ジル・ドゥルーズ |
『ヒューム』 (アンドレ・クレソンとの共著 ちくま学芸文庫 2000年2月刊 原著刊行1952年) |
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●理解が追いついてませんがやや憂鬱な気分でエディタを立ち上げたわけである。読み終わって1日おいて、自分なりに内容を整理しようとしても、いっこうに整理できた気がしない。 というのは要するに内容が十全に理解できていない証左であって、ひとえに僕の訓練の足りてなさを嘆くのみである。 自分なりに整理できたことを簡単にまとめてみよう。 まず、本書は、ドゥルーズが、その初期にアンドレ・クレソンなる人物と共著の形で書き下ろした、ヒュームについての入門書である。訳者は、レヴィナス研究の俊英として著名な合田正人氏。ちなみに、僕の本棚にも、氏の『レヴィナス』が並んでいるが、まったくもって勉強不足なことに、いまだに読んではいない。 共著者であるアンドレ・クレソンは、思想界では無名の人物である。そのクレソンとドゥルーズの共著という形態について、合田氏は解説の中で、原著の出版元であるフランス大学出版会が、まず「『哲学者たち』叢書の一冊として(中略)本書の執筆をアンドレ・クレソンに依頼した。その一方で、フランス大学出版会は、指導教授など第三者の推薦があったのだろうが、四八年から五二年のあいだに、ドゥルーズの修士論文の出版を引き受ける。クレソンの原稿がほぼできあがった段階で、フランス大学出版会は何らかの理由で、ヒュームを研究しているドゥルーズという若者がいるから何か手伝わせようか、とクレソンにもちかけたのかもしれない」と、その経緯を措定している。 むろん、この憶測は根拠のないものではなく、そのヒューム理解のスタンスが、第2章まで(クレソンが執筆したと措定されている)と第3章以降(ドゥルーズの執筆が措定される)で異なっていること、そして、第3章以降に、ドゥルーズの他のヒュームについての論考(1972年シャトレ編『哲学史』の「ヒューム」、および、本書の翌年に上梓されたヒューム論『経験論と主体性』)と、非常に似通った文章が見られることから、本書の執筆者は第2章と第3章の境界でもって、はっきりと二分されている、との見解が前提となっている。 余談だが、僕はこういう、本文異同から著者や年代の割り出しをしていくという作業が割に好きだったりする。もともと大学時代に似たようなことをやったせいだろうが…(ホントに余談やな)。 この合田氏の説をそのまま鵜呑みにしろというわけでもないのだが、本書はおそらく、「第3章以降がドゥルーズの執筆部分」という区分けを前提にして読み進めた方が、楽に読める。 十分に理解できてないとはいっても、やっぱりちょっと、前半と後半で受ける印象にちぐはぐなところが出てきたし、十分に的を絞った読み方ができない、ということもある。 本書の構成は確かにちょっと異常で、第1章「ヒュームの人生」、第2章「哲学」で、ヒュームについてのあらましを概括。きわめて短い第3章「業績」でヒュームの著書を並べて、さてこれで終わりかな、と思っていると、第4章を「業績補遺」として20ページにわたり、ヒュームの「本性」や「主体」など、主要な概念について、再び火がついたかのような勢いで語るのである。 そしてその後、「ヒューム抜粋集」として、ヒュームの著書からの短い断簡が並び、合田氏による解説、ということになる。といっても、本文165ページ、うちドゥルーズの執筆したと思われる部分が30ページに対して、合田氏の解説が96ページであるから、実はこの解説が、本書のもうひとつの目玉であると言っていい。 ドゥルーズのヒューム理解については、宇野邦一氏の『ドゥルーズ 流動の哲学』の感想でも取り上げたが、今は、本書からそれ以上の知識を得ることがまだできていない状態なので、ここで何か述べるのは差し控えよう(本書のドゥルーズ執筆部分については、後日、また読み直すつもり)。 ●実存主義とヒュームドゥルーズは、その初期に、ヒューム、ベルグソン、ニーチェといった思想家たちについての書物を書いている、本書が1952年、ドゥルーズが26歳の頃の執筆になるが、その翌年にはヒューム論『経験論と主体性』、続いて1956年には論文「ベルグソンにおける差異の概念」、少し時間をおいて1962年には『ニーチェと哲学』といった形で、この時期、ドゥルーズが主たる研究対象としていた思想家が、一定のベクトルをもって移り変わっていたことを示している。 そのベクトルについて、篠原資明氏は次のように語る。 二十八歳という若さでヒューム論を出すというのも、ある意味で奇妙なものを感じるが、それ以上に、これら三人の哲学者が指し示すものに思いいたらずにはいられない。それは、「自然」としかいいようのないものである。 ヒュームの主著『人間的自然論』、『自然宗教に関する対話』に見える「自然」についてはいうまでもないこととして、ベルグソンもニーチェも、ともに生命的自然の思考者だったことを考えればよい。 (中略)どうして、このことが奇妙に映るかといえば、ほかでもない、同時期にドゥルーズが筆をとった書評のたぐいが、その理由の一端を示している。 (中略)一九五三年から五七年にかけて、ドゥルーズが書評でとりあげた、これらの書物からうかがえるのは、時代は実存主義のものだったということだ。 (「現代思想の冒険者たち25 ドゥルーズ」序章「逆説的な思想家」p.12〜14)
