終わり」は詩的な物語世界だ。町は、高くて誰も外に出ていくことのできない壁に取り囲まれ、人々は影を失い、同時に心を失って暮らしている。心を失いきれなかった者は、森の奥に追放され、その中で暮らさなくてはならない。そして新たにこの町へとやって来た「僕」は、図書館で夢読みと言われる仕事に就く。
 後に、「僕」の影が語ったところによれば、この町は一見、完全なように見えて、実は完全ではない。なぜなら、「完全さというのはこの世には存在しない」からだ。
 この町で増大し、抱え込みきれなくなったエントロピーは、黄金の毛皮を持った一角獣によって引き受けられる。一角獣はやがて冬の寒さで死に、抱え込まれたエントロピーはそのまま、その頭蓋骨の中に貯留される。エントロピーとはこの場合、町の完全な人間が生み出した自我の重みであり、ワインの澱のようなものだと説明される。それを時間をかけて静め、やがて夢読みが大気の中に自我を放出して完全に消し去ってしまう。
 ここで気づくことが出来るのは、この町での「僕」は、「ハードボイルド・ワンダーランド」の中では「記号士」と呼ばれねばならないということだ。

 「ハードボイルド・ワンダーランド」の「僕」は、「組織(システム)」と呼ばれる組織に属し、依頼によってあらゆる情報を暗号化して隠蔽する「計算士」と呼ばれる職に就いている。そして、これと対立し、隠蔽された情報を解読しようとするのが「工場(ファクトリー)」なる組織に属する「記号士」と呼ばれる者たちだ。
 暗号化され、隠蔽された情報を解読する記号士は、そのまま、「世界の終わり」での「僕」と重なってくる。  博士の娘は第29章において語る。

「でもね、もし」と娘は言った。「『組織』と『工場』が同じ一人の人間の手によって操られていたとしたらどう? つまり左手がものを盗み、右手がそれを守るの」

 博士は、謎に包まれている両組織の構造をたどると、同じ人物によって操られていると気づいたからこそ、「組織」を信用しなくなったのだというのだった。

 ここで、「ハードボイルド・ワンダーランド」の「僕」の意識の世界、第3回路の世界が、「世界の終わり」なのだと仮にしてみよう。「世界の終わり」では、日々、澱のような自我のかけらが生産され、一角獣によってそれが貯蔵され、やがて無化されていく。それらは、町という形をとった、「ハードボイルド・ワンダーランド」の中の「僕」の意識の核がおこなっている一連の作業である。そして夢読みである「僕」は、この町にやってきてから、切り離された影が死に、心をなくすまでの間、夢読みの仕事をすることができる。
 構造としては破綻はないように見える。だが、この「世界の終わり」という物語において、他の代の夢読みの誰かでなく、この「僕」に主人公として振る舞うことを許したのは一体「誰」なのだろうか。
 主人公であるということは、物語の最後において、これまでなしえなかった町からの逃亡に一旦は成功しかける、という事実によってのみ保証される事柄ではない、と考えるべきだ。それはとりもなおさず、この物語の中においては、みずからが主体的な判断を下すという権利をそこに保証されているということではないか。でなかったら、おこなった行為に関しては、例えば心を失うことを拒否した、図書館の司書の娘の母親と、主人公である「僕」との間に、どれほどの差があるというのだろう。
 もしもこれが「ハードボイルド・ワンダーランド」の主人公である「僕」の意識の世界なら、「世界の終わり」での僕を主人公と定めることができるのは、「ハードボイルド・ワンダーランド」の「僕」しかいない。
 だが、「ハードボイルド・ワンダーランド」において、主人公の脳内で第3回路へのスイッチが入る以前の段階から、「世界の終わり」なる物語は展開される。まだ何も起きていないのに、「ハードボイルド・ワンダーランド」の僕が、例え無意識であるにせよ、第3回路内での主人公を決定するなどということができるはずがないのだ。

 従って、こう言わねばならない。「世界の終わり」が「ハードボイルド・ワンダーランド」の主人公の意識の中で展開される物語であるとする、例えば福田和也が『作家の値うち』で示したような「パラレルにまったく別のストーリーが進行するという形式の中で、意識と現実を貫通するアイデンティティーの確立を問うた」といった見解を、そのまま2つの物語の関係として読むような読みは、誤りである。
(ただし、福田和也がここで「意識と現実」という言葉を「『世界の終わり』と『ハードボイルド・ワンダーランド』」と等号で結べるものと考えているかどうかは定かではない)

