谷川健一



『日本の神々』
 (岩波新書
  ****年*月刊)
 例えば、ひとつの研究書なり論文なりを読むとき、あらかじめ、研究の対象となっている事柄に、自分なりの知見を持っているといないとでは、読んでいるときの深度がずいぶんと違う。これは当然のことでありまして、仮にも専門家を目指そうというなら、まずは、その自分なりの知見というものを、どうにかして構築することが第一歩であると言えるでしょう。
 例え、それが別ジャンルの知識であれ、借り物の発想であれ、何かベースがあるのは、少なくとも無いよりはずっといい。ま、出来ればちゃんとしたものを用意したいところですが、もしかすると、「ちゃんとした知見」などというものは、一生手に入らない類のものであるのかもしれません。
 さて、ずっと以前に読んだ「日本の地名」「続日本の地名」での、地名という形で無意識下に受け継がれてきた民族の記憶をたどる、という路線を継承しつつ、記紀の成立によって国家政策的な一本化がなされるまでの日本における神・宗教について、その残された足跡を拾う本書ですが、今回本書を読むにあたっては、少し前に読んだ養老孟司『カミとヒトの解剖学』における、「宗教とは、その初源においては、人の知識に余るもの、不思議なものを『カミ』という地位に祭り上げ、脳が処理できるものへと変換したものだ」という認識を基盤にして読んでみました。
 こうした認識の仕方には好き嫌いがあるのではないかと思いますが、僕自身としては、割に理解しやすい考え方であったし、日本神話でやたらめったら神様が出てくる、というのも、そうすると、とにかく片っ端から神様に祭り上げてしまう、という日本人らしいお気楽さをあらわしているのかな、とふと思えたのですね。

 で、こういう宗教観というのは、本書の冒頭でも紹介されている、本居宣長の、神とは「可畏(かしこ)きもの」であるという考え方とも、おそらくは共通しているのだと思います。
 例えばそれを神様としてあがめなくても、何らかの呪力であるとか神秘性を、そこに想定する。一番いい例が出産と死だろうと思います。
 ある日突然、女性のお腹がふくれてきた、別の人間が女陰から出てくる。これは、理屈を知らないと不思議なことだと思うんですよ。性交と出産の因果関係はわかっても、「なぜ」性交によって出産が行われるのか、はわからない。まして、出産につながるときとつながらないときがあるわけですし。だから、出産については、これを聖としたかケガレとしたかはともかく(そうした分類は、おそらく後からついてきたものだと思います)、出産のための「産屋(ウブヤ)」という小屋を造ってそこで子供を産み、出産という行為を日常の場から切り離す、といった風習が各地で生まれた。
 その小屋に、砂を敷いたから「ウブスナ」という言葉が生まれたのであろうと、谷川先生は言います。なぜ砂を敷いたかについては、衛生や保温といった実利面と、ウミガメなどが海の神であった時代、ウミガメの産卵にあやかろうとする心象面があるのではないかとの由。

 そうした興味深い事例は、他の点についても数々見られますし、また「産土」のような言葉の出自をたどる中でも、その中で上古の人々が何を思い、宗教的な風習に何を託していたのかもうかがうことが出来るようになっています。
 もっとも、こうした僕にとって興味深い話が多いのは本書の中でも前半に多くて、後半はいささか興味が追いついていかなかった部分はあります。それはもうこちらの興味の持ちようという部分が多分にあるので、本書の欠点とまでは言えないでしょうが。
 古代の人々が何を考えていたか、に触れてみたい人にはお勧めの出来る本ではないかなとは思います。もちろん、本書の内容が全て正しいとは限らないのですが。
(2002.9.27)


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谷川健一

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