実存主義については、この文章に続けて篠原氏は「実存主義といえば、自然から、ある意味で根こぎにされた人間存在のあり方を共通のテーマとするものだった」と簡単に説明をしている。 しかし、あらかじめ実存主義を知っている人間でないとこれだけの説明ではニンともカンともであろう。ちなみに、「カンとも」で、ドゥルーズとも縁の深い「カント」とかかっているジョークであることに留意されたい。 実存主義は、トマス=アクィナスが、ものごとの「本質」と「存在」は別々のものであると考えたあたりに、その淵源をさかのぼることができる。「存在」とは、要するに、実際にこの世界で、ある事物が存在しているようなあり方のことだ。 この考え方が20世紀になって、キェルケゴール、ヤスパース、さらにはハイデガーやサルトルらによって深く突き詰められ、実存主義という一派が誕生することになる。 篠原氏が言うのは要するに、人間を、実際のあり方から切り離し、その本質だけを取り出して論じるのが実存主義だ、ということだと解釈していいと思う。ちょっと乱暴なまとめ方ではあるが、変に細かくなりすぎるよりはわかりやすくてありがたい。 これに対して、ヒュームは、懐疑的経験論の立場から、人間の理性そのものを懐疑する。それは要するに、人間の理性も悟性も、肉体的な触発を抜きにしては発生しえないのに、その触発と理性による認識とを分別できるはずがない、という立場だ。それはもちろん、人間の「本質」と「存在」とを区分してどちらかだけを考えることができるという、実存主義のスタンスとは相容れないと考えていい。 ●「超越論的経験論」とドゥルーズ。あるいは尻切れトンボな感想の終わりさて、本書の解説で合田正人氏は、「ドゥルーズにおける『超越論的経験論』とヒュームがどこで出会うか」を探っている、と考えていいと思う。 実は僕はこの「超越論的経験論」というのがどういったものであるのかをつかみ損ねたまま読み進めていたので、あとあとになって非常に苦しんだというか、訳がわかんなくなっちゃったのだが、これを少し整理してみると、次のようになるだろうか。 「超越論的」とはつまり、認識論などで言うところの、ア・プリオリに看取できるような性質のことを言う。つまり、明かりが灯ればそれを「明るい」と感じるような認知は、超越論的に認知できた、ということになる。 さらにこの「超越論的」という語は、岩波の「哲学・思想事典」によればフッサールによって新たな意味が加えられたとのことであり、さらに合田氏は、ドゥルーズ、さらにはデリダが「超越論的経験論」という語彙を、ともにフッサールから引き出してきたものであると結論づけているので、フッサール的な意味合いについても引用しておこう。 フッサールの場合には、すべての体験が意識と世界、内在と超越とを不可分に結びつける志向的構造をもつとされ、体験に志向的構造を与えているすべての契機が超越論的とよばれることになる。 (「岩波哲学思想事典」の「超越論的」の項目より。この項の執筆は村田純一)
つまり、あらゆる体験は超越論的なのだ、ということらしい。 物に触ればそれが「ある」と理性は判断する。本当にそれが「ある」かどうか確かめる術はないのに。 「『超越論的なもの』の(再)発見こそ真に新たなものの経験、いや端的に『経験』であるというこのフッサールの指摘」(本書解説p.186)こそ「超越論的経験論」であり、それはつまり、「なぜ物に触ったとき、人はそれが『ある』と判断できるのか」を問い直すような哲学だ。 そこから「存在とは何か」を問い続けたフッサールの弟子ハイデガーまでの距離は短いようで長い。なんせ、フッサールの定義の段階では、人間の「存在するという認知」が問題とされているので、その認知があったからといって「存在」そのものまでは確かなものとはなっていないからだ。 ともかく、そうした「超越論的経験論」とヒュームの経験論とが非常に親近性を持っていることは確かである。そしてその立場に立ってヒュームを眺めたとき、そこに実存主義に抗することのできる徹底した懐疑を発見し、理性による分別をひとまずチャラにできる「自然」を見いだすのは、篠原氏の言うように、「思いいたらずにはいられない」ほどかどうかはともかく、納得のいく話である。 以上で、本書の感想は終わる。自分の理解不足を露呈しただけに終わった気もするが、いずれ、また勉強し直すつもりではあるので、今はひとまず、この辺で勘弁していただきたい。 (2003.9.22-23) |