●結びとしてのひとつの試論


 この小説をどう読むか、という問題のひとつが、2つの物語世界の対置のさせ方だとするなら、それを「ハードボイルド・ワンダーランド:世界の終わり=外部:意識」という比率でもって片づけることは適当ではない。
 なるほど、「ハードボイルド・ワンダーランド」が、「世界の終わり」より、とても現実味にあふれた物語であるのは明らかだ。だが、それをもって、2つの物語を「現実の物語と意識の世界での物語」という関係性の中に置くことはできない。現実味にあふれるということは、特に何かを(例えばそれが外部世界であることを)保証するわけではないからだ。
 むしろ、この2つの物語は、左右に等距離でもって、ちょうどステレオのスピーカーを置くようにして置かれなくてはならないだろう。

「(前略)みんながステレオで音楽を聴かなくちゃいけないという理由はないんだ。左端からヴァイオリンが聴こえて右端からコントラバスが聴こえたって、それで音楽性が特に深まるというものでもない。イメージを喚起するための手段が複雑化したに過ぎない」(第39章より)

 「ハードボイルド・ワンダーランド」の「僕」は、物語のラスト近く、図書館司書の女性から「結婚生活はうまくいってなかったのか」と問われる。それに対して「僕」は、それは物事の本質とは関係ないのだと答え、人間には大まかに言って「完全なヴィジョンと限定されたヴィジョン」の2種類のヴィジョンの抱き方をする2種類の人間がおり、自分は限定されたヴィジョンの中で生きるタイプだと答えて、上のステレオの比喩を持ち出す。
 正直なところ、いささか唐突な印象を禁じ得ない会話の流れだが、それだけに、この言葉は意味深長だ。
 まず、ステレオで左右から別々の楽器の音色が聞こえてくるということが、「完全なヴィジョン」を表していることはわかる。そして、ヴァイオリンかコントラバスのいずれかしか聞こえない状態が「限定されたヴィジョン」を示していることもわかる。そして、「僕」は、決してその限定性の中で生きることを悔やむべきことだとは思っていない。
 司書は「あなたは自分の人生についてどんな風に考えているの?」と尋ねる。それに対する「僕」の回答を、少し長くなるが引用してみよう。

「『カラマーゾフの兄弟』を読んだことは?」と私は訊いた。
「あるわ。ずっと昔に一度だけだけど」
「もう一度読むといいよ。あの本にはいろんなことが書いてある。小説の終りの方でアリョーシャがコーリャ・クラソートキンという若い学生にこう言うんだ。ねえコーリャ、君は将来とても不幸な人間になるよ。しかしぜんたいとしては人生を祝福しなさい」
 私は二本めのビールを飲み干し、少し迷ってから三本めを開けた。
「アリョーシャにはいろんなことがわかるんだ」と私は言った。「しかしそれを読んだとき僕はかなり疑問に思った。とても不幸な人生を総体として祝福することは可能だろうかってね」
「だから人生を限定するの?」
「かもしれない」と私は言った。「僕はきっと君の御主人にかわってバスの中で鉄の花瓶で殴り殺されるべきだったんだ。そういうのこそ僕の死に方にふさわしいような気がする。直接的で断片的でイメージが完結している。何かを考える暇もないしね」

 「限定されたヴィジョン」の中で生きる「僕」の人生とはどのような人生なのだろう。それは「そうかもしれない」と「よくわからない」が口癖となるような人生だ。彼自身の言葉を借りれば「誰でも入れるし、誰でも出ていける」という利点がある。
 しかし、同時にその利点は、離婚した妻に象徴されるように、さまざまなものを失わせる結果をも生む。
 地下探検で「僕」は、少年時代に見たダム建設のニュース映画の中に、みずからの影が水にのまれていくさまを見ていたことを思い出す。影はもちろん、暗喩にすぎない。第25章の末で博士の言う「しかしあんたはその世界で、あんたがここで失ったものをとりもどすことができるでしょう。あんたの失ったものや、失いつつあるものを」という言葉に示される、「失ったもの」の暗喩だと考えるのが当たっているだろう。
 しかし、博士の言う「ここ」とは、どこのことなのだろうか?

 司書と会話を交わし、別れた後、「この何日かではじめて私はこの世界から消えたくないと思った。」と述懐する。「私はたしかにある時点から私自身の人生や生き方をねじまげるようにして生きてきた。そうするにはそうするなりの理由があったのだ。他の誰に理解してもらえないにせよ、私はそうしないわけにはいかなかったのだ」と述懐し、そのことによって「あまりにも多くのものを失ってきた」が、それでも、「私の中には失われたものの残照がおりのように残っていて、それが私をここまで生きながらえさせてきたのだ」と語る。
 少なくともこのとき、彼が「あまりにも多くのもの」を失ってきた場所は、地底の暗がりの中でもなければ東京の街でもない。そこは「僕」の人生である。そして、それはおそらく「ハードボイルド・ワンダーランド」という物語そのものだ、とも言い換えることが可能だ。

 一角獣の頭骨という形で暗号化された自我のかけらを読み解く、「世界の終わり」の夢読みとしての「僕」が、「ハードボイルド・ワンダーランド」のシステム内では「記号士」と呼ばれねばならないことは先にも述べた。「ハードボイルド・ワンダーランド」では、暗号化された情報を読み解くのが記号士の仕事だから、「世界の終わり」の「僕」が、「ハードボイルド・ワンダーランド」で夢読みと同じことをするなら、それは記号士と呼ばれるわけだ。
 「ハードボイルド・ワンダーランド」は、さまざまな小道具によって現実感を保ちながら、それでもなお、「僕」の言葉を借りるのなら「よくわからない」ものが多すぎる世界だ。やみくろ・記号士・「組織」と「工場」…。それらは暗喩として何を象徴しているのか推察することがもちろん可能だが、しかし、問題はそれらの意味ではなく、そこまで暗部を抱え込んで、それでもなお、これが外部世界だと強弁することが可能なのかどうかである。

 確かに、それを否定しきることは難しい。
 だが、ひとつの解釈として、「世界の終わり」が記号士の側から見た物語だった、と仮定する時、「ハードボイルド・ワンダーランド」は、「世界の終わり」の外側などではなく、「世界の終わり」と等価のものとして見えてくる。
 ステレオの右側と左側のように、「ハードボイルド・ワンダーランド」と「世界の終わり」もまた、「完全なヴィジョン」の右側と左側に過ぎない。
 そしてこのとき、2つの世界を統括する主体として、2つの物語の上部にある一人の個人として、作家としての村上春樹が初めて我々の前に姿を現すのである(あるいは村上春樹が想定した一人の上部存在が)。
 少しわかりづらければ、いささか正確さには欠けると思うが、こう言い換えてもいい。「世界の終わり」と「ハードボイルド・ワンダーランド」は、それぞれ、ある一人の人間の「無意識」と「意識」の世界であり、必然的に、その両世界をひとつの肉体のもとに併せ持つ個人が想定される。それこそが村上春樹である(あるいはその人物を作り出した者こそが村上春樹である)、と。
 博士の「『組織』と『工場』は一人の人間の右手と左手だ」という意味合いも、これで理解できる。