『ニーチェ』 (ちくま学芸文庫 1998年5月刊 原著刊行1985年) |
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ニーチェについては、実はそれほど良く知っているわけではない。というより僕は、この年になるまでどうも哲学とか思想というものには手を出せずにいて、昨年の9月、卒論の脱稿を契機に、いくらかの解説書などを買って、ようやく思想というものを勉強してみようと思い立ったという、言ってみれば僕の最も嫌う、半可通的青二才に過ぎない。 とは言え、「フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ」は現在の日本人にとって、もっとも馴染みの深い哲学者の名前であるには違いないだろう(しかしなんとも大仰な名前ではある。フリードリヒ大帝とヴィルヘルム皇帝の名を取り込んだがごとき名前は、アガサ・クリスティの「ABC殺人事件」での哀れな「アレクサンドル・ボナパルト・カスト」氏を思い起こさせる)。 ニーチェの名は、芥川龍之介によって日本に広く知らしめられた。それはちょうど、鴎外・逍遙によってゲーテ(鴎外の用語に従えば「ギョオテ」)の名が知らしめられたのと同様である。ちなみにこうした日本的な思想紹介の系譜は最近まで続いていて、例えばサルトルなど、大江健三郎がいなければ、もっと日本では名を知られなかったに違いない。日本人にとって、思想というのはまだかなりの部分、「舶来物」なのかもしれないと暗い気持ちになったりもするが、現在の僕は、あるいは浅田彰や東浩紀といった人々が、それをひっくり返してくれるだろうかと、淡い期待を抱いてもいる。 いずれにせよ芥川は、ニーチェの著作『人間的な、あまりに人間的な』をもじった『文学的な、あまりに文学的な』を評論集の題名につけ、あるいはそれまでの日本には無かったアフォリズム(短い警句)を『侏儒の言葉』のような形で取り入れるなど、ニーチェをさかんに取り入れた創作活動をおこなった。 それはとりもなおさず、ニーチェに芥川が共感したこと、ということはつまり、ニーチェが高らかに「神は死んだ」の言葉で宣言した「近代の始まり」を、芥川が大正期日本に感じていたことを表す。 ニーチェがその始まりを宣言した「近代」とは、もはや神を信じられず、さりとて人間の理性が神の役割を背負い込むことには限界があるのだと知ってしまった時代。「どうなっていくのかわからん」という不安の時代に他ならない。そしてまた芥川を殺したのも、そうした「ぼんやりとした不安」に他ならないのではなかったか。 そしてまた、ニーチェと芥川とは、非常に複雑な内容を、簡単な言葉で解説するという能力に長けており、それゆえに大衆に広く読まれるようにはなったが、その大半の読者に、作者の真意を読みとられない、という悲劇を背負い込んだことでも共通する。 僕を含め、ほとんどの読者は、ニーチェにしろ芥川にしろ、その本を読んでも「理解したつもり」にはなれても、本当の意味では「理解」できない。 ニーチェは他の哲学者の、例えばハイデガーやヴィトゲンシュタインのように、難解な用語で難解な思想を表現するということをしない。ニーチェの用語はどこまでも日常的で、そうした用語で、複雑に思想的な冒険をしている。 だからこそ我々は、ドゥルーズのような、それ自体で優れた思想家が、道案内として立ってくれることをありがたく思うのだ。 ドゥルーズは、自らの理論を補強するかのように、ニーチェというテクストを軽やかに渡り歩く。ドゥルーズの読解は「永遠回帰」という有名なニーチェの概念をいかに解釈するか、という所に焦点が絞られていると言っていい。 ドゥルーズは、「永遠回帰」とは輪廻のような「同じものが繰り返されている」という概念ではなく、「全部が、どこでどの選択をするか、という自由までを含めた全体が、繰り返される」ということだと解説する。「選択の自由」までを含めた〈反復〉により、〈差異〉は生成されるのだ(〈 〉内はドゥルーズの用語)。 こうしたニーチェ読解は、より強くドゥルーズ思想についての解説でもあるが、しかしそれはドゥルーズの立場に立ったニーチェ読解であることにはかわりがない。 ドゥルーズもそれはよくわきまえていて、前半でひとしきり、ドゥルーズ自身の言葉での説明をした後、後半ではひたすら、ニーチェのテクストを任意に並べることで、「ニーチェ読解」の実地訓練を読者に行わせる。 たしかに、前半の説明を踏まえることで、ニーチェのテクストは理解しやすくなるのだ。 そこに、ドゥルーズ的ニーチェ読解が存在する。 ならばあとは、こちらがそれを、どうとらえ、新たにどのような解釈を生成するか、という問題だ。そうして〈反復〉される読解から、〈差異〉は発生してくるのである。 (2000.8.19) |
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