 2つの物語は、ともに印象的な終焉を迎える。
 「ハードボイルド・ワンダーランド」では、みずからのねじれた人生や生き方によって失ったものを一度リセットして取り返すのではなく、失ったままで、その残った人生引き受けたい、と言いつつ、「僕」は眠りにつく。その最後に、アリョーシャの気持ちを少しだけ理解しながら、出会ったさまざまな人々に祝福を与える。
 一方、「世界の終わり」では、この世界を生み出しているのが自分自身であることに気づいた「僕」が、影だけを町の外へと逃がし、自分は森へと追放されるにせよ、この世界に残ることを決意する。
 共通するのは、2人の「僕」がともに、「そうなったこと」をそのまま引き受けるのが、自分の人生への責任の取り方であると考えている点だろう。
 そのことによって、何が実際に起きているのかをここで問おうとは思わない。それはやはり、ひとつの自我のあり方というものに対するひとつの答えでしかないのだから、例えば推理小説で刑事が犯人を捕まえました、といった画然とした解答があるわけではないのだ。
(これまで無意識としてきた領域に気づいたことで、意識の世界の「僕」は死に、新たな自我として再生される、というようなことの成り行きを想定することは可能かもしれないが、それにどの程度の意味があるのかは大いに疑問としたい)
 だが、少なくとも、村上春樹が長く問題としてきたアイデンティティの問題への、この時点での彼なりの結論であることは予感されるし、また、それなら、我々読者は、その結論に総体として祝福を与えるくらいしか、できることはないのではないだろうか。
 「誰も私を助けてはくれなかった。誰にも私を救うことはできないのだ。ちょうど私が誰をも救うことができなかったのと同じように。」という「ハードボイルド・ワンダーランド」の「僕」の言葉は、そのまま、作者と読者の間にも援用されて生き続けるのである。
(2003.1.12-14)


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『神の子どもたちはみな踊る』
 (新潮社
 2000年2月刊)
 神戸大震災の後を舞台に、あの震災とはあんまり関わり合いにならなかった人たちを主役として描いた連作短編集。
 平成7年という年については、何かを語らなければならないと思い続けている。1995年。
 神戸で地震があって、ウィンドウズ95が発売されて、オウムが地下鉄でサリンを撒いた挙げ句に警官隊に突入され、そしてエヴァンゲリオンが始まったあの年。あれが1999年であれば、ノストラダムスの株もずいぶんと上がったであろう1年。
 それまで「絶対に何があろうと崩壊しない」と信じられていた世界の輪郭は、あの寒い朝、街などは一夜にして崩れ去るのだと言わんばかりの映像によって、僕たちの認識の中で途端にガラス細工のごときものと化した。それはもちろん、鶴見済が『完全自殺マニュアル』から『人格改造マニュアル』へと思考を押し進めたこととも無関係ではない。鶴見は、その世界の輪郭が崩れても、さらにその外側にある構造が我々を苛立たせることを我々に教える。
 しかし、今、鶴見済はさておいて、重要なのは「変革は起こりうるのだ」という救いが、あの地震によってもたらされたことだ。世界は変わりうるし、そしてまた時に、我々の思いなど無視して変わってしまう。それは、一部のマスコミがことさらに被害者に媚びて「平穏な生活も一夜にして崩れ去り」といった言説をもてあそぶのとは違い、ある者にとっては「変わりうる」という救済の声でもある。本書の第1番目に掲げられた『UFOが釧路に降りる』は、そのことを静かに語りかける。
 しかし、本書の中でもっとも村上春樹自身の声に近く、そしてもっとも完成度が高いのは、一見、不条理な寓話譚とも見える『かえるくん、東京を救う』ではあるまいか。

 信用金庫に、冴えないが実績のある取り立て係として勤める片桐の元に、ある夜、1匹の巨大なかえるが訪ねてくる。「かえるくん」を名乗る彼は人語を解し、東京に直下型の大地震が起きようとしているので、それを防ぐために地の底で地震を起こそうとしている「みみずくん」と、一緒に戦ってほしい、と片桐に頼む。それを了承した片桐だったが、「みみずくん」を退治に行く当日、仕事で恨みを買ったのか、狙撃されて昏倒し入院する。病室で目覚めた片桐は、東京に大地震が起きなかったことと、自分は別に狙撃などされておらず、路上で意識を失って倒れていたのを発見されて入院しただけであることを看護婦から聞かされる。しかしその夜に、片桐の病室に現れた満身創痍の「かえるくん」は、夢の中で片桐が「かえるくん」を応援していたことをあげて、「すべての激しい闘いは想像力の中で行われ」たこと、それゆえに片桐は十分に自分と一緒に戦ってくれたのだと語る。かえるくんはやがて分解し、ムカデや、その他の気味の悪い虫となって部屋中を這い回る。そういう悪夢から目覚めた片桐は「かえるくんが一人で、東京を地震による壊滅から救ったんだ」と、看護婦に述べ、そして「かえるくん」がもとの混濁へと戻ってしまったことを述べて、再び眠りに落ちる。
 「かえるくん」が何者であるか、まずは考えなくてはなるまい。
 彼はなにかの寓意などではない。「あなたは本物の蛙ですよね?」という片桐の問いに、「もちろんごらんのとおり本物の蛙です。暗喩とか引用とか脱構築とかサンプリングとか、そういうややこしいものではありません。実物の蛙です。ちょっと鳴いてみましょうか」と「かえるくん」は答えて、実際に「げええこ、うぐっく、げえええええええこおお、うぐっく」とボールド体で鳴いてみせるのだ。そしてまた「あるいはぼくは総体としての蛙なのだと言うこともできます。しかしたとえそうだとしても、ぼくが蛙であるという事実に変わりはありません。ぼくのことを蛙じゃないというものがいたら、そいつは汚いうそつきです。断固粉砕してやります」とも語る。
 この強い調子によって、村上春樹は安易な解釈を「かえるくんの正体」に施すことを禁止した。
 「かえるくん」とは何なのか。ある晩、アパートの一室に現れた身長2メートル近い人語を解する文学通の蛙、それはナンセンス以外ではありえないだろう。だが彼は「ぼくは純粋なかえるくんですが、それと同時にぼくは非かえるくんの世界を表象するものでもあるんです」と語る。つまり彼は、ナンセンス(無意味)であると同時にセンス(意味)でもある。むしろ、意味の総体として無意味であると言ってもよい。
 これに対して「みみずくん」は、普段は地底で「何年も何十年もぶっつづけで眠りこけて」おり「脳味噌は眠りの中でねとねとに溶けて、なにかべつのものになってしまって」いる存在だ。そして「みみずくん」は様々なものを「憎しみ」に変換して体の中に蓄えており、起きて怒ると地震を起こすのだという。ある意味においての破滅衝動とかタナトスとか、そうしたものを表象するような存在だと言えるだろう。
 そして片桐は。彼は自分をこう語る。「私はとても平凡な人間です。いや、平凡以下です。頭もはげかけているし、おなかも出ているし、先月40歳になりました。扁平足で、健康診断では糖尿病の傾向もあると言われました。この前女と寝たのは三カ月も前です。それもプロが相手です。借金の取り立てに関しては部内で少しは認められていますが、だからと言って誰にも尊敬はされない。職場でも私生活でも、私のことを好いてくれている人間は一人もいません。口べただし、人見知りするので、友だちを作ることもできません。運動神経はゼロで、音痴で、ちびで、包茎で、近眼です。乱視だって入ってます。ひどい人生です。ただ寝て起きて飯を食って糞をしているだけです。何のために生きているのか、その理由もよくわからない」と。しかしかえるくんは「あなたがぼくのうしろにいて、『かえるくん、がんばれ。大丈夫だ。君は勝てる。君は正しい』と声をかけてくれることが必要です」という。
 片桐が選ばれた理由は明白だ。彼が、自らのべるような取り柄のない人物で、普段の仕事で暴力団に銃を突きつけられても「今ここで殺されたところで、誰も困らない。というか、片桐自身、とくに困りもしない」と思うような人生を送っているからに他ならない。
 東京に大地震が起きる。そこでそういう人物が、破滅衝動ではなく世界の意味の方を「正しい」と支持できるのか。
 ここで問われているのはそういうことだ。そして片桐は、それを支持することを夢の中で選んだ。
 世界の意味は、総体でなくなって、それぞれの、例えば森さんが首相である意味とかミロシェビッチがのうのうと生き延びている意味とか学校教育に対する基本方針の意味とかになってしまえば、おぞましいムカデの群れのような混濁した代物に過ぎない。だから、闘いの後にかえるくんは分解して虫の群になる。だけれどもそれが生きるということであり、それを選択するしかないのだと、村上春樹は言う。
 彼の結論がどこまで正しいかは別として、そこには村上春樹自身の呻くような決断と結論がある。

 ちなみに、「かえるくん」の語は、『かえるくん、東京を救う』の2ヶ月前に発表された、本書の表題作でもある『神の子どもたちはみな踊る』にも、主人公のあだ名として登場する。この作品でのいささか曖昧ながら爽快感のある結論が発展したのが『かえるくん』だと言えるのではないだろうか。
(2000.10.31)


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村上春樹

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